第96話 悪役令嬢、銀行で驚く
月末、律子は、坂の下の銀行へ、出向いた。
お父さまからの、送金を受取らなくてはならない。為替状には、短い添え状が、付いていた。
「学問は、金がかかる。良い金の、使い方だ。——足りなければ、言いなさい」
……ありがとう存じます、お父さま。
……実際、かかるのよ。写本が九冊。書籍が、ひと山。この先、まだまだ。
……そろそろ九冊目が、仕上がった筈。残金を、払って、しまいましょう。
銀行の広間は、静かで、広く、調度品も豊かだった。磨かれた木の柵。真鍮の窓口。リル建ての為替と、五カ国の言葉が、行き交っている。ここでは、律子の名前を聞いても、誰も、匙を落とさなかった。札束の前では、噂は、静かになるらしい。
窓口係が、為替状を確かめ、奥から、紙幣の束を、持ってきた。
高額券の、束だった。
卓の上で、係が、慣れた手つきで、数え始める。一枚。二枚。三枚——
札の中央で、男の肖像が、悪戯っぽい目で、笑っていた。
一枚めくられるたび、同じ目が、現れた。同じ角度で、同じ笑い方で。十枚。十五枚。二十枚。
……。
……一枚でも、気に入らないのに。
……束になると、なお、気に入らないわね、この目。
……二十人がかりで、馬鹿にされている気分だわ。
「——お確かめください」
「ええ。確かに」
律子は、束を、ジーナの提げる革の鞄に、収めさせた。ジーナが、鞄を、両腕で、抱えた。中の拳銃と、札束で、ずいぶん、頼もしい鞄になった。
◇
手続きの控えを待つ間、広間の奥から、音が、していた。
カシャン。カシャン。カシャン。
規則正しい、乾いた、金属と紙の音。
「……あの音は?」
「ああ。——当行の、分類機でございます」
窓口係の声に、誇らしさが、乗った。
「よろしければ、硝子越しに、ご覧になれますよ。お客様には、人気でして」
案内された廊下の先、硝子壁の向こうが、計算室だった。
律子は、——立ち止まった。
長い机に、藁色のカードが、積まれている。縦横に、小さな穴。係員が、レバーを引くたび、針の列が、カードに、下りる。穴を通った針、通らない針。カードが、するり、と、仕分けられて、受け皿に、落ちていく。カシャン。別の係員が、受け皿ごとに、手回しの計数器を、回す。
カードが、流れていく。分けられていく。数えられていく。
……穴のあいたカード。
……分類機。
……ソーター。
……これ、——ホレリスじゃないの。
律子は、硝子に、一歩、近づいた。
……一八九〇年。米国の国勢調査で、手作業で八年かかった集計を、一年に縮めた機械。
……のちの、IBM。
……それが、目の前で、動いてる。電気も、使わずに。針と、レバーと、受け皿で。
……ここまで、できているの。この世界は。
律子の背中を、静かなものが、走った。驚きと、——予感だった。
……蒸気機関車が、走り始めた。自動車が、街を、駆け始めた。工場が、煙を、上げている。
……なら、電気は、来るわ。数年か、十数年か。遠くない未来に。
……そして、来た瞬間に。
……この機械に、電気が、繋がれた瞬間に。
……その場で、コンピュータの時代が、始まる。
……針が電線になり、受け皿が回路になり、手回しの計数器が——
……もう、部品は、全部、揃っている。この部屋は、電気を、待っているだけ。
硝子の向こうで、カードが、また一枚、受け皿に落ちた。カシャン。
……秒読みなのね、この世界。誰も、気づいていないだけで。
傍らで、ジーナが、硝子に、張り付いていた。
「お嬢様、これ、なんですか。中で、小人さんが、仕分けてるみたいです」
「機械よ。穴の場所で、紙を、仕分けるの」
「賢いんですね、機械って」
「いいえ」
律子は、言った。
「機械は、賢くないわ。——速い、だけ。賢いのは、使う人の方よ」
……そして、速さは、善にも、悪にも、仕える。
……電気が通れば、帳簿も、契約も、——あの産業の管理も、機械の速度になる。
……規則のない産業に、速度を、与えたら、どうなるか。
……答えは、もう、見ているわ。置換契約が、その、先例だもの。
……つまり、締め切りが、あるのよ、私の仕事には。
……機械が速くなる前に、規則を、間に合わせないと。
◇
「あの機械は、いつ頃から、あるものなの?」
帰りがけに、窓口係に、聞いてみた。
「百年ほど前に、エアルで、生まれたそうでございます。国立銀行と、ほとんど、同い年で。——当行のは、三代目の型ですが、仕組みは、初代から、変わっておりません」
「エアルで」
「はい。国立銀行を立ち上げた、フェルディナント財務卿の御代に」
……エアル。
……クララの生まれた国。
……ウィスキーと、製紙と近代金融が生まれた国。
……銀行と同時にコンピュータの原型が生まれた?
