第92話 悪役令嬢、好敵手に会う
反駁の応酬は、短く、鋭かった。
マルクスは、崩れなかった。先例を、もう二件、積んだ。第九年度、第二号。第十六年度、第十一号。どちらも、正確だった。憎らしいほど、正確。
律子は、最後に、一つだけ、問いを投げかけた。
「代理人。その、第十六年度、第十一号。——なぜ、裁定所は、そう判じたのだと、お考えになりますか?」
マルクスが、止まった。
ほんのわずかの空白。
法廷が、そのわずかな時間を、聞いた。
「……文言に、従ったからです」
「文言は、なぜ、そう、書かれたのでしょう」
「————」
次の空白は、長かった。
彼の顔に、何かが、滲み出た。隠す訓練を、受けたことのない顔だった。出たのは、——硬いものだった。
「……暗記だと、仰りたいのですか」
声に、初めて、温度が、乗った。低い方の、温度だった。
「私の引用が、ただの——」
「両代理人」
グラティアヌス教授の、乾いた声が、割って、入った。
「弁論は、判定席に、向けたまえ。——双方、最終弁論は、あるかね。……なし。では、判定に、入る」
◇
「判定を、述べる」
教授は、髭を、ひと撫でした。
「カンディドゥス君。君の引用に、誤りは、一つも、なかった。条文、先例、論文——一字も、違わん。わしは、五十年、教壇に立っておるが、あれほど正確な弁論を、聴いたことが、ない」
マルクスは、頭を、下げなかった。判定は、まだ、途中だった。
「セヴェリーニ嬢。君は、——法が、生きて動くものだと、示した。条文が、なぜ、そこにあるのか。誰のために、あるのか」
そこで、グラティアヌス教授は、一人、顔を伏せた。表情を読ませないために。そして言った。
「……本件、被害学生側の主張を、わずかに、優勢と、判定する」
傍聴席が、沸いた。
律子は、礼をした。勝った。
……勝った、のに。
……なにかしら、この。
……勝った、実感のなさは。
◇
裁定所の外の廊下で、追いつかれた。
「——セヴェリーニ様」
振り返ると、マルクスが、立っていた。姿勢を正して、一礼した。
「お礼を、申し上げます」
「……あら。負けた方が、礼を?」
「はい、勉強させていただきました」
当然のことを言う、いつもの声だった。ただ、その下に、まだ、何かが、燻っていた。
「先ほどは、——声を、荒らげました。失礼を」
「いいえ。私も、あなたの論文の使い方に、腹を、立てておりましたから。おあいこですわ」
「……腹を」
「ええ。見事な引用過ぎて、——大変、不快でした」
マルクスが、瞬きをした。褒められたのか、叱られたのか、分からない顔だった。両方だと、気づくには、もう少し、かかるだろう。
「最後の、問いを」
彼は、言った。
「なぜ、と、問われました。——考えたことが、ありませんでした。文言は、覚えるものでしたから。……あの問いを、持ち帰ります」
「どうぞ、お持ち帰りになって」
律子は、扇子を、開いた。
「それから、カンディドゥス様。一つ、申し上げておきますわ。私、五年間、あなたを、お見落として、おりました。——同じ学院に、あれほどお上手にご論をお張りになる方がいらしたのに。……心外ですの。私の目は、良い方だと、思っておりましたのに」
「……それは」
「あなたのせいですわ。教室の、奥に、いらっしゃるから」
理不尽な物言いだった。承知の上だった。
「それと、もう一つ。入学式の日、あなた、仰ったでしょう。魔法込みの点だ、と。——今日のご弁論、どこまでが魔法で、どこからがあなたか、私、最後まで、区別が、つきませんでした」
律子は、扇子の縁の上から、彼を、見た。
「区別のつかないものは、実力と、呼ぶ、違いますか」
マルクスの顔に、何かが、出かかった。
彼は、それが、出てしまう前に、深く、一礼して、——踵を返した。長い足で、速やかに、廊下の向こうへ、歩き去った。ほとんど、行軍だった。
「……逃げたわ」
律子は、扇子の内で、呟いた。
「セヴェリーニ様〜!」
入れ替わりに、クララが、駆けてきた。
「かっこよかったです! 最後の、『石は、誰も、守りませんもの』のところ、わたし、鳥肌が!」
「あら、ありがとう」
「あと、途中の『悔しいけれど』も、胸が締め付けられました」
律子は、胸の前で手を組み、目を伏せたクララから目をそらして、呟いた。
「……あれは、忘れてちょうだい」
◇
夜、貴賓区画で、律子は、目録を、開いた。
「模擬審理:勝訴(僅差)。——但し、勝った気が、しない(不服)」
「カンディドゥス氏の引用先例:第七年度十四号、第十二年度三号、第十九年度八号、第九年度二号、第十六年度十一号。——全件、未読。要至急、確認」
書きながら、届いたばかりの写本を、引き寄せた。一冊目に、ちょうど、古い年度の裁定例が、含まれている。頁を繰ると、——あった。第七年度、第十四号。
あの正確な、急がない字で、写されていた。
律子は、しばらく、読んだ。
……不思議ね。
……同じ判例なのに。
……この字で読むと、癪に、障らないのよ。
それから、配役表の頁を、開いた。
「カンディドゥス様:攻略対象と推定(平民の秀才系)——」
ペンが、止まった。
……いえ。
……違うわね。
……攻略対象というのは、もっとこう、——きらきらと、して。
……あの方、きらきらというより、条文と先例で、殴ってくるし。
……手ぶらで法廷に来るし。
……礼を言いに来て、逃げるし。
……分類が、——できないわ。
律子は、書きかけの行に、線を引いて、書き直した。
「カンディドゥス様:分類、保留。(該当項目なし)」
「同氏:好敵手。——次回、未読先例を潰してから、再戦のこと」
床の影が律子の頭からウサギの耳をの伸ばした。ぴこぴこ、頁の上で、揺れた。楽しげだった。
「……なによ」
ぴこぴこ。
「うるさいわね。——不服なだけよ。僅差、だなんて」
ぴこ。
律子は、蝋燭を、消した。
暗がりの中で、次の法廷のことを、もう、考え始めている自分に、——律子は、気づかない振りを、した。




