第91話 悪役令嬢、模擬裁判をする
その朝、包みが一つ、貴賓区画に届いた。
油紙を解くと、真新しい写本が、一冊、現れた。注文した九冊の、一冊目だった。
律子は、頁を、開いた。
……あら。
……綺麗な字。
定規のように、正確な字だった。それでいて、冷たくない。誤りがなく、急いでいない。行の呼吸が、揃っている。頁の端まで、疲れを、見せない。
めくっていくと、余白に、小さな注記があった。
「原本、この頁、綴じ乱れ有り。前後を、入れ替えて、写す」
……原本の乱丁まで、直して、くださっているの。
……しかも、直したことを、報告している。
……きちんと原本に向き合っている。この字の主は、——信用できるわね。
「お嬢様、お支度を。今日は、その、——例の、裁判の日です」
ジーナが、制服を、抱えてきた。心なしか、声が、勇んでいた。
「ええ」
「あの、お嬢様。従者の食堂で、その、——賭けが、始まっておりまして」
「あら。そうなの?」
「カンディドゥス様の方が、——人気です」
「……あら」
「三倍と、一倍半です。お嬢様が、三倍」
「…………あら」
律子は、扇子を、ぱちり、と、閉じた。
……ほう。
……三倍。
……受けて、立とうじゃないの。
◇
事の起こりは、十日前だった。
契約法実習の教壇で、グラティアヌス教授——白鬚の老教授は、裁定所の記録綴りを、掲げてみせた。
「先月、裁定所で和解した、実際の事故案件を、教材とする。諸君には、模擬審理として、これを、争ってもらう」
案件は、こうだった。
魔法実習の最中、光属性の二年生が、術の出力を、誤った。強すぎた光が、隣にいた闇系統の一年生の影を、——消した。影は、半日で、戻った。怪我人は、いない。物も、壊れていない。ただ、影を失った半日の間、一年生は、震えて、部屋から、出られなかった。
光の学生に、賠償の責めは、あるか。
「被害学生側の代理人、——セヴェリーニ嬢」
教室が、ざわ、とした。
「加害学生側の代理人、——カンディドゥス君」
ざわ、が、どよ、になった。
「首席同士だ。——ちょうど、良かろう」
教授は、髭の奥で、面白そうに、笑っていた。老人というのは、時々、こういう趣味の悪いことをする。
◇
当日の裁定所は、満席だった。
小さな法廷に過ぎない。傍聴席は、五十も、入らない。その五十は、早々に埋まって、立ち見が群がっていた。悪役令嬢対、平民の首席。見世物としては、上等なのだろう。
最前列で、クララが、ぶんぶんと、手を振っていた。
……ええ、ええ。来てくれたのね。
……あなたのその手の振り方、法廷では、少し、目立つけれど。
判定席に、グラティアヌス教授。両袖の席に、代理人が、二人。
律子は、正面の席の、青年を、見た。
マルクス・カンディドゥスは、書類を、持っていなかった。机の上には、何も、ない。条文集さえ、ない。手ぶらで、法廷に、座っていた。
……手ぶら。
……ノートを、お取りにならない方は、法廷も、手ぶらなのね。余裕ね。
……面白い。受けて立ちましょう。
◇
審理が、始まった。
先攻は、被害側——律子だった。事実の経過、被害学生の半日の恐怖、賠償の要旨。手堅く、置いた。
後攻の、マルクスが、立った。
「加害学生側、代理人、カンディドゥスです」
静かな声が、法廷に響いた。
……あら、通るお声。
そして、二文目から、条文が、正確無比にそらんじられた。
「学院規程、第三十一条第二項。実習中の魔法事故については、故意または重大な過失ある場合を除き、賠償の責めを、負わない。本件の出力誤りは、通常の過失です。文言上では免責となる。これが、原則です」
正確だった。
「先例も、同旨です。裁定所、第七年度、第十四号。第十二年度、第三号。第十九年度、第八号。いずれも、実習中の過失事故につき、免責。第十四号の裁定書は、こう述べます——」
彼は、目を伏せもせず、諳んじた。裁定書の文言を、句読点を含めて、正確に再現していた。
……第七年度、第十四号。
……第十九年度、第八号。
……それ、私、まだ、読んでいないわ。
令嬢の顔を崩さず、でも、じわりと汗が滲んでいた。
