第7話 カメラ編(中編)
5、 TARGET5 『DINGO OF THE NYPD』
秋の空が清々しいNYの街並み。
休日の早朝、しんみりとしているはずの道路の中で、幾人の騒ぎ声が道を挟むビルに反射して響き渡った。
「クローン条例改正を早急に施行せよー!!」
「我々にも《産む権利》をー!!」
やがてその声は通りを埋めて進む大勢の人によって更に大きくなった。
「来たわね。」
通りの両側に護衛として待ち構えていた警官らが、ニア巡査部長の言葉にはっとなる。
やがて、地なりのように声をあげるそデモ隊がその間に行進し、向かってきた。
波の中で青い空の中ではためくレインボーフラッグ。白いプラカードやビラを掲げた彼らは、警官が張ったバリケードの間に入り列となって広い道路を陣取っている。
同じくレインボーフラッグを振り、応援するは両側の通行人たち。その間に構える二ア巡査部長は、取り敢えず列が乱れる事はなかったとその様子を見渡しながら安堵のため息をついた。
と、広い彼女の肩を叩く誰かが―。
「!?」
驚いて振り向くと、くせのある赤毛を持った私服の女刑事が、笑いながら手を振っていた。
「メ、メアリー!」
久しぶりね!と手をとって喜ぶニアに、メアリーも嬉しそうに声をあげてその手を握る。
「仕事中にごめんなさい、ニア。34週期が過ぎて、もうすぐ休暇に入るから、今の内挨拶しておこうと思って。」
「34周期が過ぎた…という事は。」
歓喜の声をあげてニアは飛び上がった。
「出産確定したのね!」
「うん!もうこれで流産の心配はなくなったの!」
「やったじゃん!」
「やった、やった!」
きゃぁきゃぁと盛り上がる女2人を怪訝に思う警官たちに割り込み、女性警官が次々と2人に寄ってきた。
「そうなの!?妊娠おめでとうメアリー・ヴォス刑事!」
小さな拍手に囲まれてメアリーはありがとうと笑った。
「まあ、お腹もすっかり大きくなって。」
「うん、いよいよね。」
と茶色いカーディカンの下から膨らむお腹を愛おしそうに撫でながら、メアリーは目を伏せる。
「刑事、どっちかはもう分かっているんですか?」
「うん、男の子。」
上目遣いに、メアリーははっきりした声で答えた。
「名前も、もう?」
「うん。アレックス、アレクサンドリア・ヴォスという名前にするわ。」
ニアははっと目を開く。
しかしその理由を知らない周りの警官は、ただ良い名前ねとメアリーと交互に手を取り合って祝福した。
「はいはい。ここまでよ、みんな。続きはまたあとで。持ち場に戻りなさい。」
戸惑いはそっと胸の中にしまいながらパンパンと手を叩くニアの合図に、はぁいと彼女たちは名残惜しそうにその場から離れていった。
「相変わらずね、ニア。」
とおなかを押さえながら笑うメアリーに応えずニアは、
「羨ましいわ。」とだけ呟き背を向けた。
「そんな、貴女だっていつかは赤ちゃんを…。」
とバリケードを境に紺のジャケットを掴むも、ニアの、
「あんたと違って相手は男じゃないの。」という言葉にはっとなって手を離した。気まずい沈黙に通り行くデモ隊の声が響き渡る。
「バイオテクロノジー法改正要求…ゲノム組み換えによる出産、人間単為生殖を認めよ、か…。」
プラカードに書かれた言葉をぼそりと呟いた時、
「メアリー、ヘテロのあんたとしてはどう思う。」と問いた。
「えっ。」
「卵子と卵子のゲノムを掛け合わせ、子どもを作る。そんなやり方をあんたは非人道だと思うかい。」
俯き、切なきに呟くニアの言葉に途端メアリーは困惑する。
しかしやがてお腹に置いていた手をきゅっと握り、虹色の紙吹雪が舞う中で後ろからニアの肩に手を置いた。
「そんな事ないわニア…。この身で宿しているからこそ分かるのよ。愛している人との子どもを持つって事がどんなに尊く、美しい事か。それを欲する気持ちを「やり方」が違うだけで否定するなんて、そっちの方が、間違ってるわ。」
母となるメアリーの言葉にニアに振り向く事なく、俯いた。しかしそれでもメアリーにはニアが泣きそうになるのをこらえているのだと分かっていた。
「…改正、施行されると良いわね。」
「…ええ。」
互いに並んだまま、デモ隊を見守る2人であった。
ふとメアリー刑事が自分をみる視線に気付いて横を見る、とそこに2人を優しく見守るメガネをかけた青年がいる―。
「ヨ、ヨーナスくん!?」
「やっと気付いてくれましたか、さっきからいましたよ。ずっと。」
ひどいなぁと笑うメガネの奥の穏やかな黒い瞳が、昔を思い起こす。その愛おしさにメリーは彼の大きな両手を取った。
「久しぶりね!ヨーナスくん!部署が違うからなかなか会えてなかったけど、見ない間にすっかり立派になって!」
順番は逆ではあるが、遂にここでジョージに次いでの主要人物、NYPDのディンゴ、ヨーナス巡査の登場である。
26歳となったヨーナスは今でも巡査の立場を貫き通しているものの、
5年前の新人らしい態度も今は薄れ、メアリーの目前で後輩たちの良い先輩としての威厳を放っていた。
「髪が少しのびたわね。」
つんとのびるヨーナスのオールバックの前髪をなでるメアリー。
「ええ、カレルさんの影響を受けて、ですね。」
というヨーナスの言葉にメアリーは驚いた。
「カレルってあれ?FBI捜査官のカレル?」
「そうですよ。実は5年前の事件をきっかけに、互いに知り合う事になりましてね。」
ふっともの寂しく笑うヨーナスにメアリーは優しく頭を撫でた。
「そういえば私もポールとは、あの墓参りの時がきっかけだったものね…。」
「やっぱあれかい?メガネの話で盛り上がったのがきっかけかい?」
すると横からニアが前を向いたまま呟いた。
「何でそうなるんですか。いくら同じメガネかけてるからって。」
「あら、違うの?」
「…フレームの色についてがきっかけです。」
「「やっぱメガネじゃ~ん!!」」
デモ行進の脇で手を叩いて笑う2人に、頬を膨らませるヨーナス。一方ひいひい息を切らしながら涙を吹くメアリーはせっかくの機会にとヨーナスに気になっていた事を尋ねた。
「そういやさ、ヨーナスくん。最近ジョージくんの様子はどう?私3年前から全く聞いてないのよね。」
その言葉にニアとヨーナスは互いに顔を見合わせ、共に苦笑いをして答えた。
「「いや、実は私たちも知らなくて。」」
「えーっ!」
見開くメアリーに背を向けヨーナスは腕を組む。
そしてデモの騒音の隙間から、2人だけに聞こえるようこっそりと呟いた。
「実は3年前の国旗団事件からしばらく、私は急にジョージさんのバディーから外されてしまったんですよ。いや、どちらかと言えば忽然とジョージさんだけがすっぽりプラザから抜け出してしまったという感じなんです。
それは丁度ウェッブ殿が、副コミュシュマーに格上げになり、教導担当委員長の座を離れたすぐの事でした。」
「ウェッブの差し金ではなかったという事になるわね。」
ニアも腕を組んで目を伏せた。
「私もアルバから事情を聞こうと連絡をとってみたけれど、事情が事情で言えないって言われたわ。でも心配ないって。「あのジョージが大人しく従う事だ。本人にとって悪い話じゃねぇはずだ」って。」
「ジョージさんにとって良いことが、私たちにとってとは、限らないんですけどねぇ。」
「「確かに。」」
メアリーを中心に三人が笑った。
「……はっ!?」
と、突然ヨーナスが真顔になって空を見上げた。辺りをキョロキョロと見渡し、紺のジャケットが空を舞う。
「どうしたのヨーナス。」
「いえ…何か今、軽蔑…いや激しい憎悪の眼差しで私たちを見る視線を感じて…。」
汗をかき辺りをぐるりと周りながらヨーナスは目を左右に向ける。しかし彼の周りを取り囲むのはデモ行進と、それを応戦するレインボーフラッグを振る男女ばかりだ。
「紛れてしまった…?」
「やだわ、ヨーナス。東洋のいう「気」を読む能力が貴方にも備わったというの?」
