第89話 悪役令嬢、依頼を受ける
新入生歓迎会は、本館の舞踏室で、開かれた。
高い天井に、魔法の灯りが、幾つも、浮かんでいた。楽の音に合わせて、灯りの色が、金から、薄い紅へ、ゆっくりと、移ろっていく。菓子の卓の氷の器は、給仕の令嬢が指先で撫でるたび、白く、曇り直した。香を運ぶ、細い風が、広間を、巡っていた。
……ふふ。
……魔法学院の、夜会だわ。
律子は、扇子を、開いた。
令嬢の、開演である。
もっとも、律子の半径三歩は、今夜も、綺麗に、空いていた。広間がどれほど混み合っても、この半径だけは、揺るがない。見えない結界のようだった。何の魔法かといえば、『噂』の魔法だ。
「セヴェリーニ様!」
結界を、蜂蜜色の髪が、あっさりと、越えてきた。
「クララさん。ごきげんよう」
「すごいですね、天井! わたし、こんなの、初めて見ました」
「ええ。——綺麗ね」
半径三歩の内側で、二人が、天井を見上げた。周囲のざわめきが、少しだけ、遠くなった。
◇
開会の辞は、公太子だった。
壇上のカリストは、今夜も、完璧だった。格調が高く、綺麗で、どこにも引っかからない、二分間の原稿。
……お上手。
……そして、今夜も、殿下のお言葉では、ないのよね。
辞が終わると、広間の一角に、新入生が、集められた。上級生たちが、待ち構えていた。目が、嬉々として、光っていた。
「さあ、新入生諸君。——テミス・アルカナ学院に入った以上、知っておかねばならないことがある」
世話焼きらしい上級生が、声を、落とした。
「この学院の、七不思議だ」
……!
律子は、扇子で、口元を、隠した。
外面は、涼しく。
「まあ。——興味深い、伝承ですこと」
内心は。
……来たわ。
……七不思議イベント、来たわ————!!
……魔法学院、乙女ゲーム、七不思議。三点、揃った。前世で百五十本、この展開を、待っていたのよ。
「一つ。——精霊の中庭の、大樹」
上級生の声が、芝居がかって、低くなる。
「夜明けに、あの樹の下で、精霊たちが舞う。——見た者は、別の世界へ、呼ばれる」
隣で、クララが、ひっ、と、小さく、息を呑んだ。律子の袖を、ちょっと、掴んだ。
……あら、可愛い。
……怖い話、苦手なのね。目録に、書いておきましょう。
……それにしても、「別の世界へ呼ばれる」。
……ふふ。素敵な怪談だこと。
「二つ。——誰もいないはずの夜の旧礼拝堂から、女の啜り泣きと途切れ途切れの祈りが聞こえる」
「三つ。——真夜中の古文書庫。誰もいない最奥で、女の手が、ペンを走らせる音がする。朝になると、机の上の紙が、微かに、乱れている」
……あら。
……それ、聞いたわ。
……昼間だったけれど。
「四つは——塔の最上階、開かずの扉。無理に開けた者は、発狂するか、失踪する。五つ、奨学生寮の階段。六つ、鳴らないはずの塔の鐘。」
新入生たちが、ざわめいた。クララの手が、袖を掴んだまま、離れなかった。
「そして、七つ目」
上級生は、広間の壁の向こう——大講堂の方角を、指さした。
「大講堂の、記念の石柱。卒業式の署名が、百年分、刻まれている。あの中に——百年間、同じ筆跡の署名がある。決して老けない少年が、百年、卒業式に通い続けているのだ」
……石柱。
……入学式で、見たわ。百年分の、署名。
……同じ筆跡が、百年。
……それが本当なら、怪談ではなくて、——調査対象ね。
「まあ。——面白い、法学的事例ですこと」
律子が、扇子の内から、涼しく言うと、上級生たちが、そっと、一歩、下がった。半径が、三歩に、戻った。
……あら。
……今の、褒めたのだけど。
◇
広間の袖のバルコニーで、律子は、カリストと、二人になった。婚約者同士の歓談は、この夜会で、唯一、誰にも咎められない組み合わせだった。
「楽しんでいるか」
「ええ、殿下。七不思議を、伺いました」
