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第99話 悪役令嬢、ヒロインを観察する


 翌日の、午後。貴賓区画の、居間だった。


「おじゃまします! ……わ、広い」


 クララが、扉のところで、一度、立ち止まって、天井を、見上げた。歓迎会の夜と、同じ見上げ方だった。


「いらっしゃい、クララさん。——ジーナが、お菓子を、焼いたのよ」


「ジーナさんの! わたし、ジーナさんの焼き菓子の噂、食堂で、聞いてます」


「あら。集積所は、そんな噂も、扱っているの」


 卓の上に、焼き菓子と、お茶が、並んだ。クララは、両手で、カップを、持った。手のひらで、温度を、確かめるような、持ち方だった。


「セヴェリーニ様、あの、わたし、怒ってるんです」


「あら。何に」


「図書館の、お話。聞きました。ひどいです、あんなの。セヴェリーニ様は、ご挨拶を、なさっただけなのに」


 クララの眉が、本気で、寄っていた。


 ……あら。

 ……怒ってくれる子が、ジーナの他にも、いたわ。


「ありがとう。でもね、クララさん。噂と、法廷は、似ているの。どちらも、こちらの言い分だけでは、動かないのよ」


「でも」


「ええ。——でも、ありがとう。それで、十分」


 クララは、まだ少し、眉を寄せたまま、焼き菓子を、かじった。それから、思い出したように、顔を、上げた。


「あ、そうだ。聞いてください、セヴェリーニ様。わたし、こないだ、すごく、恥ずかしいことを、してしまって」


「あら、なあに」


「夕方にお花を、摘みに行ったんです、校舎の外れの方まで。そしたら、どこかから、バイオリンが、聞こえてきて。すごく、綺麗で。音のする方に、ふらふら、行ったら、古い礼拝堂で」


 ……旧礼拝堂。


「二年生の、背の高い方が、お一人で、弾いてらして。わたし、扉のところで、最後まで、聴いてしまったんです。それで、終わったときに、つい」


「つい?」


「『途中で、一度、呼吸が、変わりましたね』って。……そしたら、その方、すごく、じっと、わたしを、ご覧になって。わたし、変なことを、言ったでしょうか」


「……いいえ」


 ……レオンハルト様ね、それ。

 ……拍で人を測る方に、拍の感想。

 ……合格通知だわ、それ。ご本人は、出したつもりも、ないでしょうけど。


「それでね、あとで寮の子に話したら、『あそこ、幽霊が出るのよ!』って。わたし、知らなくて。知ってたら、絶対、近づいてません。思い出したら、怖くなってきて、その晩、眠れませんでした」


 ……知らずに入って、最後まで聴いて、感想が「呼吸が変わりましたね」。

 ……そして後から、怖がる。

 ……順番が、独特なのよね、この子。


「クララさんは、耳が、いいのね」


「え? そうでしょうか。……あ、でも、母に、よく言われました。火加減は、音で分かるようになりなさいって。お鍋の音で」


「お鍋の」


「はい。うち、その、——両親が、体が、弱くて。わたしが、台所に立つことが、多かったので」


 クララの声が、そこで、半音だけ、下がった。カップを持つ手が、少し、強くなった。


 一瞬だった。次の瞬きの後には、いつもの顔が、戻っていた。


「だから、お料理だけは、得意なんです。こないだも、寮で、お豆を煮ました」


「聞いたわ。大好評だったって」


「集積所からですか?」


「集積所からよ」


 二人で、少し、笑った。


 ……ご両親。お身体が、弱い。

 ……深追いは、しない。礼儀だもの。

 ……でも、目録には、書いておきましょう。この子の声が半音下がる話題は、多くないから。


 ◇


 クララを、回廊まで、見送った帰りだった。


 中庭の、大樹の近くで、足が、止まった。


 クララが、呼び止められていた。淡い金髪。均整の取れた長身。——カリストだった。取り巻きを、少し離れたところに、待たせて、二言、三言。クララが、お辞儀をして、何か答えて、カリストが、笑った。よく通る、綺麗な笑い方だった。


 ……あら。

 ……お名前を、覚えていらしたのね、殿下。「クララ・ホフマン。覚えた」——ちゃんと、運用なさってるんだわ。技術の、正しい使い方。

 ……接近、進行中、と。


 遠目に、それだけ、確認して、律子は、歩き出した。


 数歩、歩いてから、ふと、思った。


 ……ところで、私、いま、何か、感じるべき場面だったかしら。婚約者として。

 ……嫉妬とか。不安とか。

 ……何も、感じなかったわね。観察の所見が、一行、増えただけ。

 ……職業病かしら。それとも——

 ……まあ、いいわ。


 ◇


 夜。貴賓区画の、灯りの下。


 律子は、目録の、配役の頁を、開いた。


 「配役表(観察)」


 「ヒロイン:クララ・ホフマン。確定。攻略対象は、ヒロインの周りに、集まるもの」


 書きながら、我ながら、と思う。


 ……我ながら、暇なのかしら、この観察。

 ……いいえ。乙女ゲーム百五十本の、履修者の、責務よ。誰かが、記録しなくては。


 ペンが、進む。


 「カリスト殿下(王子枠):中庭にて接近を確認。名前の技術、運用中。——現在、若干のリード」


 「レオンハルト様(軍人枠):旧礼拝堂の一件。拍の感想により、あちらの物差しで、合格した模様。ご本人たち、双方、無自覚。——有望株」


 「アウレリオ(観察者枠):学府に、不在。枠のみ、確保」


 次の行で、——ペンが、止まった。


 寮の食堂。お豆の煮込み。お代わり。


 観察者としては、書くべき接点だった。ヒロインが、手ずから、お皿を運んだのだ。盤面の、記録係としては、一行、書くのが、筋だった。


 律子は、ペンを、持ち直した。


「マルクス様(——)」


 枠の名前が、出てこなかった。


 ……秀才枠、でしょう。普通に考えれば。

 ……乙女ゲームの、定番よ。眼鏡は、かけていらっしゃらないけれど。


 ペンは、動かなかった。


 ……いえ。

 ……該当なし、よ。

 ……あの方は、攻略対象では、ないもの。あの方は——


 あの方は。


 ……写本師で、法律家で、忘れない方で、お昼を抜く方で、「誇らしかった」なんて言う方で——

 ……って、私、何を、並べているのかしら。


 律子は、ペンを、置いた。書きかけの行は、「マルクス様(——)」のまま、残った。訂正も、しなかった。分類の欄が埋まらない記録を、目録に残すのは、初めてだった。


 ……保留の、続行。理由は、——理由は、いいのよ、別に。


 目を上げると、机の端に、昼間の巻が、あった。第十六年度、先例集。図書館から、借り出してきた、あの巻。


 ……未読先例、あと、二件。

 ……読み終えたら、再戦を、申し込めるのよね。

 ……あの方なら、この頁も、もう、そらんじて、いらっしゃるのだけど。

 ……こちらは、書いて、書いて、また書いて、追いかけるだけ。五年間、そうだったように——

 ……。

 ……あら。

 ……私、また、あの方のことを、考えているわ。

 ……配役表を、つけていたはずなのに。


 律子は、目録を、閉じた。


 床の影は、今夜は、静かだった。耳も、出していなかった。蝋燭の灯りの中で、濃さは、——いつも通り。


「……おやすみなさい」


 律子は、灯りを、消した。


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