「ほらあれですよ。高珊ちゃんと以前はよくチャイナタウンで一緒に修行してた時にでも…。」
くすくすと笑う2人を余所に、ヨーナスはさっきの残照を思い浮かべながら額を拭いた。
「何だったんだろ…。あの指すような視線…群青…いや、違う。あれは翡翠色の…。」
7、TARGET6 『CONDOR OF THE CRAPA』
夜のNYのブロンクス、中流階級の家が立ち並ぶ住宅街の一角。
その中にある白い家に、ダンボールに囲まれ荷造りを始める女がいた。
そっとダンボールにテープを貼り付け顔をあげると、向かいには同じような形を家の窓が開けっ放しになっており、明るい黄色に写された屋内にはレインボーフラッグを持ち、プラカードを掲げて片付けをする家族が見えた。
「そうか…今日のデモは終わったのか…。」
屈んでいた腰をあげ、忌々しそうに窓に手をかける。と視界の左側で芝生を踏み、玄関のドアへと向かう誰かを捉えた。声をあげる前に鳴り響くイヤホン。
怪訝に思いながら女は部屋を出て玄関へ向かう。白いドアを開くと、そこには玄関ランプの真下に立ち、影を作って笑うポニーテールの女、イゾルデがいた。
「…誰だ。」
警戒心を出した言葉に構わず、イゾルデはぬっと顔を突き出して笑う。
「初めまして。ジュリア・アモローソさん。」
「な…!?」
ポストには名字しか書いてないというのに―、驚く女の面前にイゾルデはにっと笑う。
「突然お訪ねしてすみませんジュリアさん。実は私、ジョージ・ルキッドさんについてお聞きしたい事が幾つかありまして―」
言い終わらない内にドアが、風圧を潰すよう乱暴に閉められる。
「おおっと、ちょっと待ってよ。」
が、鈍声と共に隙間に入り込んだイゾルデの靴がそれを止めた。
「そんな門前払いする事はないじゃないですか。ジュリアさん。いいえ、元カパルの用心棒「コンドル」さん。」
「…貴様。何故それを知って…。」
思い出したくない言葉に女―、ジュリアはきっとイゾルデを睨む。
一方それを淡々と見下ろし、イゾルデは言葉を進めた。
「何もって、貴女がギャング時代に色々と世話させたとジョージさん本人から聞いた事ですよ。」
「そんな馬鹿な…!だってジョージは…!」
「3年前から連絡がとれないのに、という事でしょ?」
ジュリアはそうだ、と声をあげる。それをイゾルデは首を振って否定した。
「私の場合は例外なんですよ、ジュリアさん。幾ら警察だって、ジョージとの逢い引きを邪魔するような野暮ったい事はしませんわ。」
物あり気な微笑み方に、ぴたりと動きを止めたジュリアはかっとなって噛み付いた。
「そんな、嘘だ……!嘘だ、嘘だ!ジョージが恋人なんか作るものか!だってあいつは…!あいつは…!」
「脚の付け根に痣があるから、作らないと?」
と、イゾルデが顔をそむけつつ横流しに伺った時、ジュリアの顔は愕然としていた。
「そんな、キズじゃなかったか・・・!?」
その言葉にふうっと息を吐き、イゾルデは口角をあげる。
「あら、キズでしたか。私が見た時には痣にまで治ったのかもしれませんわね。」
と、瞼を揺らがし、翡翠色の目を細めて笑って言った。
「あの色白で細い身体に皮肉な程、似つかわしくない赤黒い痣。猟犬の脚に、猫の尻尾のように絡みついた痣は、それはそれで色っぽくてそそりはしたけれどねぇ。」
大きな胸の下に腕を組み交わし、淡々とした口調で見下ろす仕草と、その生々しい裏声をあげる物言いにジュリアの背中に言いようのない震えが走った。
「脚のつけ根ですよ?それを「女」としてこの目で見た私が、彼とどういう関係にあったかはもう想像つきますよね?」
翡翠の瞳を差して笑うイゾルデに、ジュリアはやがて観念したようにドアをゆっくりと開いた。
暗がりの中にいるジュリアの顔は影を差し、悲しげに沈んでる。
「…入りな。足の治療位はしてやるよ。」
「え…?」
やがて、そう言われ痛みに気付いたイゾルデは、それに顔を歪ませる。
血に滲んだイゾルデの靴を見ながら、ジュリアは奥の階段へ指さし彼女の手を引いたのであった。
***
2階に上がった先は窓が開きっぱなしのリビングだった。そこも幾つものダンボールに囲まれて殺風景である。
「…引っ越しするんですか?」
と冷たい椅子に座り、イゾルデはあたりを見渡して訪ねた。
「…ああ。イタリアに明後日にね。どちらかと言えば里帰りに近いかな。」
とそっと答え、1つのダンボールから救急箱を取り出しジュリアはイゾルデの足元に手をついた。
「…寂しくなりますね。ジョージも…。」
「どうだかね。あいつはあたし程、思い入れはないと思う。」自嘲気味に口角をあげた。
「好きだったんですか?」
「ああ、好きだ。大好きだった。初めて彼と目を合わせた時からずっとね。」
物ありげな言いようにイゾルデは唾をのむ。
「そう…そうです。ジョージの恋人としてそういう話を聞きたかったのです。昔のジョージはどういう人だったのです。本人に聞いても躊躇するばかりで聞くなら貴女に聞け、と言われたので、ここに。」
「そういう事だったかい。はっ。確かに、あんまり自慢だって話す過去でもないからね。」
と一旦冷ややかな目で横流しに、口角を歪めてジュリアは言った。
黒いストッキングを脱がし、思った以上に深くめりこんでいた傷口にジュリアは戸惑う。その謝罪の意を込めた告白を、イゾルデは今か今かと唇を引き締め、待ちかまえていた。
「…あたしがジョージと初めて会ったのは17歳の時だ。」
そしてついに、ジュリアはぼつりぼつりとその話を始めた。
「今から23年前、場所はイタリアのナポリ。マフィアに入る事を決めて義父のファミリーと顔合わせした時の事、義父の愛妾に抱かれ、上品な絹衣にくるまれていた金髪碧眼の赤ん坊―、そいつがジョージだったんだ。」
「と、いう事は、ジョージはジュリアの義弟…!?」
「違う違う。人種が違うだろ。」
ジュリアは一瞬可笑しい事を言うなと呟いて笑い、ぶんぶんと首を振って否定した。
「とにかくだ。胸が開いた艶めかしい深紅のドレスに、きつい薔薇の香水、不釣り合いな真珠のネックレスをつけたあの、母の敵でもある愛妾にはそれはえらい嫌悪感がわいたものだったが、その腕に抱かれた赤ん坊は皮肉な位綺麗だったんだ。透き通った金髪の隙間から宝石のような青い瞳であたしを映して笑った時はもう―、ここまで心が震えた事はなかったよ。」
その小さな手で頬をペタリと触られた少女の時の感触を思い出し、ジュリアは笑った。
「そう、言うならばあいつは、マフィアという名の獣の群に入り込んだ子犬のようなものだった。ライオンの中に子猫を入れたらライオンが猫の世話をする例があるように、ジョージはその唯一の「金髪碧眼の子ども」という立場から、男をとりまく女たちにそれはもう可愛がられたものさ。そうして奴は苦海の世界でも生き延びる事が出来た。」
ジュリアのつらつらと語るその背景には壮絶なものがある。経験者の口から生々しく語られるそれにイゾルデも何か黒くドブのようなものを飲み込んだ心地に駆られつつ、肩を揺らして落ち着かせた。
「・・・『可愛らしさ』、生まれた時からジョージは「武器」を持っていたんですね。」
「なかなか面白い事を言うね、君も。」
と、ジュリアは目を伏せながらイゾルデの足指にオキシドールを垂らす。ちらりとした痛みを噛み締めて耐えていた。
「しかしそれが後に仇となる。段々大きくなっていくジョージを女たちは庇護の対象ではなく、一人の異性―まあ、いわゆる性の対象として見るようになっていったんだ。
でもな、いくら成長したといってもまだ6、7歳だぞ。しかもその中に男が交じっていた、というのが命とりにもなったんだ…そして…。」
ジュリアの躊躇った言葉に、イゾルデの額にじわっと、汗が広がる。
「……今から13年前の朝、イタリアの労働者ビルに一発の銃声が聞こえた。
ゴミだらけの布団の中で一人の男が半裸のまま頭を撃たれ、血溜まりになって死んでいた。あたしが駆けつけた時、その側では虚ろな目でそれを見下ろすジョージが立っていたんだ。手には鈍く光る黄金銃が赤い血を受けて―。」