……古文書庫の、あの書架の、写しの届いていない巻の——
……諳んじて、いらっしゃるの。全部。
……忘れない魔法。——伺うのと、法廷で浴びるのとでは、別物ね。
……悔しいわね、ちょっと。
「弁護人は、恐怖という損害を、仰るでしょう」
マルクスは、続けた。
「ですが、目に見えない恐怖に、賠償を認めれば、裁定の予見可能性が、失われます。同じ事故でも、怖がりの被害者なら、賠償が生じ、豪胆な被害者なら、生じない——そのような法は、もはや、法では、ありません」
そして、彼は、切り札を、置いた。
「同じ事実が、扱い方ひとつで、逆の結果になる。——その危険を、大陸で最も鮮やかに示した論文を、私は、知っています。条文の並べ替えだけで、同一事案の結論が反転することを、証明した論文です。著者は、当時、十四歳」
傍聴席が、ざわめいた。
「——被害学生側代理人、ご本人です」
律子の扇子が、ぴしり、と、鳴った。
……あら。
……あらあら。
……私の論文を。
……私に、向けて、撃ってきたわ、この方。
「著者のご自身が、証明された通り、法の柔らかさは、操作の余地です。ならば、裁きを守るのは、文言の、厳格な解釈しか、ない。——以上です」
マルクスは、座った。手ぶらのまま、条文と、先例と、彼女の論文だけで、城を、築いてみせた。
傍聴席の、賭けの倍率が、聞こえるようだった。
◇
律子は、立った。
「被害学生側、代理人、セヴェリーニでございます。——まず、申し上げます」
少しだけ間を置いた。
「ただいまのご論、条文のご解釈は、正確です。先例のご引用も、一字も、違っておりません。……悔しいけれど」
最後のひとことは、言わない予定だった。口が、勝手に、言った。傍聴席の、どこかが、笑った。
「そして、私の論文のご引用も、——正確でした。あの論文は、確かに、法の柔らかさが、操作の余地になることを、示しました」
律子は、正面の青年を、見た。
「ですが、代理人。あの論文は、——病気の、診断ですわ」
「……診断」
「診断に対して、あなたの処方は、患者を、殺しかねません」
傍聴席が、静かになった。
「柔らかさが危ういから、法を、石にする。——石は、操作されません。ええ。石は、誰も、守りませんもの」
律子は、判定席へ、向き直った。
「規程三十一条の免責は、なぜ、あるのでしょう。実習を、萎縮させないためです。学生が、失敗を恐れて、魔法を学べなくなっては、本末転倒だから。——つまりあの条文は、最初から、目的を、持っています。文言は、目的に、仕えているのです。逆では、ございません」
「では、本件の目的を、見ましょう。免責が守るのは、挑戦する学生です。——では、影を失った半日、部屋の隅で、震えていた一年生は、誰が、守るのでしょう」
律子は、一度、言葉を、切った。
……影を、失う。
……ええ。
……それが、どういうことか。
……この法廷で、一番よく知っているのは、——多分、私だ。
「ご想像、なさってください。ある朝、床に、自分の影が、ない。灯りの下に、立っても、ない。誰も、痛くはありません。何も、壊れていません。ただ、——世界に、自分が、うっすらとしか、存在しない」
声は、静かなままだった。静かなまま、法廷の温度だけが、下がっていった。
「影は、半日で、戻りました。恐怖は、戻ったのでしょうか。あの一年生は、今も、実習室の、光属性の学生の隣に、座れません。——目に見えないから、損害ではない、と、代理人は、仰る。目に見えないものは、この世で、一番、治りが、悪いのです」
正面で、マルクスが、顔を、上げた。
初めて、正面から、目が、合った。
灰色と、緑の、間の色だった。伏せている時には、分からなかった。論点に、集中した目は、はっきりした、灰緑だった。
……あら。
……そんな綺麗な目を、していらしたの。
「法の予見可能性は、大切です。ですが、代理人。予見可能性とは、強い者が、明日の計算を、立てられることでは、ございません。弱い者が、明日も、守られると、信じられること。——それを、法の安定と、呼ぶのです」
律子は、席に、着いた。




