第97話 悪役令嬢、写本師に会う
店の奥で、紳士は、しばらく、扉を、見ていた。
……届かなかった。
……いや。——人違いなのか。
……七年前の礼状と、同じだ。完璧な、古代語の答え。あの言葉を、あの言葉として、知らない。
……なら、人違いなのだろう。恐らくは。
……恐らくはと、僕は、七年、言い続けているけれど。
紳士は、卓の上の、売上の控えに、目を、落とした。置換契約の判例集、九冊、完納。アリアドネの、伝記、一冊。
……言葉は、届かない。
……けれど、注文は、——雄弁だ。
……百年、誰も、正面から、読もうとしなかった置換魔法の判例を、あなたは、九冊、通して、読む。
……そして、今日は、——アリアドネの名を、口にした。
……この帳場で、その名を聞いたのは、いつ以来だろうか。
……あなたが、その方で、あっても。——なくても。
……あの人の草案を、探す人が、来た。それだけで、僕は、もう少し、この店を、開けていられる。
紳士は、帳場の、一番下の引出しを、開けた。
古い手紙が、一通、入っていた。七年、そこに入っている手紙だった。少し褪せた宛名の、生真面目な、子供の字。
『いつか、お目にかかれる日を、楽しみにしております』
……今日が、その日、でしたよ。
紳士は、引出しを、静かに、閉めた。
坂の途中の古書店の灯りは、その夜も、遅くまで、点いていた。
◇
夕食の後、貴賓区画の自室で、律子は、先に、伝記の方を、開いた。
『議長アリアドネ——その生涯と立法』。
研究書というだけあって、その伝記は厚かった。
目次を、見る。前半は、若き日の武勇伝らしい。章の題に、剣呑な単語が、並んでいる。
……若い頃の章は、飛ばしましょう。武勇伝は、また今度。
……私の用事は、晩年の方に、あるのよ。
議長の在任は、十九年。法典編纂の動議、三度。三度とも、否決。
巻末に、草案の、章立てと骨子が、引かれていた。
律子は、それを、二度、読んだ。
……志が、高いわ。第一条から、まっすぐ。
……そして、高すぎるのよ。
……全部を、一度に、変えようとしている。既存の契約の扱いが、ない。経過措置が、ない。施行の順序が、ない。
……これは、同時に敵を作る書き方。
……通らない、これでは。——私が当時の議員でも、賛成しかねるもの。
律子は、頁の上に、指を、置いた。
……でもね。
……百年前に、ここまで書いた人が、いたのよ。負けると分かる書き方でしか、書けない時代に、それでも、書いた人が。
……三度、負けてくれたおかげで、私は、負け方の目録を、持てるの。
……遺志は、継ぎます。
……条文は、——書き直しますわ。
……あなたの負けた理由ごと、頂いていきます。最上の、先例として。
◇
夜が、更けてから、律子は、九冊目の、油紙を、解いた。
いつもの字が、現れた。定規のように正確で、冷たくない字。
頁を、繰る。巻末近く。——挟み紙が、一枚、立っていた。八冊目までの挟み紙より、長い。
律子は、抜き取って、読んだ。
「原本、巻末所収、第三十九年度、裁定第六号。
第百二十頁より、三枚、切り取られている。刃物。切り口は、古い。
欠落部は、主文の後、理由の、中途より。
無いものは、無いと、写す。埋めない」
律子は、挟み紙を、二度、読んだ。
……第三十九年度、裁定第六号。
律子は、机の上の、大きな紙を、引き寄せた。判例の地図。横軸に年代、縦軸に争点。
黒い印の、——古い層。
……あった。ここね。正面争点で、判決の、ある層。
……ある、と、思っていた層。
……主文は、ある。「契約を、無効とする」。地図には、そう、打った。
……でも、理由が、——三枚ぶん、無い。
……刃物で。何十年も、前に。
律子は、ペンを、置いた。
……判例は、主文では、生きない。
……理由で、生きる。次の事件を裁く物差しは、結論じゃなくて、筋道の方。
……つまり、誰かが。
……結論の殻は、残して。——武器だけを、回収した。
