第88話 悪役令嬢、古書店を訪ねる
数日後の午後、律子は、古文書庫の扉を、押した。
石造りの離れは、外の春より、二度くらい涼しかった。埃と、古い革と、乾いた紙の匂い。高い窓から、斜めの光が、書架の森に、落ちていた。
帳場の書庫番は、白い眉の、老人だった。律子の顔を見て、眉が、ぴくりとしたが、——逃げなかった。書庫番というのは、本より怖いものを、見たことがないのかもしれない。
「創設期の判例集を、拝見したいのです。契約関係を、系統的に」
「——ほう。系統的に」
老人は、少し、嬉しそうな顔を、した。
「近頃の学生さんは、試験に出る巻しか、お読みにならんでな。——奥の三列目から、五列目。持ち出しは、できませんぞ」
「存じております」
律子は、書架の森に、入った。
前世から続けている、癖がある。新しい分野に入る時は、個々の事件より先に、まず、地図を作る。どんな争いが、どれくらい、どんな終わり方をしているか——判例の、地形図。
置換契約の周辺は、——豊かだった。
効果の不発を争う訴訟。移転された年数の測定を争う訴訟。手数料の訴訟。無資格施術の刑事記録。同意の瑕疵。相続との交錯。錯誤。強迫。書架二列ぶん、みっしりと、百年の紛争が、詰まっていた。
……ある、ある。
……揉め事の種類は、前世と、同じね。人間は、変わらないわ。
律子は、覚えのあるページに、細い挟み紙を、差していった。書庫の本に、付箋は、貼らない。跡が、残るから。——付箋は、自分の本にだけ。
夕方近くまで、本のページをめくり続けて、——ふ、と、手が、止まった。
……あら?
周辺は、豊かなのだ。効果、測定、手数料、同意。判決まで、きちんと、ある。
でも。
……契約そのものの有効性を、正面から争った、大きな事件。
……あるには、あるのに。
……終わり方が、——「和解」。「取下げ」。「仲裁に移行」。
……並んでいる。綺麗に。
……大きな事件ほど、判決の、手前で、消えている。
律子は、頁を、しばらく、見ていた。結論を出すには、標本が、足りない。地図は、まだ、描きかけだ。
……偶然かも、しれない。
……でも、覚えておきましょう。
書庫の奥の方から、規則正しい、ペンの音が、聞こえていた。誰かが、ずっと、書き物をしているらしい。律子は、見に行かなかった。今は、調査で、手一杯だ。
帰り際、帳場で、律子は、老人に、聞いた。
「アリアドネ議長の、法案の草稿は、——こちらに、ありますか」
老人は、白い眉を、少し、上げた。
「——ほう。あれを尋ねる学生さんは、久しぶりじゃ」
「あるのですか」
「ここには、ござらん。議長在任中の文書は、評議会の、文書館での。——閲覧は、許可制。それも、評議会の許可、じゃよ」
……評議会の、許可。
……法典を作らせなかった側の、許可が、要るのね。
……覚えて、おきましょう。
「それと、もう一つ。こちらの資料、写しを、お願いする方法は、ありますか。量が、多いのです」
「ここの写字室は、順番待ちが、半年での。——お急ぎなら、町の古書店が、写本を、承りますよ」
老人は、坂の下を、指さした。
「確かな写本師を、抱えておいでじゃ。——誤りのない写本というのは、良いものですぞ。誤りのない人間より、よほど、珍しい」
◇
古書店は、22番地の坂の途中に、あった。馬車の窓から、一度、見た店だった。
扉を押すと、鈴が、鳴った。本の匂いが、濃かった。狭い通路の両側に、床から天井まで、背表紙が、詰まっている。
奥の帳場に、五十がらみの紳士が、いた。白い手袋で、古い本の頁を、めくっていた。古書を扱う人の、手袋だった。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた、静かな声だった。律子の顔を見ても、——手は、震えなかった。匙も、落ちなかった。
……あら。
……学府の外は、平和だこと。
「写本を、お願いしたいのです。古文書庫の、判例集を。——こちらの一覧を」
律子は、書き付けを、渡した。置換契約関連の判例集、九冊ぶん。
紳士は、一覧に、目を通した。ゆっくりと、丁寧に。それから、顔を上げた。
「写本で、ご用意できます。——誤写は、ございません」
「誤写が、ないと」
「一句もございません」
当然のことを言う、静かな声だった。どこかで聞いた温度だ、と、律子は、思った。
「写本師の方は、お一人で?」
「幾人か、抱えております」
紳士は、一覧を、指の背で、軽く、揃えた。
「ですが、判例集でしたら、適任の者が、一人おります。法律の心得のある職人で。——持ち出しのできない原本も、扱えますので」
「腕は」
「私が、保証いたします。——五年、当店の写本を、任せてまいりました」
名前は、返ってこなかった。職人の名を明かさないのは、この商いの、作法なのだろう。
……五年のお付き合いの、職人さん。
……なら、確かでしょうね。
「九冊ですと、——ひと月ほど、いただきます。仕上がり次第、一冊ずつ、お届けにあがることも」
「では、そのように。宛先は、学府の、貴賓区画へ」
「承りました。——セヴェリーニ様」
……名乗って、いないのだけれど。
……まあ、この街で、私の顔は、有名なのでしょうね。良くも、悪くも。
帰り際、律子は、棚の間で、足を止めた。古い裁定例の小冊子が、一冊、目に入ったのだ。表紙が、手擦れで、柔らかくなっていた。よく、読まれた本だ。
それも、買った。
鈴が、鳴って、扉が、閉まった。
店の奥で、紳士は、注文の一覧を、もう一度、手に取った。
題の並びを、しばらく、見ていた。
それから、丁寧に、畳んで、胸の内ポケットに、しまった。
◇
夜、貴賓区画で、律子は、目録を、開いた。
調査の頁に、書き足していく。
「魔法契約:教会公証×魔法の真正性の二重保証(蜜月期の発明)。置換契約はその末裔」
「アルカーナム:枯渇。奇跡は在庫切れ。→置換契約産業は、その代替市場」
「判例地図:周辺争点は豊富。有効性の正面争点のみ、大型事件が判決前に消える(和解・取下げ・仲裁)。——偶然か、設計か。標本を増やすこと」
「写本九冊:手配済み。古書店(22番地)。納品ひと月」
ペンを置きかけて、——もう一つのページを、開いた。
お友達の項。目標、三人。その下は、まだ、白い。
律子は、少しだけ、ためらった。
……勝手に、書いて、いいものかしら。
……本人の、確認を取るべきか。
「約束ですよ!」
あの声を、思い出した。
律子は、書いた。
「一人目:クララ・ホフマン」
床の影が、頁の上に、伸びて、耳を、ぴんと、立てた。
「ええ。——一人目よ」
耳が、ぴこん、と、揺れた。
蝋燭を消す前に、律子は、窓の外を、見た。丘の下で、街の青白い灯が、瞬いていた。あの坂のどこかで、古書店の灯りも、まだ、点いているのだろうか。
……「魔法は、嘘をつきません。——人は、つきます」。
……ええ、先生。
……だから、この世界にも、——弁護士が、要るんだわ。
律子は、灯りを、消した。
丘の下の坂の途中で、古書店の小さな灯りは、その夜、遅くまで、点いていた。




