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第87話 悪役令嬢、魔法史の授業を受ける


 魔法史の初回講義が、本館二階の、明るい教室で行われていた。


 律子が席に着くと、例によって、周囲の椅子が、静かに、間引かれていった。両隣、空席。前列、前のめり。いつもの、配置——


「セヴェリーニ様! お隣、いいですか」


 蜂蜜色の髪が、ぽん、と、隣に、座った。


 教室が、ざわ、とした。勇者を見る目、というものを、律子は、生まれて初めて見た。視線は全てが、クララに、向けられていた。


「——ええ、もちろん」


「約束、しましたから」


 クララは、にこにこと、手帳と、ペンを、並べた。


 ……ヒロインは、今日も、向こうからフラグを、折りに来てくださるのね。

 ……ありがたいこと。


 鐘が鳴って、紺のローブの女性が、入ってきた。


 ……あら。

 ……魔法登録で、ポンコツっておっしゃったあの先生。

 ……そういえば、入学式の挨拶でも、リーナの逸話のくだりで、微笑んでいらした。


「魔法史を担当します、ルシアと申します」


 先生は、穏やかに、教室を、見渡した。


「魔法史は、年号を覚える学問では、ありません。——約束の歴史です。魔法と、人との。人と、人との。今日は、その一番大きな約束の話から、始めましょう」


 ◇


 講義は、二百年前から、始まった。


「かつて、セルヴィアの教会と、アルカディアの魔法は、相容れないものでした。教会から見れば、魔法は、神の秩序の外にある力。魔法使いは、疑わしい隣人でした」


 黒板に、白墨が、走る。


「転機は、一つの、解釈でした。——魔法は、必ず、等価交換である。対価なしには、何も与えない。偽りの給付が、できない。つまり」


 先生は、振り返った。


「魔法は、嘘を、つきません」


 律子の、ペンが、止まった。


 ……「魔法は、嘘を、つきません」。

 ……サントーニ先生と、同じ言葉。

 ……あれは、先生の口癖では、なくて。

 ……教義、だったのね。


「嘘をつかない力は、神の秩序の、内側にある——教会は、そう解釈を改めました。魔法使いは、神が守護者として選んだ者たちである、と。ここから、教会と魔法の、蜜月の時代が、始まります。本学府の創設期に、セルヴィア様式の礼拝堂が置かれたのも、この時代です。旧礼拝堂として、今も、中庭の外れに、残っていますね」


 ……旧礼拝堂。

 ……後で、見ておきましょう。


「そして、この蜜月が、一つの発明を、生みました。——魔法契約です」


 白墨が、二つの円を描き、重ねた。


「教会の公証の権威と、魔法の、嘘をつけない性質。二つの保証を重ねた契約は、大陸のどんな印章よりも、堅くなりました。魔法使いの立会いの下で結ばれ、魔法を給付の内容とする契約——皆さんの時代の、置換契約に至る系譜の、始まりです」


 律子は、書き取りながら、静かに、鳥肌を、立てていた。


 ……授業が、そのまま、調査の地図だわ。


 隣で、クララも、一生懸命、書き取っていた。「蜜月」の綴りを、二回、書き直していた。


 ◇


「さて。百年前です」


 先生の声が、少しだけ、柔らかくなった。


「染みしか消せない魔法を持った、一人の魔法使いが、大陸中の不正な契約書を、一夜にして、白紙に戻しました。——染み抜き事件。皆さんが教科書で最初に習う、魔法史の頂点です」


 教室の後ろの方で、手が、挙がった。家格の高そうな、令息だった。


「先生。素朴な疑問ですが——そんなに上手くいったのなら、また不正契約が溜まったところで、同じことを、すれば良いのでは? 定期的に」


 教室に、小さな笑いが、起きた。もっともな質問では、あった。


 先生は、笑わなかった。怒りもしなかった。ただ、静かに、問い返した。


「あの夜、彼女の魔法を大陸の隅々まで届かせるために、何が使われたか、ご存知ですか」


「——アルカーナム、と、習いましたが」


「量は?」


 令息が、黙った。


「記録に残る限りでは、——当時の軍人たちが、別の使い道を検討していました。一つの国の首都を灰にできる、と。それだけの量を、一夜の正義のために、燃やしました」


 教室が、静かになった。


「アルカーナムは、等価交換を、超える物質です。魔法の代償を、肩代わりしてくれる、世界の例外。ですが、例外は、掘れば湧くものでは、ありません。カラカスの埋蔵は、この百年で、掘り尽くされました。今日、指先ほどの欠片に、屋敷が一つ、建つ値段が、つきます」