「そんな…10歳で人を……。」
「正当防衛だ。」
淀みのない声が響いた。
「ジョージとガンスミスだったそいつは、昔から良い射撃仲間でもあったんだよ。
派手好きなあいつのためにとギルデットを作ったのもその男だったというのに…。皮肉な事に彼の欲情からジョージを助けてくれたのは彼が作ったギルデット…だったなんてね。」
―そう、あれからジョージはああなっちまったんだ。
白い包帯がイゾルデの足を囲む。
「それがトラウマで何も、そして誰も信じられなくなったんだろ。それからしばらく見ない間にすっかり言葉も乱暴になったし、態度もがさつになっていた。
女たちの甘やかしで無責任で野放しにされた「それ」は、遂にあいつの《人格》を助長させたんだ。あいつのせいじゃない。すべてあいつを取り巻く環境が、悪かったんだ。」
ジュリアは眉を顰め、淡々と語った。
「ジョージの性格を気にくわない奴は確かに沢山多いだろうな。」
それにぎょっと目配せしたイゾルデにジュリアは含み笑い、そして蔑む目線で見上げた。
「でもな、これで分かっただろ。ジョージはああでなけりゃ、醜い獣に租借された血まみれの子犬のままだったんだよ。
そうなっても、ジョージを嫌う奴らはせいぜい可哀想だとか、哀れとか、妄想のタネにして自分を慰める程度しか出来ないだろう?
―役に立たない憐れみをもらうよりも、ジョージは例え嫌われても自分の価値を守るために、「猟犬」になる事を選んだ。」
―それが10歳の男の子が決意する事なのかよ。
吐き捨てるように言ったジュリアの手から、白い包帯で丁寧に巻かれた足の親指が出てきた。
「あ、ありがとう。」
しばらく放心状態で何も答えられずにいたイゾルデは、慌ててお礼を言うもジュリアはそれに答えず、その場を離れる。
「まぁ、あとせめて茶くらいはな。」
と、何もないキッチンの前にたち、やかんに水を入れた。そしてそれをコンロの上に置き、火をつける。
「ギャングあがりだから単純ではないとは予想はしてたけど、思っていたより凄まじいものだったわね・・・。」
とゆっくり息を吐いて、その音を聞きながら次第に少し心を落ち着かせていったイゾルデは、やがて机に手をつきジュリアの背中に声をかける。
もう1つ、取材として聞くべき事が残っていたのだ。
「…ジョージに…ご両親はいらっしゃるの。」
「…知って何をするつもりだ。」
「それは、当然。…挨拶をしにいくわ。結婚を承諾してもらうために。」
「結婚だって。」
ジュリアが音を立てて振り向いた。眉を顰め、目を見開く様は驚きではなく敵意を向ける顔だった。
「あんた達そこまでするつもりでいたのかい。」
「…?そうですけど、何か。」
何がおかしいのだろう。恋人である事は認めたのに。
イゾルデはジュリアのあまりの驚き様に首をかしげる。一方、ジュリアは俯き、イゾルデに言った。
「諦めろ。」
「……は?」
「遊び程度に付き合うまではいいよ。でも、結婚は駄目だ。あいつは人と結ばれちゃいけないんだ。」
「…ちょっと…!」
自分に向けるジュリアの敵意の目にイゾルデはついカッとなって立ち上がる。
いくらジョージの世話役だろうがそこまで口出す事はないだろう。と怒ってい
た。
「お前の意見は聞いてない。とにかく、別れろ。この話は以上だ。」
再び背を向け、湯気を出すやかんを見下ろすジュリアに、イゾルデは黙ったが本心のままにやがて抗議する。
「いいえ、ジュリア。これは私たちの問題でも、貴女たちの問題でもないわ。「この子」の問題よ。」
その意味を含んだ言葉に、ジュリアが背中を震わせたのが、すぐに分かった。
「・・・・私、ジョージの子どもを妊娠してるの。」
それは、ジュリアに対する怒りの意思表示であった。このまま、煽らせて言いたくない事を口走ればいい。―イゾルデは作戦の笑みを浮かべる。
「きっさま…!」
その笑みにきっと睨みつけるジュリア。
「まさか、「堕ろせ」とまでは言わないでしょうね。」
強調するように、イゾルデは言った。それにジュリアは歯を震わせながら何も言わない。その曖昧な態度にイゾルデは腕を組んでそれを軽蔑する。
「貴方みたいな女らしくない感じは好きな方だけど、そこまで女らしくないのはいただけないわ。さすがに、気持ち悪いわよ。」
「…お、お前ぇ!」
「ジョージの両親の事、教えてください。」
メアリー刑事を思い浮かべながら、それを真似するように、イゾルデはお腹をなでながら言った。
「―この子のためにも。」
つかみかかろうとしたジュリアの後ろで、やかんが沸騰の合図を鳴らす。
慌てて振り向きコンロの火を止めたジュリアはカップを取り出しながら、怒りに震える声で応えた。
「全く、…とんでもない事をしてくれたもんだね…。小娘。」
「とんでもない?愛する男と女の間に(嘘だけど)子どもが出来る事の何がとんでもないと?」
「…愛しているとかどうとかで、なんでもなる世の中じゃないんだよ!」
振り向く事なく大声で言った言葉が、イゾルデの耳につんざく程に響いた。
「貴様みたいな若造に「愛」が語れると思うな!そんな愛は所詮偽物だ。誰からか教えられた、型はまりの愛を自分の事だと思い込んで謳歌してるだけの、屑物だ!愛とかなんかで自分の行為をすべて肯定しようとするなよ!どうせ、この事を話したらあんたもさすがに考えを改めざる事になるだろうよ!」
乱暴にカップの中にお湯を注ぎ、ティーカップを放り込む。
まだ紅茶が染まってないのも構わずジュリアは机の上に大きな音を立ててイゾルデの前に茶を置いた。
そして、机の椅子を乱暴に引きながらイゾルデの向かいに座る。
細長く綺麗なうっすら火傷の跡が残る片手をカップの横に置き、ジュリアはきっ、と顔をあげた。
「本当はここまであんたを追い詰めるつもりはなかった。でも、もう子どもまで持ってるんなら、仕方がないな。これから先の話で今回は「諦める」事にしてもらう。」
「ふんっ。そんな事言われたって堕ろすつもりは毛頭…。」
「聞け。それ程の話なんだよ。」
異議を問わない冷徹な瞳に、イゾルデは真顔になって息をのむ。
それだけでその話の深刻さが伺えた。
「い、良いじゃない…聞いてやろうじゃないの…。ネタは多いに越した事はないものね。」
お腹を押さえ、震えながらも向かえうたんと構えた。
イゾルデの末路はこうして決まってしまったのである。
「…まずはこの写真を見て欲しい。」
ジュリアはポケットから何かを取り出しイゾルデに渡す。
くるくるとテーブルの上を滑った写真を片手で止めるイゾルデ。手にとったそのモノクロ写真には-、軍服を着て笑うジョージの姿があった。
「あら、そういえば久しぶりに見たわね、ジョージの姿。」
心の中でそっと呟き、その見栄えの良い出で立ちに目をほころばせる。
国旗団事件時の写真なのかしら…と思っていたが、にしては少々不自然であるのが気になった。
その写真に映る「ジョージ」は、下ろしている前髪を神経質な程にすべてオールバックにかきあげ、その顔は本当に嬉しそうな「屈託のない」笑顔である。
始めこそは、ジョージにもそういう一面もあったのだろう、としか思ったのだが、今度は写真家(自称)としてそれを今一度見た時―、イゾルデは驚きで思わず声を震わせた。
「これは…金属板の写真…しかも…かなり昔のじゃないかしら…。」
人の手で現像された写真には、それなりの技術の差がデジカメよりも見えやすい。
その精密に、そして均等に感度反応を写真に映し出した技術―、今やほぼマニアにしか使われてない廃れた技術の中でも、はるかに高度な現像師の腕前がその写真から垣間見えたのだ。
ここまでの腕を持つ者はアメリカ国内でもそうそう居ない。
その技術者が一巡査のジョージの写真を撮る、ということがあるのだろうか――
「ジョージ…じゃない…?」
そう、この写真の人物はジョージじゃない。