……ちょっと、出来すぎじゃないかしら。
銀行を出て、坂を、上りながら、律子は、考えていた。
……私が、電気を、発明したら?
……いや、私は技術者じゃない。仕組みは分かっても、作れはしない。
……それに。エジソンの本当の発明は、電球じゃない。
……研究所。発明を、組織で、量産する仕組み。あれは、一人の天才の仕事じゃなくて、——組織の経営。
……片手間に、できるものですか。
……私の研究所は、——法廷と、書庫と、目録が専門。
……発明は、この世界の、エジソンに、任せ。
……私は、その前に、規則を、書いておく係。
坂の途中に、古書店の看板が、見えてきた。
◇
二十二番地。律子は、古書店の扉を、押した。
鈴が、鳴った。濃密な本の匂いで満ちていた。ひと月、通って、もう、鼻が覚えた匂いだった。
奥の帳場に、五十がらみの紳士が、いた。白い手袋の手が、頁の上で、止まって、顔が、上がった。
「いらっしゃいませ。——セヴェリーニ様」
「九冊目が、仕上がった頃かと、伺いましたの。残金のお支払いも、ございますし」
「わざわざ、お運びいただくとは。お届けに、あがりましたものを」
「銀行の、帰りですのよ。坂の、途中ですもの」
傍らで、ジーナが、革の鞄を、抱え直した。
紳士は、帳場の下から、油紙の包みを、取り出した。両手で、卓の上に、置いた。ひと月で、九度目の、包みだった。
「九冊目で、ございます。——お納めが、遅れましたことを、お詫び申し上げます」
「二日ほどでしたら、遅れたうちに、入りませんわ」
「職人が、時間を、かけました。原本の、状態が、悪かったそうで」
「虫、ですの?」
「いえ」
紳士は、短く、言った。
「職人から、言伝が、ございます。——『挟み紙を、必ず、お読みください』と」
……あら。
……八冊目までの挟み紙は、「読んでくれ」なんて、言わなかったわ。
……黙って、正確なことだけが、書いてあった。
「承りました。必ず」
律子は、包みを、ジーナに、渡した。ジーナが、大事そうに、抱えた。
◇
残金は、封筒に、用意してあった。
律子が、卓に置くと、紳士は、一礼して、白い手袋を、外した。
現れた手は、——店主の年齢より、ずっと、若く見えた。
……あら。
……本を扱う方は、手を、大事になさるのね。手袋の、賜物かしら。
紳士は、札を、数え始めた。一枚。二枚。三枚。
札の中央で、例の男が、悪戯っぽい目で、笑っていた。
四枚目で、——紳士の親指が、肖像の上で、一瞬、止まった。
そして、——また、動きだした。
「——確かに、頂戴いたしました」
受取証の字は、丁寧で、少し、古風だった。
「この度は、良いお仕事を、ありがとう。写本師の方にも、お伝えください」
「伝えます。——職人冥利と、申しましょう。九冊、通して読まれる方は、そう、いらっしゃいません」
「あら。読むために、頼みましたのよ」
「ですから、冥利なのです」
◇
「——ときに、一つ、伺いたいことが、ございますの」
「はい」
「アリアドネ議長の、法案の草稿。——正本は、評議会の文書館で、閲覧は許可制と、伺いましたけれど。写しが、入荷することは、ございますの?」
「——ございません」
紳士は、静かに、言った。
「正本と、審議の議事録は、評議会が、抱えております。写しは、——そもそも、作られなかったかと。通らなかった法案を、欲しがる市場は、ございませんので」
「あら。手厳しいこと」
「古書の相場は、正直で、ございますから。——ですが」
紳士は、帳場を離れて、奥の棚から、一冊、抜いてきた。
「伝記でしたら、ございます。『議長アリアドネ——その生涯と立法』。研究書に、近いものですが、巻末に、草案の、章立てと骨子が、引かれております。……編纂の顛末も」
棚の同じ場所に、同じ背表紙が、あと二冊、並んでいるのが、見えた。