「ああ、あれか。私も一年の時に聞いた。……学生寮の階段は、少し、怖かった」
正直な感想だった。それから、カリストは、少し、言いにくそうに、視線を、夜の中庭へ、逃がした。
「——その。プルデンティア嬢。言いにくいことを、言う」
「はい、殿下」
「あなたの、評判のことだ」
律子の扇子が、一瞬だけ、止まった。
「良くない。——知っているだろう。婚約者としては、その、困るんだ。公家は、評判で、できているような家だ。だから——努力を、してくれないか」
……。
……ええ、殿下。
……努力なら、しているのよ。それはもう、必死に。
……ハンカチを届けて、腰を抜かされる程度には。
言わなかった。公的自己は、今夜も、優秀だった。
「殿下は、どのように、なさってきたのですか」
聞いてみた。カリストは、少し、意外そうな顔をして、それから、真面目に、考えた。
「——笑う。相手の名前を、覚える。覚えた名前を、呼ぶ」
「それだけ、ですか」
「それだけだ。だが、それで、ずいぶん、違う。——私は、その」
彼は、夜の中庭を見たまま、言った。
「成績を、誇れる質では、ないからな。笑って、名前を呼んで、——それで、生きてきた」
……あら。
……殿下。
……それ、ずいぶんと、正直な、履歴書ですわ。
「参考までに、殿下。私、微笑む実験は、済ませております」
「ほう」
「微笑みますと、給仕が、匙を落とします。やめますと、震えが、収まります」
「——そうか」
カリストは、少し、黙った。慰めの言葉を、探して、見つからなかったらしい。正直な人なのだ。
「——それでも、頼む。努力を」
「承りました、殿下」
律子は、扇子を、胸の前で、小さく、閉じて、開いた。
「ご依頼として、お受けいたします。——着手金は、結構ですわ」
「ちゃくしゅきん?」
「こちらの、話でございます」
足元で、影が、行儀よく、静かだった。殿下のお側は、今夜も、よく眠れるらしい。
◇
余興の時間になった。
広間の中央が、空けられ、実行委員の上級生たちが、進行を、始めた。——その前に、一仕事、あった。
「殿下。恐れながら、——例年の、特等席へ」
実行委員長が、丁重の極みのような礼で、広間の隅の椅子を、示した。
「御盾が、演目の魔法に、障りますので」
「ああ。——いつものことだ」
カリストは、慣れた足取りで、広間の隅へ、移動した。公太子が、隅の椅子に、ちんまりと、収まった。護衛が二人、所在なげに、その後ろに立った。
……公家の、盾の魔法。
……「近くは、常に、無効化しています」——と、伺っている通りね。
……うちの影も、お側では、いつも、よく眠るもの。
……それにしても。
……盾のせいで、輪の外に置かれる殿下と、噂のせいで、半径三歩の私。
……私たち、似た者同士の、婚約者だこと。
余興は、華やかだった。
新入生の少年が、水の輪を三つ、宙で、くぐらせ合った。上級生の令嬢が、光の小鳥の群れを、天井の灯りの間に、放った。風属性の学生が、弦のない竪琴を、風だけで、鳴らした。仕上げに、実行委員の花形が、火花の竜を、広間に一周、走らせて、拍手が、沸いた。
……いいわね。
……魔法学院だわ。とても。
「さて——今宵は、新入生の首席の方も、お見えです」
実行委員長の声が、広間に、通った。
「恒例により、ぜひ、一芸を」
広間の視線が、一斉に、律子に、集まった。温度は、いつもの、あれだった。静かで、冷たい。期待というより、身構え。
……お断りしようかしら。
……影を出せば、また、噂が——
……いえ。
……待って。
……ついさっき、受任したばかりでしょう、律子。
……依頼人は、隅の特等席で、こちらを、見ていらっしゃるわ。
……仕方、ないわね。
……早速の、案件だわ。
「——承りました」
律子は、広間の中央に、進み出た。半径三歩が、中央まで、ついてきた。