信じられないと顔を上げた先には、片眉をあげこくこくと頷くジュリアがいた。
「ああ、お察しの通りそいつはジョージじゃぁ、ない。じゃぁ、誰だと思う?」
「顔か似ているから…ジョージの父親の若い時の写真か…祖父…?」
いや、それにしても余りにも似すぎている。とイゾルデは思った。いや、違う。毛先の一本までこれは間違いなく「本人」のものだ。
「どういう事…?」
掠れるようなイゾルデの問いに、ジュリアは顔を横にして答えた。
「これはある、悲しく、そして怖ろしい男の話だ。」
そこからついに重い口をゆっくりと開きだした。
「写真の「彼」が生きた時代は、40年代のドイツ党NSDAPの兵士として第二次大戦の東部前線に出陣した時の事だった。」
「NSDAP…ナチス!!」
イゾルデはばっと、その写真を見返った。
そうだ。この軍服は国旗団の物ではない。
「……SS武装親衛隊将兵の軍服だ!」
「当時、ナチが讃えた生粋なるアーリア人としての容姿をそのままに受け継いでいた男は、身分こそはしがない労働者階級といえ、周りからの羨望と賞賛を受け自信溢れる若者だった。」
おまけに眉目秀麗であるから…。ジュリアを見ながらぼんやりと写真を手前に寄せる。
「だがしかし、その彼の自信もアイデンティティも戦争に祭り上げられ、戦争によって潰された。その写真が撮られた2ヶ月後の事。
-文字通り泥沼化した東部前線のポーランドの泥地で、ソ連軍の爆撃機攻撃を受けたその男は…。くっそ、言うのも憚るが…両脚、両腕をもぎとられて、身体右半分も酷い火傷と瀕死の重傷を負ったんだよ。…その時、男としての機能も、“丸ごと”な。」
最後の言葉にイゾルデは再び石を飲み込んだ気分になった。
「普通なら他の例に漏れず、男は泥まみれの中で死んでいる所だった。が、積まれた死体の山から彼を引き出し、その献身的な看護でもって彼を助けたポーランド人の少女がいたんだ。
その娘によって、彼は一命をとりとめた。アーリア人としての誇りの崩壊という―大きな傷は残ったがね。」
紅茶を飲んだジュリアの白い息が、部屋の寒さを表している。
イゾルデは呆然と紅茶を見下ろしたまま、カップを掴んだ手が悴む様子を眺めている事しか出来なかった。
「まぁ…そこまでは詳しい人なら知っている奴の過去だ。だがここから先が問題だ。問題だったのはやっこさんがその時、身体と同時に頭のネジもどこかに吹っ飛んでしまったという事だよ。
そして70年後…なんとかそこまで生き延びた彼が、今から23年前に、そのいかれた頭で、とある大犯罪を起こしちまったんだ。それが…。」
「クローン…クローン人間を作る事…。」
話を聞いて予想していた結末に声も悴む。ジュリアは睨んだまま頷いた。
「そうだ。そのクローン…ってのが…。」
ぴっと、写真を指差しながら、言う。
「ジョージだ。」
「嘘よ!」
イゾルデはジョージとそっくりな男の写真を掴んで叫んだ。
「違う、違う!確かに顔形はそっくりだけど、瞳の色が違う!この男の瞳は濃いグレーだわ。でもジョージの目は薄いブルーよ!目の色が違うクローンだなんて有り得ない!別人よ!」
モノクロ写真からそれを読み取ったイゾルデを、意外そうにジュリアが見開く。
しかしすぐに真顔に戻り、
「それが、男がジョージを生み出した本当の理由だ。」と答えた。
「本当の理由?まさか…グレーだったコンプレックスの補完するためにジョージの眼球から青い瞳を移植したとかなんとか―」
「落ち着け。君は本当に良い見解をするが、違うよ。違うと言えば、ジョージが男のクローンであると言えば、君の言うとおりで、実は「少し」違う。」
「ど…どういう事?」
「あー…。無理矢理定義付けて言うのであれば…ジョージは奴の「息子」にあたる。」
「尚更どういう事よ…?だって23年前って、その時彼は…。」
「爺のくせ、タマが無いのにってだろ?」
口角をあげたジュリアに、イゾルデは躊躇しつつ頷いた。
「あのな、もう今時受精でしか子どもが作れない時代ではなくなったんだ。iPS細胞しかり拒絶反応無しに腕が生えたり、心臓を作り出したり出来るご時世だ。―あたしのこの腕のようにも。」
かざした腕にあの文棋がジュリアに残した「跡」は、全く残っていなかった。
「そんな・・・。貴女が言う通りiPS細胞で男一人が作られたとしても、それで出来るのはやっぱりクローンよ…それならやっぱり息子とはいえない…。どういう事なの・・・?」
「そうやってわざとかき回して、誤魔化そうとするなよ。あたしが今まで話した中ならお前はもう…十分分かってんじゃないのか?「青い目を持ったクローン」。この事実が、どういう事を表すかを。」
促すジュリアの目からそらし、イゾルデは頭を振る。
言いたくなかった。言えば何よりおぞましい話がこの世にあると言う事を、認める事になってしまうからだ。
「…そんなまさか…。まさか、別人の遺伝子から目「だけ」の情報を抽出して…掛け合わせてジョージを生み出すなんて…。」
もし、そうだとしたらその技術は、ジョージという命がよもや単為生殖とか、iPS生殖のレベルの話じゃない話になってしまう。
「それはつまり、「ジョージ」が生まれるために何人、いや何億もの実験体がそれは幾らなんでも」
いやいや―と首を振り思考を停止しイゾルデは頭を抱えた。
嘘であって欲しいと思ったが、ジュリアは横に振ろうとしなかった。
そして続ける。
「そして、その別の遺伝子の持ち主ってのが…」
「男を助けたポーランド人の…少女…!」
「ああ。あたしがまず男の過去から話したのは、それに導くためのヒキだったのさ。」
ジュリアは腕を組み深く頷いた。
「これはまぁ…必然だったのかもしれないが…腕も脚ももがれ、激痛と絶望に打ちひしがれた男の、その唯一の希望というのが少女だったんだ。」
男は少女に恋をした。
憐れむような心地でジュリアは言った。
「そして、少女も男の想いを受け入れたという。ポーランドの田舎町の病院でひっそりと育まれていった愛が、男の生きる糧となった。しかしそれでも、敵国同士だった2人は無惨にも引き裂かれ、それっきり会う事はなかったらしい…。」
それを語るジュリアの声は心なしか寂しそうであった。
「だが男は、それでも少女に恋い焦がれた。戦争が終わっても、どんなに月日が流れても、男の時間は止まったまま彼女を愛し続けたんだ。しかし鬱屈する程の慕情と、会えない苦しみと悲しみは狂気を孕ませ、やがて暴挙へ…。」
「…生きている間に欲しかったのね、彼女を愛していたという証が。」
イゾルデの言葉にジュリアもゆっくり頷いた。
「朽ちていく身体、生死の分からない何十年前の恋人。そんな絶望的なまでの慕情を切実に表す証…。それがジョージだったというのね…。」
続けて言ったイゾルデの言葉に難なくジュリアも続く。
「愛し合っていた証、それがまさしく「息子」だったんだろ。だが男が持っていたのは保温状態の悪い彼女がつけた血のガーゼ。そこから完全なゲノムを引き出すのは流石に困難だったようで・・・・。
それで男は、その中から一番覚えている彼女の容姿を―、慈母のように自分を映し出していた、透き通った水色の瞳だけを「息子」に反映させる事にしたんだ。」
「だからさっき…ジョージを息子だって…でも…でも!」
確かにそうなればジョージは遺伝子上男の「息子」にはなろう。
しかし老人の髪の毛と、何十年前の少女の血から生まれた「息子」なんて―、
いくら遺伝子がその通りだと表したって
「それで2人が両親だなんて…本当にジョージが人間の子どもだって…言えるの!?」
今までの価値観がすべて否定された衝撃に耐えられず、イゾルデは机に突っ伏した。
「こんなの…こんなのおかしいわ…!」
首を振ってしばらく取り乱れるイゾルデに、ジュリアは同情する眼差しで見下ろして言った。
「あぁ、全くだ。理由はともかく、やった事は実に胸糞悪い話だよ。子どもを生めない男が如何にも思い付きそうな話だな。たっく、ムンダネウムの野郎もこんな三文SF話に付き合いやがって―」
