第94話 悪役令嬢、気になる
その日の午後、律子は、中庭の外れへ、足を、向けた。
旧礼拝堂。
魔法史の講義で、ルシア先生が触れた、蜜月の時代の、建築。後で、見ておこうと思ってから、だいぶ、経ってしまった。
近づくと、——音が、した。
バイオリンの音だった。
石造りの小さな建物の、重い扉が、少しだけ、開いている。隙間から、旋律が、細く、流れ出ていた。
律子は、扉を、押した。
中は、縦に開けた空間だった。小さな建物なのに、天井だけが、高い。埃の匂い。斜めに差す、色硝子越しの光。古い祭壇には、天秤の浮彫——セルヴィア様式の、意匠だった。
その祭壇の前で、レオンハルト・フォン・リヒテンフェルスが、弾いていた。
譜面台も、なかった。一人と、一挺のバイオリンだけがそこにあった。旋律が、高い天井に、昇って、降りてくる。
曲の切れ目で、彼は、弓を止めて、——振り向いた。
「セヴェリーニ嬢」
驚いた様子は、なかった。軍人の家の人間は、背後の気配に、驚かないのかもしれない。
「ごきげんよう、リヒテンフェルス様。……お邪魔を、してしまいました」
「いや。——足音が、していた」
「あら。……気づいて、いらしたの」
「石畳は、よく、鳴る。——三小節、前から」
……三小節前。
……扉に着く前から、ばれていたのね、私。
「こちらで、練習を?」
「音響が、良い」
簡潔だった。
「三小節前から、お聞こえになるのですもの。お耳も、よろしいのね」
「——音の、属性だ」
彼は、当然のことのように、言った。
「些細な魔法だ」
「まあ。楽器には、あつらえ向きの、属性ですこと」
「……そうだな」
少しだけ間があった、ような気がした。気のせいかも、しれなかった。
「……七不思議は、ご存知? ここ、二つ目の——祈る女が、出ますのよ」
「聞いた」
彼は、弓で、天井を、軽く、指した。
「出たら、——聴かせれば、いい。客がいると、張り合いがある」
……あら。
……いいわね、この方。
「歓迎会では、ありがとう存じました。おかげで、良い演目に、なりましたわ」
「礼は、要らない。——あの影は、拍を、持っていた」
「拍」
「拍を持つものには、合わせる。それだけだ」
彼は、当然のことのように、言った。噂がどうという話は、最初から、彼の判断基準の中に、存在していないらしかった。彼の世界は、拍を持つものと、持たないものとで、できているのだろう。
「軍人の家の方が、バイオリンとは、珍しいのね」
「軍人の家では、三男は、余りだ。——余りは、好きに、していい」
声に、湿り気は、なかった。事実として、言っていた。
律子は、会話の合間に、堂内を、見るともなく、見ていた。癖だった。
長椅子には、埃が、均等に、積もっている。使われていない建物の、正しい埃だった。祭壇の天秤の浮彫。剥がれかけた壁の彩色。そして——
……あら。
壁際の、古い燭台。
受け皿に、蝋の垂れが、あった。
……新しいわ、あれ。
……埃を、被っていない。
「リヒテンフェルス様。あちらの灯りは、あなたが?」
「いや」
彼は、燭台を、一瞥した。
「弾くのに、灯りは、要らない。それに、——昼しか、来ない」
「……そう」
……使われていない礼拝堂の、新しい蝋。
……誰かが、夜、ここに、来ている。
……覚えて、おきましょう。
「では、リヒテンフェルス様。ご練習の、お邪魔をいたしました」
「いや。——また、合わせる機会が、あれば」
「ええ。機会が、あれば」
律子は、礼をして、重い扉を、押した。背後で、旋律が、再開した。祈る女の代わりに、天秤の祭壇が、それを、聴いていた。
◇
夜、貴賓区画で、律子は、目録を、開いた。
「アウレリオ:セルヴィアへ帰任。以後、お父さま付き」
「ジーナ:拳銃一丁、貸与さる(内側の守り)。命中精度:板の端→中円まで七巡。装填:九十秒→七十秒。——芋の皮むきの成果、との由」
「カンディドゥス氏:昼食、パン一切れ(本を汚さない位置で)。——所見:気になる」
書いてから、少し、考えた。
……気になる、の、何が、とは、書けないのだけど。
……調査対象でもないのに、目録に載せるのも、変な話よね。
……でも、影が、先に、見たんだもの。仕方ないわ。
「リヒテンフェルス氏:旧礼拝堂にて単独練習。判断基準:拍。クララさんへの接近:観測されず。——攻略対象説:保留、継続」
「同氏、魔法は、音の属性(ご本人談。『些細な魔法』、とのこと)。道理で、お耳が、よろしいわけだわ。——楽器向きの、可愛らしい属性」
「同件、アウレリオの見立て(部屋を聴く耳)と、ご本人の申告(些細な)が、割れている。——どちらも、嘘とは、限らないのよね。保留」
「旧礼拝堂:燭台に、新しい蝋の垂れ。氏の使用に非ず(昼のみ・灯り不使用)。夜間の使用者、不明。——要観察」
頁を、眺めた。
……気になる、が、三件。
……パンと、蝋と、——それから、まだ聞けていない、八つ目の噂。
……学園というのは、本当に、忙しいところね。
床の影が、机に上って、耳を、ぴこん、と、立てた。
「なあに。……ええ、明日も、書庫よ」
耳が、ぴこぴこ、と、揺れた。
「……先に、見たのは、あなたの方でしょう」
律子は、蝋燭を、消した。




