第93話 悪役令嬢、見送る
パン、と、乾いた音がした。
貴賓区画の、裏庭の方からだった。
律子は、写本から、顔を上げた。パン。もう一発。
……銃声。
……うちの裏庭で?
行ってみると、裏庭の奥の壁際に、的が立っていた。板に、円を三つ、描いただけの的だ。その手前、十歩ほどのところに——
ジーナが、いた。
両手で、二連装の古式拳銃を、構えていた。腰が、引けていた。それはもう、見事に。上体だけが前に、お尻は後ろに、顔は半分、そっぽを向いて、目は、つぶる寸前。へっぴり腰、という言葉の、教科書のような姿だった。
その後ろに、アウレリオが、腕を組んで、立っていた。
「……何を、なさっているの」
「警備が、暇ですので」
アウレリオは、当然のように、答えた。
「——教えています」
「あっ、お嬢様!」
ジーナが、銃を持ったまま、振り向きかけて、
「銃口」
アウレリオの短い声に、慌てて、的へ、向き直った。
「す、すみません」
……なるほど。
……警備が暇。それは、そうでしょうけど。
……なぜ、今、ジーナに、銃を。
考えて、答えは、一つしか、なかった。
「……アウレリオ。あなた、帰るのね。セルヴィアへ」
「——はい。近く」
彼は、的から、目を離さずに、答えた。
「外は、公宮の護衛が、います。内は、——彼女しか、いませんので」
……ええ。
……そうね。
……あの家の警備は、一度、破られているものね。あなたが戻るのが、正しいわ。
「お嬢様も、お一つ、いかがですか」
「私は、結構よ。——私には、影が、いるもの」
「はい」
アウレリオは、それ以上、勧めなかった。それから、ジーナに、短く、言った。
「腰」
「は、はいっ」
「目」
「開けてます! 開けて——半分、開けてます!」
「息」
「……すー、……」
パン。
的の、外の壁に、当たった。
「もう一度。——腰」
パン。
的の、板の端に、当たった。
「……当たりました! お嬢様、見ましたか、いま、当たりました!」
「ええ、見たわ。板の、端にね」
「板も的のうちです!」
「——装填」
アウレリオが、言った。ジーナは、銃を下ろし、腰の小さな革袋から、道具を、出した。
装填は、——時間がかかった。
薬入れから、火薬を、量って、銃口に、注ぐ。丸い弾を、小さな当て布ごと、押し込む。装填用の棒を抜いて、突き固める。雷管を、摘まんで、火門に、被せる。——これで、片方。同じことを、もう一方の銃身にも、繰り返す。
ジーナは、その間じゅう、小声で、唱えていた。
「お粉を量って、お団子入れて、棒でぎゅっぎゅ、帽子をぱちん。……お粉を量って、お団子入れて——」
「……何かしら、それは」
「レシピです! お料理と、一緒なので。手順は、レシピにすると、覚えられます」
アウレリオは、懐中時計を、出していた。
「——九十。……遅い」
「くっ……」
……九十秒。
……撃つのは、二発で、一瞬。込め直すのに、九十秒。
……なるほど。
……これが二丁拳銃の理由ね。
ジーナは、のってきた。この子は、のると、早い。三巡目には、腰が入り、五巡目には、目が両方開き、レシピの口上は、そらで回るようになった。九十秒は、七十秒になった。そして、七巡目には——
パン。
真ん中の円の、すぐ外に、穴が、開いた。
「————」
律子と、アウレリオは、顔を、見合わせた。
「……ジーナ。あなた、才能が、あるのじゃなくて?」
「えへへ。わたし、芋の皮むきで、鍛えてますから」
関係があるのかは、分からなかった。
ジーナは、すっかり、調子に乗って、続けざまに、引き金を引いた。パン。パン。——そして。
カチ。
カチ、カチ。
撃鉄だけが、空しく、鳴った。ジーナは、まだ、構えたまま、カチカチと、引き金を、引き続けていた。
「……あれ? あれ?」
アウレリオが、その横に、静かに、立った。
「——弾は、二発です」
「……はい」
「二発で、駄目な相手なら」
彼は、空の銃を、ジーナの手から、そっと、下ろさせた。
「撃つのを、やめて。——お嬢様と、走って、お逃げなさい」
ジーナは、空の銃と、アウレリオの顔を、順番に、見た。それから、真剣な顔で、頷いた。
「……はい。二発で駄目なら、走る」
「良し」
教練は、それで、終わりだった。ただ、翌朝も、翌々朝も、裏庭からは、パン、パン、と、二発ずつ、乾いた音が、聞こえた。二発撃っては、装填し、二発撃っては、装填する。カチカチは、二度と、聞こえなかった。
◇
その週、律子は、古文書庫に、通っていた。
第十六年度の先例集。あの模擬裁判で諳んじられた、未読の巻。目録に「要至急、確認」と書いた以上、確認しないという選択は、ない。
静かな午後だった。書架の森の、いつもの机で、頁を、繰る。
ふ、と。
机の下の影が、動いた。
伸びをするように、す、と、書庫の奥の方へ、耳を、向けたのだ。
……なあに。
律子は、影の視線——を、辿った。