「ムンダネウム・・・!?」
突然出てきた言葉に更に動揺した。
「ああ、君の方じゃぁあムンダネウムって、RW倉庫の方を思い出すか。
あたしら(ヨーロッパ)の方なら、概ねムンダネウムと言えば、共同研究における成果を売って生業を立てる「ソーシャル・ビジネス」という皮をかむった、『実験的研究都市』を思い出すよ。国際研究都市ムンダネウム。その中でもRW倉庫は、原発処理研究のために保管されてる、一部の施設にすぎないのさ、実は。」
「そ、そうだったの…。」
だからムンダネウム(ユートピア都市)という、RW倉庫にしてはへんてこな名前がつけられていたわけか、とイゾルデは理解した。
「なるほど…。ムンダネウム…いや、RW倉庫の地下に魔女がいるように、研究都市全体にも悪魔の手を取る輩がいる…という事なのね…。」
「つくづく勘の良い女だね、君は。ジョージが見初めたのも少し分かったような気がする。」
とさっきまで敵意を向けていたジュリアは少しだけ口角をあげだ。
「ああ、そうだ。どちらかと言えば、魔女でさえその研究都市組織の一員でしかないんだよ。そしてその男ってのが…研究費用の資金提供者って事らしいんだ。詳しい事は知らないがね…おおっとそんな顔をするなよ。これでも散々マフィアの情報網駆使して集めた情報なんだぞ?一般人の中でここまでひっくるめて知っているのはあたし位だよ。」
「一般人の中で…?」
「あぁ、少なくともNYPDはこの事を知ってる。」
「!」
再び聞き慣れた言葉がイゾルデを現実に連れ戻す。
「3年前にジョージが忽然といなくなったのは、それを知ってムンダネウムの手から彼を保護するために上が、根回しした事なんだろうと思うよ。まぁ、その不自然さがあたしにここまで調べさせるきっかけになったのは皮肉な事だかね。」
はんっ、と斜め上を見るジュリアは忌々しくプラザの方向に向かって唾をはく。
「いなくなった理由は分かったとしても…どうして3年前になって今更…その事実を…?」
イゾルデは力無く掴んでいたジョージ、いや男の視線にはっとなった。
「そうか…3年前…国旗団事件…!初めて軍服姿を見せたジョージから、それがこの男とそっくりなのにNYPDが気付いたんだ…!さっきの私とは逆に―!」
「そうだろうな。なにしろオリジナルと言えど、その「男」は今、手足をもがれ顔半分もぐちゃぐちゃな状態だ。どうりでそれまで誰も気が付かない訳だよ。」
と、横を向いたままジュリアは腕を組む。
「だが、男の若い頃の写真はネガもとうに焼かれ、今や1,2枚が残っている有り様だ。NYPDだけがそれに気付いたとは考えにくい。きっと、それより大きなパイプが…、あのアメリカの魔女、NSAが、NYPDに報告したに違いないと思う。5年の間に厄介な組織になったもんだよ、アメリカってのは。」
「…それと同じようにムンダネウム側の本当の「魔女」もその事に気付いた、というのね。」
「ああ、そうしてジョージは否応なしに、2つの対立する組織の切り札になっちまったんだ。」
「切り札?」
イゾルデはそこまで推し量る事が出来なかった。
「…ムンダネウム側にとってジョージは、何としてでも取り戻すべき大事な実験の実力と誇示を示す「成果」だ。そして、NYPD側にとってジョージはムンダネウムの倫理的「犯罪」を摘発させるための「証拠品」。互いに自分の立場を守るためにジョージを必要とし、譲らないんだ。全くいかれたお役人と研究者共だよ。ジョージを一体何だと思いやがって…!」
「待って。」
怒れるジュリアの手を留めて、イゾルデは問いた。
「確かに、ゲノム操作における生殖は今は禁止されているわ。でも、今それを認めさせるための活動やデモが活発的にあるじゃないの。これが施行されれば…ジョージも合法に息子となって…。」
「なるわけないじゃないか!」
留める手を強く弾き、冷たく言い放ったジュリアの言葉に、イゾルデの嫌な予感が背中を震わせた。
「ムンダネウムを犯罪者とみなすために、政府はあくまでジョージのようなゲノム操作による「命」を認めようとはしないよ。魔女対策委員会も「そのため」に、議員達に根回しはしているはずだ。いずれは否定されるさ、あんなもん!」
イゾルデは絶句した。それでは人権や生命倫理というよりかは―、
「そんなの、ただの政治の都合じゃないのよ!」
イゾルデの青臭い怒りに何を今更と言うように、ジュリアは肘をついて睨んだ。
「政治なんて昔っからそういうモンだろ。絶対にそうするよ「あいつ」なら。何も思えないあの男だからこそ、絶対にそれが出来るはずだ。」
その時の2人の脳裏には、生気のない灰色の目をぼんやりと真正面に向ける男の顔が浮かんだはずだろう。
「…つまりはそう言う事だ。貴様の言う、愛だとか何だかで解決出来る相手じゃないんだよ。ジョージと言う男は、「生まれた」時から。」
その次の言葉が続く前に、
「…しばらく考えさせて。」
とイゾルデは呟いた。それは演技ではなく、本心だった。ジュリアは黙って立ち上がり空になったカップを掴み上げる。
背を向けキッチンに歩いたのを見計らい、イゾルデは崩れた顔を両手で覆った。
知らなきゃ良かった。
この仕事に手をつけてから初めて思った事だった。
何としても手に入れたかったジョージの過去が、まさかこんな事だったなんて。
言葉にする間もなく溢れ出す感情がぐるぐるとイゾルデの頭を巡る。
その中で編集長の言葉が一瞬通り過ぎた。
「で、その話を続編に…」
できね―――――――よ。
深く深く、両手の中に顔を埋めるイゾルデであった。
ジョージが遠い。近づこうとしたのに更に遠く貴方は行ってしまう。
涙で霞んでいく視界の中から遠目に出てきたのは、噴煙の中で佇むジョージの後ろ姿だった。
彼はその由も知らないというように、あの小馬鹿にした笑顔で振り向き、茫然と立つイゾルデを嗤い、またどこかへ行ってしまう。
「一体、これに何を結論つけてまとめればいいの・・・。」
食器の音と水の音を虚しく聞きながら押し開かれた浅黒い両指の隙間には、自分のカメラが目前に迫る。
「真実を映し出すあんたなら、一体どうするのかしら…D90…。」
と呟いた時、D90の黒い角がキラリと真っ白に光った。
「…?」
よもやと思い振り返る。すると窓から見える夜の外、漆黒に立つ木の影からカメラの光を受けて反射する、黒光りの「何か」を見つけたのだ。
「な、なんであんな所にビデオが…!?」
イゾルデの叫びにジュリアは振り向く。
青ざめた顔でそれを捉えた時、ジュリアの顔が一瞬にして歪んだ。
「く…くっそがぁああああ!!!」
カップを落とす間際に、腰につけた銀色のP226を瞬時に振り回す。陶器の割れる音と両手で構えたP226の砲声が湧く。ジュリアのたった2発の攻撃で、10m先の小さなビテオカメラは鉄の音を立てて破裂した。
「すっご!やっぱり伊達にジョージと双璧を連ねてないわね…!」
感嘆をあげる前に、ジュリアが耳を覆うイゾルデの手首を乱暴に掴んだ。
「くっそ!奴らに見られた!・・・逃げなきゃ・・・早く逃げなきゃ!」
「え!?」
状況が読めないイゾルデをテーブルから引きずり出して、ジュリアが叫ぶ。
「今ので、お前も狙われる事になっちまったんだ…!仕方ないお前も連れて…!」
「・・・まさかそれで引っ越しの準備を…!」
手を繋がれたままはっとダンボールを見下ろした時―、途端その木陰から弾けるような銃声と弾道が2人の面前に襲いかかった。
「い、いやぁああああああ!!」
突然の事にイゾルデは窓の下にもぐり頭を抱える。
「誰か、誰か来てぇええええ!!」
銃声に負けない程女の甲高い声がつんざく。途端にふっと静かになった屋内に瞑った目を覚ませば、テーブルの上に倒れているジュリアを捉えた。
そして割れた照明に照らされる青白いジュリアの首筋からは赤い血が流れている―!