……よく、仕入れるのね、売れない時代の本を。
「頂きますわ。——それと、もしも議長の法案が、市場に出ましたら」
「——最初に、お報せいたします」
「お願いしますわ。お代は、言い値で」
「言い値は、頂きません。適正な価格で」
◇
扉の前で、ジーナが、先に、外へ出た。油紙の包みを、胸に抱えたまま、器用に、扉を、押さえている。
律子は、会釈をして、敷居を、跨ぎかけた。
「——では、セヴェリーニ様。良い、読書の時間を」
背中に、紳士の声が、届いた。それから、ほとんど、独り言のような、小さな声が、続いた。
「——コン、ウェーニス」
……。
律子は、敷居の上で、止まった。
……Convenis。
……動詞 Convenio の、二人称単数形。「君に合う」「君にとって良い」。古い、言い回し。
……お店の、締めの挨拶にしては、ずいぶん、古典的——
……いえ。
……待って。
……その言葉。私、知っているどころじゃないわ。
……書いたことが、あるのよ。手紙に。
……十歳の、冬。ペトルス先生が、抱えていらした、革表紙の本。見返しの、献辞。
……『ところで、お嬢様は、Convenis を、ご存じですか。 LM』。
……LM。
……ルカヌス・モンタヌス。——アルカディアで、古書店を営んでおられる方。
律子は、振り返った。
紳士は、帳場の向こうで、静かに、立っていた。夕方の光が、棚の背表紙を、順番に、通り過ぎていくところだった。
「——モンタヌス様、で、いらっしゃいますね。ルカヌス・モンタヌス様」
答えるまで少しの間が、あった。
「……はい。モンタヌスに、ございます」
紳士は、深く、一礼した。
「七年も前のことを、——よく、覚えていらっしゃいました」
「覚えておりますわ。頂いたのです。——十歳の折に、素晴らしい本を。『古代諸部族における女性の社会的地位』。私の、次の問いに、ぴったりの一冊でした」
「良い読み手に、届いたようで、何よりでした」
「なぜ、と、伺っても? お会いしたこともない、十歳の小娘に」
「論文を、拝読しましたので」
当然のことを言う、静かな声だった。
「良い読み手には、良い本が、届くべきです。手前どもの、商いの、根でございますから。——それだけの、ことです」
……それだけの、こと。
……七年前に、遠い国の子供の紀要論文を読んで、次の問いを見抜いて、一冊を選ぶ。
……「それだけ」の仕事が、できる本屋さんが、世界に、何人いるかしらね。
……とんだ、支援者が、いたものだわ。
「あの折の礼状に、私、書きましたのよ。『いつか、お目にかかれる日を、楽しみにしております』と」
「——はい。頂戴いたしました」
「その『いつか』に、ひと月も、気づきませんでしたわ。毎週、お店の鈴を、鳴らしておきながら」
「手前が、名乗りませんでしたので」
「ええ。——なぜ、名乗ってくださいませんでしたの?」
紳士は、少しだけ、間を、置いた。
「……古い商人の、癖でございます。売り物は、本で、ございますから。——店主の名は、勘定の、外に」
……ふうん。
……嘘では、なさそう。でも、全部でも、なさそうね。
……まあ、いいわ。詮索は、礼を欠くもの。
「先ほどの、——Convenis。献辞にも、ございましたわね。お好きな言葉ですの?」
「——恩人の、口癖でして」
紳士は、それだけ、言った。
「挨拶の、代わりに、使っております」
「どなたの、とは、伺いませんわ。恩人の口癖は、みだりに、他人に語らせるものでは、ございませんもの」
「……痛み入ります」
「では、モンタヌス様。——改めて。七年前の一冊と、この九冊に、御礼を申し上げます」
律子は、令嬢の礼をした。深く、正確に。
紳士も、深く、礼を返した。
鈴が、鳴って、扉が、閉まった。