……直近、数十年の十七件は、判決の、手前で、消える。
……それより前の判決は、理由を、抜かれる。
……二つ、揃ったわね。
……「偶然か、設計か」。——設計、と、仮置きしましょう。
……そして、確かめる場所は、一つしか、ないわ。
……原本。古文書庫。持ち出し、不可。
……自分の目で見るしかないじゃないの。
その夜の目録には、こう、増えた。
「分類機(銀行・穿孔カード式):実見。電化すれば即、コンピュータ時代。——推定、猶予は十数年」
「所感:機械は、速いだけ。規則が、先」
「アリアドネ草案(伝記所収の骨子):志は正、設計は否。一括施行・経過措置なし。——反面教師として、最上級」
「遺志:継承。方法:変更」
「裁定第三十九年度第六号:主文残存、理由欠落(三葉・刃物・切り口は古い)。写本師の注記による。——設計の物証、候補」
「古文書庫:原本の実見。最優先」
「古書店主:ルカヌス・モンタヌス様。十歳の折の、本の贈り主と、同一人物。法曹の若い才能を、支援する篤志家、と推定」
「Convenis:モンタヌス様の、恩人の口癖。——良い言葉だわ。合っている本しか、売らないお店」
それから、少し、間を空けて、もう一行。
「あの紙幣の目:束になると、大勢で、馬鹿にしてくる。——不服」
◇
翌日の、午後。講義が引けてから、律子は、古文書庫へ、向かった。
帳場の書庫番は、今日も、白い眉の、老人だった。
「第三十九年度の、裁定合本を、お願いします」
「……ほう」
眉が、少し、動いた。それだけだった。老人は、奥へ消えて、厚い合本を、抱えて、戻ってきた。
「持ち出しは、できませんぞ」
「存じております」
閲覧机で、律子は、合本を、開いた。頁を、繰る。第六号。主文。「——契約を、無効とする」。
その先。
第百二十頁の、次で、——紙が、途切れていた。
喉元に、細い、切り株のような、紙の名残りが、三枚ぶん、並んでいた。
律子は、顔を、近づけた。
……切り口が、古い。焼けて、周りの紙と、同じ色になっている。
……昨日今日じゃ、ないわ。何十年も、前。
……直線。一度で、引いてある。
……誰が、いつ、は、——分からない。分からないように、できている。
……閲覧の記録が、何十年も、残っているはずも、ないもの。
……雑で、乱暴だけど、——追えない。
……賢いやり方だこと。腹が立つくらい。
書庫の奥から、音が、していた。
規則正しい、ペンの音。
……あの音。
……前に来た時も、していたわね。あの時は、見に行かなかった。調査で、手一杯だったから。
律子は、立ち上がった。
……今日は、行くわよ。
◇
書見台の並びの、一番奥。窓の下の机で、背の高い学生が、書いていた。
黒に近い、奨学生の制服。錆びた赤褐色の髪。
……カンディドゥス様。
……先日お見かけした時は、読んで、いらしただけなのに。今日は、——書いて、いらっしゃる。
……でも、待って。
……あなた、忘れない方でしょう。
……一度読んだものを、忘れない。だから、ノートを、取らない。
……書く必要のない方が、——なぜ、書いていらっしゃるの。
……それに、あの、指のインク。入学式の日から、ずっと、不思議だったのよ。ノートをお取りにならない方の指に、なぜ、インクの染みが、あるのかしら、って。
机の上に、開いた原本。文鎮。インク壺。そして、書きかけの頁に、——見慣れた字が、並んでいた。
定規のように正確で、冷たくない字。
……あら。
……あらあらあら。
……九冊読んだ、あの字だわ。
……書き手は、あなた、だったの。
視線に、気づいたのだろう。マルクスが、顔を、上げた。ペンが、止まった。
「……セヴェリーニ様」
彼は、立ち上がって、一礼した。
「お仕事中に、ごめんあそばせ。——その字」
律子は、机の上の、書きかけの頁を、見た。
「私の九冊の、判例集の字と、同じですわね」
間があった。
「——はい。私が、写しました」