「ジュリアァ!」
イゾルデは慌てて駆け寄り抱き上げた。
その間に聞こえるは木陰から誰かが降りて逃げ去っていく音、銃声と悲鳴に気付き周りの家のランプが付く音、住人の騒音。立て続けに起こる喧騒を横目に、腕の中に抱かれたジュリアはうめきながら目を開く。
「ジュリア…!ジュリア…!」
そしてイゾルデの声にジュリアは痛そうに眉を顰める。
「くっそ…やられたな…。」
その首の動きに合わせて血が流れる。
「喋ってはだめジュリア!待って今、警察を呼ぶから!」
「ダメだ…。」
イゾルデの大きな胸に埋もれたジュリアが呟いた。
「警察には捕まるな…お前も絶対に抹殺されるぞ……。」
「…!?そんな馬鹿な!じゃぁさっきの奴らは…!?」
顔をあげキョロキョロ辺りを見渡すイゾルデの胸元をジュリアが乱暴に掴む。向いた先には血糊がのり、死んだ目をしているジュリアが、力無く口を開きイゾルデを睨んでいた。咳き込んだ隙間から血と共にかすり声をあげる。
「逃げろ…。とにかく誰にも捕まらないで逃げるんだ…そしてジョージに会ってこの事を伝えろ…頼む…。」
「何を言ってるの…!?逃げろだなんて―」
涙を散らしながらイゾルデはぶんと首を振る。が―、
「頼むよ!」
それは重傷を負った者の言葉とは思えない程のはっきりとしたものだった。
一瞬怯むイゾルデの目前に突きつけるは、テーブルの隅に転がったまた血溜まりに塗れた、銀燭のP226。
「獲物はこれ位しかないが…、これで警察共から自分の身を守れ…。頼むよ…あたしの代わりにジョージを…!ジョージをあのNYPDから解放してやってくれ…!」
怒るように、そして請うようにP226を掲げる瀕死のジュリア。イゾルデは震えるそれを片手でそっと受け取り、苦悶の顔のジュリアに向かって、―ゆっくり頷いた。
それを確認したジュリアは最期慈母を見た時のように一瞬にして穏やかになり、やがてそのまま赤いあぶくをごぼごぼと吐いて、動かなくなった。首がもたげた寸時、イゾルデはジュリアという名の「死体」の重みを知った。
「ジュリア…。」
目を半開きになったままジュリアの顔に手を添えその瞳を閉じる。
「ごめんね…!」
そして、血だらけになった胸に強く押し付けるようにジュリアを抱きしめた。
血だらけになった体、そして片手にP226を持つイゾルデを見、向かいの家にいる女が
「人殺しーッ!!」と叫んだ。
8、TARGET7 『SMALL MOUSE』
『昨日夜のNY。ブロンクス郊外の閑静な住宅街の一軒家で、殺人事件がおきました…。被害者は一人の女性。イタリア人、ジュリア・アモローソ(40)といい…。』
朝の白い日差しを受けながら、ミナはぼんやりとテレビを眺めていた。その一方、気だるい身体で机の上にへばり付き、片手でもったアイフォンで誰かと会話をしている。
「あららら。あの呼び出しメールって、椴さんが送ったんじゃなかったんですね~。」
気の置けない口調であくびをするミナ。電話の相手は日本にいる椴であった。
「あたぼうよ。たっく、再び行った時にゃ花屋にちゃんとアイフォンはあったけど…、なくした間に勝手に送ってたんだな、あの女ぁ~。」
その聞き取りにくい男の声は、大平洋を越えた向こうとの距離を表している。
珍しく女性に悪態をつくプレイボーイに、ミナは思わず口角をあげパンを食べた。
「とにかくあの花屋のねーちゃんの事は今後気をつけた方が良いよミナ。花屋の店主から聞いたけど、あいつの本職はカメラ屋らしいし、きっと何か嗅ぎ付けて俺たちに近付いたに違いないさ。」
それは確かにミナにも心当たりがあった。けれど、
「いいえ。あの人は貴方が思ってるより、良い人です。」と笑う。
―だってあの人は「車は意志を持つ事」というのを信じてくれた唯一の人なのだから。
「意志を聞けるのは機械を本当に愛し、自分の相棒と思っている人でないと聞き取る事が出来ないのです。機械を心から愛する人に悪い人はいません。それは椴さんだって思うでしょ?」
そう言った言葉に案の定椴は「はぁ?」と疑念の声をあげた。
「ねーちゃんがそう言ってくれたの?馬鹿だねーっ!んな人間だけが持つ代物を、車が持つ事あるわけねーじゃん!」
断固として否定する態度にミナは苦笑する。ふと
「そんな事言ってる、分からず屋共にはこう言いかえせてやれば良いのよ。」
と指を立ててウイングするイゾルデを思い出し、落ち着いた声で椴に言った。
「椴さん。じゃぁ逆に聞きますけど、車にはなくて人間には「意志」がある、という根拠はどこにあると言うのです?」
「はあぁ?」
椴は更に声を裏返した。
「実は科学的には証明はされてないんですってよ、椴さん。」
そして悠々とミナは語り出した。
「今、貴方が思っているその嫌な感じや嬉しいという気持ち、やりたいと思う気持ちは、どんなに脳の電信信号を網羅しても、それが生まれる仕組み自体、はどこにも存在しないという事なっているのです。つまり、私たちの意志というのもプログラム化された脳の電子運動の繰り返しの中で「自然発生されている何か」、としか証明されていないのですよ。」
その言葉に椴は黙った。それにミナはこれ以上なく得意になっていった。
それはまるでこの白い部屋のように自分の心地も朗らかになった気分であった。
リビングに光を差すガラス張りの向こうで、新緑に囲まれ自分の出勤を待つ深紅のダガーGTもどことなく嬉しそうに見える。
『・・そしてその容疑者として指名手配中なのは20~25歳の女性。目撃者の証言によると…。』
夢心地にいたミナははっとなってイゾルデの言葉を続けた。
「ですから、私達が信じている確かにある「もの」だって意外に紐解けば、案外曖昧で不確かなものでしかないんです。ならば皆がないと信じているものが実は「ある」かも、という理論も無きにしもあらずとは思いませんか?」
貴方にあるその愛というものだって、ね。そんな悪態もちくりと込めてミナは笑う。大人になってようやく得られる、この清々しさに酔いしれながら。
「脳という名の電子運動の中で意志が生まれるというのなら、脳よりも複雑な機械仕掛けの中に意志が生まれたって良い。そう思えば何ら不思議な事ではないじゃないですか?」
白い小鳥が止まるダガーを背景に、ミナは口を閉じふっと微笑んだ。
「以上が、貴方が否定したインテグラさんの言った言葉です。どうです?これでも馬鹿にしますか?」
ふふんと透明な緑色に木陰の影が映えた天井を見上げる。
そうして、ミナはテレビに映ったイゾルデの手配写真を見逃してしまったのである。
一方椴はしばらく黙っていたが、やがてはっと思い付いたようにミナに対する答えを叫んだ。
「うん、ごめん!訂正するね!そういうのは語彙力持った「馬鹿」って言うんだよ!」
***
同時刻のプラザ。中会議室で列に並んぶは大勢の巡査達だ。紺のジャケットに八角帽子をつけた彼らの中に、ヨーナスもトレードマークの黒縁メガネをかけて最前列に構える。
