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第90話 悪役令嬢、余興をする


 実行委員が、気を利かせて、魔法灯を一つ、律子の背後の床に、置いた。正面の白い壁に、律子の影が、大きく、立ち上がった。


 広間が、静まった。よくない静まり方だった。噂の影。人を脅す影。獣を呼ぶ影——


 律子は、扇子を、閉じた。


 ……さ。

 ……お行儀のいいところ、見せてあげて。

 ……遊びの範囲だけよ。いつも通り。


 壁の上で、影が、するり、と、形を、変えた。


 長い耳が、二本、立った。


 影のウサギが、壁の上を、一跳ね、二跳ね。立ち止まって、耳を、ぴこん、と、傾げた。


 広間の、どこかで、誰かが、小さく、息を、漏らした。悲鳴ではなかった。


 ウサギが、跳ねると、影が、ほどけて、鳥の群れになった。壁一面を、羽ばたきが、渡っていく。天井の光の小鳥たちと、一瞬、すれ違った。光と影の群れが、交差した。


「わ……」


 と、声が、上がった。今度は、はっきり、感嘆だった。


 その時、——弦の音が、した。


 ひと擦り。試すような、短い音。


 広間の端で、長身の男子学生が、バイオリンを、構えていた。余興のために持参していたのだろう。背筋の伸びた、軍人のような立ち姿で、楽器を顎に載せ、壁の影の群れを、まっすぐに、見ている。怖がっている目では、なかった。譜面を、読む目だった。


 弓が、動いた。


 旋律が、羽ばたきに、追いついた。


 ……あら。

 ……合わせて、くださるの。

 ……なら、こちらも。


 律子は、影の羽ばたきを、旋律に、合わせた。光と影の鳥の群れが、音楽の中で、大きく、円を描いた。


 鳥の群れが、集まって、束ねられて、——一頭の馬に、なった。


 旋律が、駆け足に、変わった。


 影の馬が、たてがみを揺らして、壁の端から端まで、音楽と、並んで、駆けた。


 広間の隅で、公太子が、身を、乗り出した。


 ……ええ、殿下。

 ……ゼフィロですわ。よく駆けるでしょう。


 馬が、駆け抜けて、影が、律子の足元に、静かに、戻った。


 律子は、締めの礼をしようと、膝を、折りかけた。


 ——その時。


 壁の隅から、ぴょこ、と。


 小さな影が、跳ねた。


 蛙だった。


 影の蛙が、壁の真ん中まで、三跳ねで進み、正面を向いて、——ぺこり、と、お辞儀をした。


 広間が、凍った。


 蛙。よりにもよって、蛙。百匹の蛙の、あの噂の——


 ……ちょっと!?

 ……あなた、演目に、ないでしょう、それ!?


