第98話 悪役令嬢、怪談になる
その日の午後、律子は、図書館の奥の書架に、いた。
裁定所の先例集の、続きの巻を、探していたのだ。第十六年度。あの方がそらんじていて、私がまだ読んでいない、あの巻——
書架の反対側に、人の来る気配がした。
女生徒が、三人。閲覧席の隅に、荷物を置いて、身を寄せ合った。声が、ひそめられた。ひそめられた声というのは、書架の隙間を、よく通る。
「——ねえ、聞いた? 七不思議より、怖いのが、あるって」
律子の手が、止まった。
「なあに、それ」
「プルデンティアの、七つの噂」
……。
……あら。
……私、いつの間にか、怪談に、なっているわ。
出て行くべきか、迷った。迷っている間に、一つ目が、始まってしまった。始まってしまうと、もう、出られなかった。書架の陰で聞いていた者が途中から現れるのは、どう考えても、怪談的な登場の仕方だった。
「一つ。あの方、六つのお歳で、お隣のご令息の誕生会に、蛙を百匹、贈ったの。ご令息は、いまでも、雨の夜に蛙が鳴くと、寝込むんですって」
……バルナバス様なら、お元気よ。
……去年、ご結婚の報せが、来たもの。
「二つ。十歳で、お家を乗っ取る論文を、お書きになった。実の、お家を、よ」
……あれは、相続法制史の論文よ。
……乗っ取る先が実家って、論理が、循環しているじゃないの。
「三つ。歓迎会で、影の蛙を、百匹、お出しになった」
「……あれ、わたし、見てたけど。一匹、だった気がする」
「百匹よ」
「……そう、よね。百匹、だったかも」
……あなた! いま、正しかったのに!
……一匹って、言えたのに!
……ああ、飲み込まれたわ。目撃者が、文法に、負けた。
「四つ。あの方に見つめられると、人は、頷いてしまうの。同意の魔法よ。お断りした令嬢が、去年——いなくなった」
「去年って、あの人は、まだセルヴィアに……」
「いなくなったのよ」
……時系列も、負けたわ。
「五つ。人を殺めてよい条件を、研究なさってて、——もう、見つけたんですって」
……見つけてないわよ。
……あれは正当化事由の比較法研究で、結論は「立法的解決を要する」なの。読んでから怖がってちょうだい。
「六つ。お父上にお近づきになった女の人は、みんな、記憶を失って、廃人に。——何人も、よ」
……何人も。
……一人は本物の被害者で、一人は加害者なのだけど、噂の中では、二人とも、私の犠牲者なのね。
……これが、一番、笑えないわ。
「そして、七つ目」
声が、いちだんと、低くなった。
「教室で、あの方の両隣、いつも、空いているでしょう。あれね、みんなが避けてるんじゃ、ないの。——お隣に座った生徒は、消えるの。だから、空いてるの」
……。
……ちょっと、待って。
……あなたたちが避けるから空いているのであって。
……空いているから消えたことになるって、それ、原因と結果が——
……いえ。
……もう、いいわ。噂に、論理を、説いても。
「……ねえ。それでね。ここだけの話、本当は——八つ目が、あるらしいの」
「や、やだ、聞きたくない」
「聞いて。八つ目はね、夜中に、あの方のお部屋から——」
律子は、そこで、目当ての巻を、見つけてしまった。
第十六年度、先例集。目の高さの棚。手が、癖で、動いた。調べ物の癖というのは、恐怖より、速いのだ。
本が、するり、と、抜けた。
書架に、四角い隙間が、開いた。
隙間の向こうに、女生徒三人の顔が、あった。
目が、合った。
……。
……あら。
……どうしましょう。
こういう時、令嬢の礼儀は、一つしか、教えていない。
「——ごきげんよう」
悲鳴が、三重奏で、上がった。
図書館である。司書が、遠くで、しっ、と言った。三人は、椅子ごと、後ろへ倒れ、腰を抜かし、立ち上がることを、早々に、断念した。そして、這った。三人、綺麗に、隊列を組んで、閲覧席の間を、匍匐で、進んでいった。荷物は、置いたままだった。
律子は、書架の隙間から、それを、見送った。
「…………」
……ごきげんよう、が、駄目だったかしら。
……いえ、何を言っても、駄目だったわね。
……八つ目、聞きそびれたわ。
◇
図書館を出たところに、紺のローブの人影があった。