やがて彼らの前にそそくさと現れ出たのは、白制服がトレードマークの警部補だ。
その隣についていくは私服組の刑事、身重のメアリー刑事。
「オフィサー諸君!プラザに残っていた君たちに急遽指名手配人確保のための任務遂行を要請する!」
腕を後ろに回し叫ぶ警部補に、皆が一斉に背筋をのばした。
「それは先日未明に銃殺された殺人事件の重要参考人である!当人は只今失踪中、高飛びする前に確保するようにとの命令だ!」
その後に続きメアリー刑事が前に乗り出して、手元の資料を読み上げた。
「指名手配人は20代前半とみられる女性です。容姿は浅黒い肌に、ブリュネットのポニーテール、瞳は薄いグリーン。と、この通り見た目だけでは人種は特定できず、ダブルである可能性もあります。身長は170cm程度、体型は少々太め、服装は青チェックの丈の短いワンピースに黒のニーソックスと比較的派手。ただし変装してる可能性も十分ありますので、気を付けて下さい。」
「質問です。名前と写真資料を教えて下さい。」
と手をあげて質問するヨーナスにメアリー刑事は苦々しく首を振った。
「ごめんなさい。随時刑事局で調査中ではあるけれど、実はよく分かってないの。」
少々ざわめいた紺の列に「白」が静かに!と叱った。
「分かっている事は、彼女は花屋でバイトしながらほそぼそと暮らす、フリーのフォトジャーナリストだったという事よ。」
「そこまで分かってるんでしたら、関係者に問いて名前や住所も…。」
「その関係者さえ、分からなかったのよ。」
意味有り気な答えにヨーナスは、えっと目を開けた。
「と、いうより関係者によって彼女の名前がてんでばらばらなのよ。花屋ではジェニー、NYタイムズ社ではマリアンヌ、その他の相手先でもアンナ、モーリン、ジェシカ、ハナコサンと行く先々、名前が違って本名が誰にも分からない状態になってるの。」
「なんだってそんな事を…。」
「どうやら彼女、ジャーナリストと聞こえは良いけれど、実際には三流カストリネタやギャング、マフィアとか危ない輩の話を中心に扱う仕事をしていたみたい。そういうのってトラブルが起こると質が悪い物だし、あくまで関係者ではないというのと、正体を隠して難を逃れているために、そうしていたみたいね。」
そんな際の仕事を若い女性がするものなのか―とヨーナスが思っている内、隣の同僚が、ヨーナスがもう一つ思っていた事を代わりに呟いた。
「行く場所によって名前が違う…。なんかそれってまるで…。」
その言葉を受け取りメアリー刑事は頷く。
「えぇ…。そういう事から唯一共通して呼ばれた彼女の異名は、NYの灰かむり「猫」、だったそうよ。」
「猫と花屋ねえ。どっちも「娼婦」の隠語だな。」
巡査の中から誰かがいやらしそうに嗤った。それをかき消すように警部補が叫ぶ。
「そういう事だ!!おそらくそれ関係のトラブルで起こった事件とされている!それが新たな「火種」にならないために、我々NYPDが彼女を確保しなければならないのだ!」
それで一同はこの緊急召集の意味を解したのである。
「説明は以上よ。何か質問はあるかしら。」
警部補と並んで首を傾げるメアリー刑事に2人が手を上げた。
「なんだ!!」
「メアリー刑事はいつから休暇ですかー。」
「…明後日からだっ!」
「ちょ、警部補。なんであんたが知って―」
「メアリー刑事ー。おめでたおめでとうございまーす。」
「ありがとう!」
「だからなんで警部補が!?」
そんなやりとりにメアリー刑事は口に手を当ててくすくすと笑った。
「とにかく!事は急を要する!各担当ブロックの刑事たちの指示に従って行動せよ!《猫探し》の開始だ!」
「「「はいっ!!!」」」
巡査たちの引き締まった声が会議室に響いた。
「よっし!久々の大仕事だ、頑張らなくちゃ!」
準備を始める同僚の中に混じってヨーナスは景気付けに八角帽子を被り直す。それを一人輪の中から外れ心配そうに見守るメアリー刑事に笑顔で敬礼して、大勢の同僚と駆け出していったのであった。
***
その時、当のイゾルデは、その手のカメラ屋なら誰でも知ってる有名なアジトに潜んでいた。
位置はジュリアの家から遥か遠く、マンハッタンの鮨詰めような社宅に紛れる廃墟ビルだ。
その一室の窓際にあぐらをかき、イゾルデは目の下に隈をつけたままパソコンのキーボードをひたすら打っていた。
茶色く凝固した血だらけのワンピースもそのままに、ただ一心不乱にパソコンに向かいジュリアに託された言葉を並べる。
あの後、急いでタイムズ社に駆けもうとしたがすでに捜査網が貼られ、駄目だった。
盗み聞きした噂で、編集長たちもNYPDの手に取られたと聞き、最早イゾルデの行き着く先はここでしかなかったのだ。
ひたすら彼女の頭の中にはどうしようどうしようと困惑する言葉が巡るばかりであった。
「いくらなんでも早すぎる規制だわ。はめられた。はめられたんだNYPDに…!」
例え目撃者の証言があっても、現場検証さえすれば犯人がイゾルデでないのは確かであるはずだ。
という事はこれは、NYPDがわざとイゾルデを犯人に仕立て上げた。という事になる。
それはすべて、「自分達」がジュリアを抹殺した事を、イゾルデ一人に押し付けるため―。
その最悪なシナリオに、猫のごとく背中を震わせる。
「っ、信じられない…!これがあの5年前と同じNYPDだっていうの…!?」
物事は変わっていく。良い方にも悪い方にも。
「そして私も、NYPDに抹殺される―。」
ジュリアの虚ろな目線が脳裏に焼き尽く。それを誤魔化そうと必死にキーボードを打つイゾルデであった。
「よし終わった!」
事実を書き連ねたファイルをUSBに入れる。それを抜き出そうとした時、誰かの話し声にびくりと身体を震わせ、壁越しに背中をつけた。
そっと窓から下を見ていると、誰も通らない下の通りに八角帽子の巡査が2人並んで通り過ぎているのが見えた。ちらりとこっちを見た仕草にはっと体を引っ込めば、足音と話し声はやがて遠くなり、聞こえなくなっていく。
「まいったなぁ…こんな辺鄙な所にも捜査網が…。」
と胸を押さえ、こつんとコンクリートに頭をつけて息を吐いた。
その時であった。電線コードが天井から幾つもさがる部屋の奥、古ぼけたドアがぎぃと軋んだ音を立てて開いらのだ。
「なぁ…!?」
風かと思い身を乗り出せば、そこにいたのは冬服に身を包んだ一人の女だった。
小柄な体型に細長い脚を強調するタイトな黒パンツ、赤いマフラーと絡む一房の三つ編み、そしてそこからのぞく目蓋の大きい美少女は―GGヒロインの中国人、杓高珊である。
マドに手をつけた高珊は、向かい合うイゾルデに驚き、つぶらな瞳を瞬かせる。
「え…!そんな…!?今、警察学校にいるんじゃ…!?」
というより何故ここにいる!?と、イゾルデはパイプ椅子に置かれた電話を見てはっとなる。そうだ、ジュリアの住所を調べるために、少年刑務所にいる文棋と連絡とりあった電話はこれだ―!!