書庫の奥の、窓際の机に、マルクス・カンディドゥスが、いた。
今日は、書見だった。法典を、一冊、開いて、読んでいる。ペンは、持っていない。ただ、読んでいる。頁をめくる手つきが、綺麗だった。本の扱いに、慣れた手つきだった。
……あら。
……あなたも、いらしたの。
……まあ、法学徒が書庫にいるのは、魚が水にいるのと、同じことね。
律子は、自分の頁に、戻った。影は、まだ、奥を向いていた。
「……こら。見すぎよ」
小声で、たしなめた。影の耳が、不服そうに、ゆっくり、戻ってきた。あなたの無意識でしょう、と言われたら、返す言葉が、ない。
昼の鐘が、鳴った。
書庫にいた学生たちが、ぱらぱらと、立ち上がって、食堂へ、出ていく。書庫番の老人まで、帳場の奥へ、引っ込んだ。
マルクスは、——動かなかった。
代わりに、鞄から、布の包みを、出した。開くと、パンが、一切れ。硬そうな、黒っぽいパンだった。彼はそれを、開いた法典の、陰になる位置に、置いた。書物に、欠片が落ちないよう、体を、少し、机から引いて。一口、かじっては、頁を、読む。
律子は、先例集の陰から、それを、見てしまった。
……昼食が、パン一切れ。
……首席の学生が。
……本を、汚さない位置で。
……。
……いえ。詮索は、しないの。ご事情は、人それぞれよ。
……でも。
……気になるじゃないの。
帰りがけ、書架の間の通路で、すれ違った。彼は、法律の解説書を三冊、抱えていた。律子の腕の中の、第十六年度に、目を、留めた。
「——第十六年度」
「ええ。あなたに、諳んじられた巻ですもの。全部、読みますわ」
「……頁の端は」
「折りませんわ。挟み紙専門ですの」
「——良かった」
彼は、心底、安堵した顔で、そう言って、礼をして、行ってしまった。
……。
……「良かった」って、何よ。
……私の宣戦布告より、頁の端の方が、大事なの。
◇
数日後の朝、貴賓区画の門の前に、旅装の馬が、一頭、立っていた。
「学府の警備は、——固いです」
アウレリオは、報告から、始めた。この人の別れの挨拶は、警備報告なのだった。
「公宮府の護衛が、三人。遠巻きに、付いています。……腕は、悪くない」
「あら。お試しに、なったの」
「屋根に、登りました」
「……それで?」
「三十秒で、囲まれました」
……三十秒。
……あなたを三十秒で囲めるなら、確かに、悪くないわね。
「それから、——歓迎会の、弦の方」
「あら。リヒテンフェルス様?」
「あの方の立ち位置は、楽士のものでは、ありません」
アウレリオは、当然のことを言う声で、続けた。
「壁を背に、出入口の見える場所。広間の全員が、視界に入る角度。——自分と、同じ場所を、選びます」
「……」
「耳も、です。あの晩、影絵と、拍手と、笑い声と、——広間の全部を、聴いておいででした。楽士は、自分の音を聴くものです。あの方は、部屋を丸ごと、聴いておいでだった」
「軍家の、ご三男ですもの」
「はい。ですから、敵では、ないでしょう。躾の、良い家の方です。——ただ」
「ただ?」
「あの方の届く範囲では、内緒話を、なさいませんように」
……あら。
……プロの、査定だわ。
「覚えておくわ」
「アウレリオ。お父さまを、お願いね」
「はい。——そのために、戻ります」
即答だった。とうに、同じ結論に、辿り着いていた顔だった。
それから、彼は、腰のホルスターから、拳銃を、一丁、外した。撃ち慣らされた、二連装の、あの銃だった。布に包んで、——ジーナに、差し出した。
「置いていきます。——手入れの仕方は、教えた通り」
ジーナは、両手で、受け取った。もう、よろけなかった。
「三つ、言ってみなさい」
「指は、最後まで、掛けない。撃つのは、お嬢様に覆いかぶさっても間に合わない時だけ。——二発で駄目なら、走る!」
「良し」
アウレリオは、頷いて、律子に、向き直った。
「あなたの右手が、一丁ぶん、空いてしまうわね」
「セルヴィアで、新型を、誂えます」
「時代は、進むのね」
「はい。自分も……追いつかれない程度に、進んでおきます」
彼は、馬に、乗った。馬上から、正確な、一礼をした。
「——お嬢様。ご学業の、ご成就を」
「あなたも。道中、ご無事で。……あなた、私の手紙より先に、着いてしまうわね。お父さまに、『長いのを書く』と、お伝えして」
「はい」
馬が、坂を、下っていった。朝の街の、青白い灯の名残の中を、旅装の背中が、小さくなって、消えた。
隣で、ジーナが、布の包みを、胸に、抱いていた。
「お嬢様。わたし、——お嬢様は、わたしが、守ります」
「頼もしいわ、ジーナ。あなた、的なら、もう、当てられるものね」
「はい! ……あの、でも、お嬢様」
「なあに」
「本物は、的みたいに、じっと、してて、くれませんよね」
「……ええ。だから、三つ目が、あるのよ」
「二発で駄目なら、走る」
「そう。——二人で、逃げましょう」