隠す訓練を、受けたことのない顔は、隠す気配も、なかった。
「一つ、伺っても、よろしいかしら。あなた、忘れない方でしょう。書く必要が、おありにならないのに、——なぜ」
「写本は、読むためではなく、売るために、書くものですから」
当然のことを言う声だった。
「——私の副業です」
「……」
「家に、仕送りをしておりますので」
……お金の、ため。
……仕送り。
……あの日の、パン。写本の道具の無い、書見だけの、午後。
……あれは、勉強の風景じゃ、なかったのね。稼ぎの、隙間の風景。
……昼を、食べたり、食べなかったり、しながら、写本で稼いで、その隙間で、勉強していらっしゃる。
……そして私は、その労働品を、お金で、九冊、買って、机に積んで——
……ああ。
……私、なんてことを。
……「書いて、書いて、また、書いて、五年」ですって。私の五年は、学ぶために書いた五年。あの方の五年は、——生きるために書いた五年よ。
「カンディドゥス様。——入学式の日。私は、あなたに、うらやましいと——」
言いながら、頬に、熱が、上るのが、分かった。
「はい。——覚えております」
「……存じませんでしたの。あなたが、その魔法で、生計を——。ですから、あの言葉は——」
「セヴェリーニ様」
静かな声だった。
「あなたのような方に、そう言っていただいて。——私は、少し、自分が、誇らしかったのです」
「……」
「ですから、——謝られる必要は、ないのです」
……。
……この方は。
……本当に、まっすぐ、ものを言う方ね。
律子は、一度、目を伏せて、——弁護士の背筋に、戻った。
「……第三十九年度、裁定第六号。挟み紙、拝読しましたわ。それで、原本を、確かめに、参りましたの」
「——第百二十頁」
「ええ。見て、まいりました。あなたの注記の、通り。——写本師として、一つ、伺いたいの。よろしければ、もう一度、ご一緒に」
二人は、閲覧机へ、戻った。開いたままの合本の上に、午後の光が、落ちていた。
三枚ぶんの、細い切り株。
「あの切り口、あなたの目には、どう、見えて?」
「——迷いの、ない仕事です」
マルクスは、言った。
「頁を、選んで、一度で、引いています。試し切りも、力の乱れも、ない。紙を、切り慣れた者です。……それと」
「それと?」
「切ったのは、読んだ者です。——理由の、始まる頁と、終わる頁を、正確に、知っていた」
……読んだ上で、切っている。
……理由の中身を、知っていて、——それを、消したかった。
……顔の見えない、読み手。何十年も前の。
「……勉強に、なりましたわ。お仕事の、お邪魔を、いたしました」
「いえ」
律子は、一礼して、歩き出した。
数歩、行ったところで、
「——ご依頼の、九冊」
声が、背中に、届いた。振り返ると、マルクスは、もう、机の方へ、向き直りかけていた。
「良い、注文でした。——読む順に、並んでいた」
それだけ、言って、彼は、机に、戻った。
ペンの音が、また、始まった。
◇
夜。貴賓区画の自室で、目録には、こう、書いた。
「写本師:マルクス・カンディドゥス様。九冊の書き手。注記の流儀、実見」
「裁定第六号:切除は、読んだ者の仕事(写本師の見立て)。理由の中身を、知る者が、消した」
ペンが、そこで、止まった。
……裏表の、ない方。
……誠実、という言葉の、固まりみたいな方だわ。
……うらやましいのは、魔法では、なかったのよ。——魔法との、付き合い方の方。
……そして、言葉は、少ないけれど。……思いやりがある。
……「誇らしかった」なんて。あれは、——私を、楽にするための、言葉よ。
……私、あの方を、五年間、見も、しなかった。
……記憶の魔法と聞いて、ただ、うらやましい、と言った。境遇を、見もしないで。
……また、何も見ていなかった。
……。
頬に、また、熱が、上った。
……。
……羞恥、よね、これ。
……羞恥、——だと、思うのだけれど。
律子は、蝋燭を、消した。