そして、やがて高珊の目線がイゾルデの血まみれのワンピースへと写った時、みるみる眉を顰め憎しみの「気」をイゾルデに解き放つ。
「ついニ見つけタ・・・!貴様・・・!!貴様がジュリアヲ!!」
唸る様な声が歯軋りと共に廃墟に響いた。相手は柳葉刀使い。「やばい」とイゾルデは慌てて手を振る。
「違う高珊!私はジュリアを殺した犯人じゃない!」
しかしその行動も高珊には、往生際が悪いと殺人者の最後っ屁にしか見えなかったのだろう。
そして高珊は赤いマフラーを投げ捨て、相手のスキを掴もうと、両手を翼にして走ってきた。
「貴様あぁぁああア!!!」
一房の三つ編みを靡かせながら高珊が背を向けると、その細長い脚がイゾルデの手の間に割り込み、そのかかとのある茶色いブーツでもって彼女の顔を蹴り飛ばしたのだ。
「あだぁっ!」
その間もなく続けてくるくると回し蹴りが襲う。だがイゾルデはその三発目で手に取った三脚で高珊のブーツのかかとをひっかけて抑えた。
「な…!?」
「だから私じゃないんだって言ってるでしょうが!!」
と、イゾルデは負けじと痣のついた顔で叫び、三脚を押しあげる。足を取られた高瑚はバランスを崩すも、地についた脚で飛び上がって両足で三脚を掴む。そして身体を二回転で三脚を脚で奪い取った。
そして、地に手をつき奪った三脚で思いっきりイゾルデの鳩尾を突いたのだ。
続いて勢いで壁に突き飛ばしたイゾルデの頭へ、すかさず側にあったパソコンで殴り飛ばす。
「あっがぁ!」
スキを与えぬ苦悶に目を瞑るイゾルデは横に飛ばされ、パイプ椅子と共に転がった。
けたたましい音と共にパイプと壊れた電話の部品が更にイゾルデを痛めつける、すると高珊はとどめとして仰向きに寝転がった彼女に向かい、かかとを振り上げ何か発する前に彼女の顔面を踏みつけた!
「う…あ…がぁ…!」
よもや呻き声をしか出せなくなったイゾルデは、踏みつけられた痛みに身をよじる。
その余地を与えず首筋を蹴られた衝撃によってついに首をもたげ動かなくなってしまった。
「そこでのびてロ、殺人鬼めガ!」
痣だらけで目を瞑るイゾルデに吐き捨て、背を向ける高珊。
そして無傷のまま悠々と入り口に近づいて声をあげた。
「誰か来テ!誰ヵ!ここに指名手配人ガいル!」
歩きながら携帯電話を取り出し耳にかける。その声にイゾルデが水をかけられたようにはっと目を覚ました。
しまった、このままでは捕まってしまう。
激しい痛みと目眩に打ちひしがれながらも、首を持ち上げ、ブリュネットの髪をかきあげるイゾルデ。
埃が舞う息苦しさに息を切らせど、ひっそりと、立ち上がる。そしてゆらりと翡翠色の鈍い光が携帯を持つ少女の背中を捉えた。
「…男だったらすたこらさっさと逃げている所だったけれど…。」
痣がついた口元をにやっとあげて走り出す。
「同性だったら容赦はしねぇぇえええ!!」
高珊ははっとなって振り向いた。すると目前には倒れていたはずの女が飛び交ってくるでないか。
「嘘でショ…!だってあれは男一人が気絶するホド…!」
その油断が仇となった。途端歪んだ視界の中、両脚を掴まれてバアンと甲高い音と共にうつぶせに倒される。
「きゃあァ!」
その中で携帯電話がカラカラとドアの外へと転がってしまった。
「離セ!離せェ…!」
「あれ程の事をしといてどの口が言うかぁあああ!!」
じたばた脚を動かして抵抗する高珊をしっかりと抑え、その上へと這いつくばるイゾルデ。怒りできっと顔を向ける高珊の首元を乱暴に掴み上げ、拳を素早く振り上げた。
「ナ…!?」
「油断したなカンフー娘めえぇぇ!」
そして、小さな顔の頬を浅黒い大きな拳がぶちのめしたのだ。
「がぁっ」
鈍痛に呻き声をあげる高珊に立て続けに拳が襲いかかった。
「ほらほらほらぁ、さっきの勢いはどうしたぁ!?」
拳を振り上げる毎に鈍声が響き、高珊の鼻血が吹き出す。
「まだ、やりますかぁ!?」
同じ様にとどめをさそうと血を垂らした拳を振り上げ、勢い良く構えた時。
痛みに虚ろになっていた高珊の目に炎が灯る。くっ、と鼻血を吹き上げた拳がイゾルデの顔面に当たった。
「ぐぁ!丁度良い位置に…!」
続けて憤怒に歪んだ高珊の頭突きが、イゾルデの高い鼻に当たった。潰れたような痛みに呻く間に高珊の拳が素早く連続してイゾルデの胸を突く!が、
「手応えねえよ!」
「な…!?」
がっとイゾルデは高珊の前髪を掴みまた強く押し倒す。
高珊もせめてもの抵抗と掴み返し、互い乱暴に髪を引っ張り合った。
「離せ!離せ!このクソアマァ!!」
ぺっと血溜まりを吐いたのが頬にあたる。それでイゾルデの堪忍袋の緒がきれた。
「暴言吐く時は英語上手ねぇ!?仔鼠ちゃん!!」
と今度は片手でまたぶん殴る。それに対し高珊はより効力のある膝蹴りで返す。
「あーっくそっ!キリがないわぁ!!」
そうしてイゾルデは一旦高珊との距離を保たんと、その間際、彼女の黒髪を掴みながら立ち上がる。当然高珊は抵抗するが、小柄な高珊はイゾルデの身長の高さにかなわず手を離してしまう。
「やめろ!やめロォオオ!」
「黙れ!」
切れた口元で血を飛ばす高珊の叫びを無視し、そのままずるずると髪の毛を引っ張りながらイゾルデは窓へと歩いていく。そうして高珊の前に突きつけたのは、転がった仕事机の角―。
「…!?」
まさか、と思う前に高珊は自身の身体がイゾルデによって勢い良く持ち上げられるのが分かった。
「やめて…やめてやめてやめテ!!」
必死に後ろ手でイゾルデの手を掴み引っ掻く。後ろ蹴りで懸命に太ももや、すねを蹴りつけるも同じ女のものとは思えないそれは、ぴくりとも動かなかった。
「これで終わりだああああああああ!!」
「いやぁ!」
蹴り上げた瞬間に細長い脚は遠慮なくそのひじに打ちつけられ、地面に押し付けられる。その勢いに仰向けに倒れる顔面にぎらりと光るは机の角。
「い、いやぁぁあああ!!」
頭を打ち付けられた鈍声と悲鳴が、天井から下がる電線コードを揺らした。
〈後編へ続く〉