 凍った広間の、隅で。


 バイオリンが、——じゃん、と。


 和音を一つ、蛙のお辞儀の上に、落とした。見事な、終止符だった。


 そして、凍った広間の、真ん中で。


「あはははっ」


 クララが、笑った。


 こらえ損ねた、大きな、明るい笑い声だった。慌てて、口を、両手で、押さえたが、遅かった。笑いは、火花の竜より、よく、燃え移った。一人、二人、——波になった。


 律子は、何食わぬ顔で、膝を折り、完璧な礼をした。最初から、そういう演目でございますが、何か。


 拍手の波が、来た。


 正確な長さの拍手ではなかった。ばらばらで、ためらいがちで、——ところどころ、本物だった。


 広間の隅で、公太子が、誰よりも、手を、叩いていた。


 ◇


 余興が終わると、カリストが、隅の特等席から、解放されて、やってきた。


 近づいてくるにつれ、足元の影が、す、と、静かになった。


 ……はいはい。お休みなさい。


「良かった。——馬が、良かった。あれは、ゼフィロだろう」


「まあ。お分かりになりました?」


「分かる。走り方が、あいつだった」


 目が、生きていた。原稿のない、殿下だった。


「殿下。——あの、バイオリンの方の、お名前を、ご存知ですか」


 律子は、広間の端を、扇子の先で、そっと、示した。青年は、もう楽器を仕舞って、友人らしい輪の中に、戻っていた。輪の中でも、姿勢だけが、一人、軍人だった。


「レオンハルト・フォン・リヒテンフェルス。聖シュタインの、軍家の三男だ。二年生」


 即答した。


「……お詳しいこと」


「言っただろう。名前を覚えて、呼ぶ。——それで、生きてきた」


 ……なるほど。

 ……依頼人の技術、早速、役に立ちましたわ。


 ……それにしても。

 ……軍家の子息が、バイオリン。長身で、姿勢が良くて、度胸があって、機知まである。

 ……絵に描いたような、——攻略対象だわ。軍人系の。

 ……ふふ。いるものねえ、本当に。


 視線の先で、青年が、こちらに気づいた。逃げなかった。弓を持ったままの手で、小さく、剣士の礼のようなものを、して寄越した。


 律子も、扇子で、小さく、応えた。


 律子は、ふと、傍らを見た。クララが、少し離れて、遠慮がちに、立っていた。


 ……あら。

 ……そうだわ。


「殿下。——ご紹介いたします。私のお友達の、クララ・ホフマンさんですわ」


 クララが、目を、まるくした。それから、慌てて、礼をした。令嬢の礼としては、角度も、手の位置も、少しずつ、間違っていた。一生懸命では、あった。


「ク、クララ・ホフマンです。エアルから、参りました」


「カリストだ。——ようこそ、テミス・アルカナ学院へ」


 公式の顔の、綺麗な二言だった。それから、公太子は、彼の技術を、使った。


「クララ・ホフマン。——覚えた」


「え?」


「名前だ。覚えた。私は、覚えた名前は、忘れない」


 クララが、ぱちぱちと、瞬きをして、それから、ぱっと、笑った。


「光栄です、殿下!」


 律子は、扇子の内で、微笑んだ。


 婚約者と、一人目のお友達が、並んで、立っている。


 いい夜だった。


 ◇


 夜、貴賓区画で、律子は、目録を、開いた。


 「受任:評判改善(依頼人:殿下。着手金:なし。成功報酬:未定)」


 「初動:余興(影絵)。手応え:有(体感)。特記:最後の蛙は、演目に、ない」


 ペンが、そこで、少し、止まった。


 ……演目に、ないのよ。

 ……ないのだけど。


 律子は、床の影を、見た。影は、素知らぬ顔で、床に、伸びていた。


「——あなた」


 影の頭からうさぎの耳が、ぴこ、と、突き出た。


「あの蛙、何」


 耳が、ぴこぴこ、と、揺れた。楽しげだった。


「——」


 律子は、羽根ペンの先を、唇に、当てた。


 ……影は、私の心の奥を、一歩早く、映す——サントーニ先生の、講義。

 ……つまり、あれは。

 ……私、心のどこかで、——やりたかったの? あれ。

 ……蛙の噂に、蛙のお辞儀を。

 ……。

 ……不覚だわ。でも、ちょっと、すっきりした。


 目録に、もう二行、書き足した。


 「七不思議:七件、聴取。三(書庫のペンの音)は、実在の音源の可能性。七(百年の署名)は、いずれ、要調査」


 「クララさんは、怖い話が、苦手(重要)」


 「レオンハルト・フォン・リヒテンフェルス様。聖シュタイン軍家の三男、二年生、バイオリン。噂をご存知のはずなのに、弓を、上げた。——お友達候補としては、殿方につき、保留(婚約者持ちの令嬢の交友として、距離の設計が、要る)」


 「同氏、攻略対象と推定(軍人系)。攻略対象は、ヒロインの周りに、集まるもの。——クララさんの周辺、要観察」


 ……ふふ。

 ……悪役令嬢が、配役表を、作っているわ。

 ……いいのよ。敵情視察も、悪役の、お仕事のうち。


 ◇


 翌朝、ジーナが、湯気の立つお茶と一緒に、報告を、持ってきた。


「お嬢様。あの、昨夜の余興の、お噂なんですけど」


「あら、早いのね。どう?」


「その——『セヴェリーニ様が、また影の蛙を、百匹、召喚した』と」


「——」


「百匹だそうです」


「——出したのは、ウサギ一羽と、鳥の群れと、馬と、蛙が一匹よ」


「はい。わたし、見てました。鳥はたくさんいましたが、ウサギと馬と、蛙は一匹です」


「一匹が、百匹」


 律子は、お茶を、一口、飲んだ。


 ……この街の噂は、本当に、百匹が、お好きね。

 ……また、蛙を百匹。

 ……噂には、文法が、あるのよ、きっと。数えられるものは、全部、百匹。


 目録を開いて、一行、追記した。


 「初動の効果:翌朝、蛙百匹に変異。——方針、再検討」


 ……依頼人への、初回のご報告が、思いやられるわ。


 それでも、と、律子は、思った。


 あの夜、広間で上がった笑い声の、いくつかは。ばらばらの拍手の、ところどころは。


 ——本物だった。


 ……悲観は、気分。

 ……楽観は、——意志よ。


 律子は、目録を、閉じた。


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