ルシア先生が、返却する書物を、抱えて、階段を、上がってくるところだった。
「あら。……浮かない、お顔」
律子の顔を見ると、声をかけた。
「……少々。その、——怪談に、なっておりまして、私」
言ってから、自分でも、変な報告だと、思った。
先生は、笑わなかった。代わりに、少し、首を、傾げて。
「ようこそ」
「……ようこそ?」
「この学府でね、怪談になるのは、良い教師と、良い学生だけ、ですよ。退屈な人は、噂にも、なって、頂けませんから」
先生は、書物を、抱え直した。
「ちなみに、私の怪談は、七つ、どころでは、ありませんの。——先輩の顔が、ご入り用でしたら、いつでも」
そのまま、図書館へ、入っていった。
……。
……慰められた、のかしら、いま。
……多分、そう、なのよね。
……七つどころではない、って——先生、まだお若いのに、一体、何年、ここに、いらっしゃるの。
……いえ。保留、保留。
◇
夜、貴賓区画で、律子は、机に、突っ伏していた。正確には、突っ伏す寸前の角度で、額を、指で、支えていた。
「お嬢様、お茶です。……あの、図書館の件、もう、従者の食堂に、届いてました」
「早いわね」
「『書架から現れて、ごきげんようと呪いをかけた』ことに、なってます」
「呪い」
「挨拶が、呪いに」
ジーナは、お茶を置いてから、少し、明るい声を、出した。
「……あと、呪いじゃない方の、お話も、あります」
「あら。集積所に、そんな棚も、あるの」
「ありますよ。ええとですね、奨学生寮の、食堂の話なんですけど。クララ様が、昨日、お手料理を、振る舞われたそうです。寮の、皆さんに。エアルの、お豆の煮込みだそうで」
「まあ」
「大鍋で。皆さん、大喜びで。それでその、——カンディドゥス様も、いらしたそうです。いつもみたいに、パンだけで、お済ませになろうとしてたのを、クララ様が、お皿を、持って行かれて」
「……召し上がったの」
「お代わりを、なさったそうです」
……。
……よかった。
……ちゃんと、召し上がったのね。温かいものを。
律子は、お茶を、一口、飲んだ。それから、ふと、思った。
……私も、差し入れ、できないかしら。寮に。
……お菓子とか。お肉とか。栄養のあるもの——
思って、二秒で、やめた。
……駄目ね。
……呪いの令嬢からの差し入れよ。皆さん、凍り付いた後、毒見役を、決め始めるわ。
……クララさんには自然にできることが、私には、構造的に、できないのよね。
……善意の届く人って、いいわね。
……あら。また「うらやましい」だわ、私。今度のは、柔らかいやつだけれど。
「お嬢様?」
「なんでもないわ。——いいお話ね、それ。集積所の棚では、そちらを、育ててちょうだい」
「がんばって流しておきます」
ジーナが、笑って、下がった。
◇
律子は、目録を、引き寄せた。依頼の頁を、開いた。
「受任案件:評判改善(依頼人:殿下)」
その下に、書いた。
「進捗:当職の挨拶により、生徒三名が、匍匐前進を開始。挨拶は、呪いと、認定される。——進捗、マイナス」
「所見:噂は、七不思議の形式を獲得。個別の反証は、もはや、無効。目撃証言も、時系列も、文法に敗訴。——噂は、娯楽になった。娯楽は、事実より、強い」
「八つ目:内容不明。要調査」
最後の一行を書いてから、律子は、我に返った。
……いえ、調査してどうするのよ、自分の怪談を。
……でも、気になるじゃないの。八つ目。
……夜中に、私の部屋から、——何ですって?
床の影が、するりと、机に、上った。先が、ゆっくり、丸くなって、——長い耳が、二本、立った。手影絵の、ウサギの形だった。
影のウサギが、耳を、ぴこん、と、傾げた。
「……なあに」
ぴこぴこ。
「……あ」
律子は、影を、見た。夜中に、部屋から。声。一人ぶんの。
「……八つ目、あなたのことじゃなくて? 私が、夜、あなたと話してる声——」
ぴこん。
「…………それ、本当のことじゃないの」
律子は、頭を、抱え直した。
……七つの噂の、八つ目だけが、事実。
……どうしましょう、殿下。
……ご依頼の案件、当職の手に、負えない気配が、して参りましたわ。