 先生は、令息に、穏やかに、微笑んだ。


「ですから、あなたの案は、正しくて、正しくない。——もう誰にも、買えないのです。あの夜は、二度と、来ません。奇跡は、在庫切れです」


 ……奇跡は、在庫切れ。

 ……モンタナーリ先生の言葉なら、こうなる。

 ……「奇跡は、制度ではない」。


「そして、ここからが、今学期の、本題です」


 白墨が、年表の最後の百年を、囲った。


「等価交換を超える物質が、市場から消えた時代に、人々は、どうしたか。——等価交換の、内側で、融通し合う術を、洗練させました。自分の対価を払えない者が、他人の対価と、取り替える。眼を、声を、力を、——寿命を。それが、皆さんの時代の、置換契約です」


 律子の背筋を、細いものが、走った。


 ……そういうこと。

 ……奇跡の在庫が切れたから、——人の在庫に、手が伸びたのね。


「最後に、一つだけ」


 先生は、白墨を、置いた。


「この教室で、これから百年分の契約の歴史を、学びます。その間、どうか、最初の教義を、忘れないでください。——魔法は、嘘をつきません」


 そこで、間を置いてから言った。


「——人は、つきます」


 先生の目が、ほんの一瞬、律子に、向いた——気がした。


 瞬きの間に、視線は、教室全体に、戻っていた。誰も、気づかなかっただろう。律子だけが、ペンを持つ指に、少しだけ、力を入れた。


「今学期は、その百年を、学びましょう。——本日は、ここまで」


 鐘が、鳴った。


 隣で、クララが、手帳に、書き留めていた。


 「まほうは、うそをつきません。人は、つきます」


 ……あなた、いい子ね。

 ……その一行、私も、いただくわ。


 ◇


 翌日は、契約法実習の、初回だった。


 教壇に、白鬚の老教授が、立っていた。出席も、取らなかった。自己紹介も、なかった。代わりに、抱えてきた分厚い綴りを、教卓に、どさり、と置いた。


 埃が、少し、舞った。


「——契約法は、講義で、学んだろう。ここでは、やらん」


 乾いた声だった。


「ここで、やるのは、法だ。法はな、諸君。教科書の中では、死んでおる。生きているのは、——ここだ」


 節くれだった指が、綴りを、叩いた。


「裁定所の、記録綴りだ。四十年ぶん、読んできた。名前は、塗ってある。中身は、本物だ」


 ……あら。

 ……元裁定官でいらっしゃるのね。

 ……記録で教える先生。——前世でも、この型の先生は、当たりだったのよね。


「グラティアヌスだ。以後、よろしく」


 名乗りは、それだけだった。教授は、綴りを、開いた。


「早速だが、一つ、問う。——自分を、奴隷に売る契約は、有効か」


 教場が、静まった。


 朝の明るい教室に、置くには、重すぎる問いだった。誰も、手を、挙げなかった。


「ふむ。では」


 教授の目が、教場を、ゆっくり、掃いた。掃いて、——律子の上で、止まった。


「——セヴェリーニ嬢。噂の首席どのに、伺おう」


 ざわ、と、空気が、動いた。


 律子は、立った。


「二段に分けて、お答えいたします。第一に、意思の点。契約は、自由な意思を、前提といたします。自分の自由を、丸ごと手放す合意は、その前提を、自分で、壊します。——自由の名で、自由を売ることは、できません」


「ほう。第二は」


「実務の点でございます。仮に、有効といたしますと、以後、その者の『同意』は、すべて主人のものになります。売った日の一度の同意が、生涯の同意を、飲み込むのです。——一度の署名に、それほどの力を、認めるべきでは、ございません」


「……署名の力に、上限を引く、と」


「はい。引かなければ、署名が、人を、食べてしまいますので」


 教場の、どこかで、誰かが、息を、飲んだ。


 教授は、頷きも、しなかった。ただ、髭の奥の目が、値踏みの色に、なった。


「……ふむ。使えるな」


 ……。

 ……「使えるな」。

 ……この方、私を、怖がらないのね。持ち上げも、しない。

 ……素材として、値踏みして、いらっしゃるだけ。

 ……久しぶりだわ、この扱い。——悪くないわね。


「では、反対の論は。——誰か、あるか」


 手は、挙がらなかった。


 少しの間の後、教場の一番奥から、静かな声が、した。


「——一点だけ」


 背の高い、奨学生だった。着席のまま、続けた。


「困窮の底では、身を売る合意が、唯一の、生き延びる手段である場合が、あります。無効と断ずれば、その道も、断たれます。——無効の宣言だけでは、救済に、なりません。禁ずるなら、代わりの道を、法が、用意する必要があります」


 ……。

 ……ノートを取らない方。

 ……仰ることが、——現場の言葉だわ。


「ふむ」


 グラティアヌス教授は、髭を、ひと撫でした。


「無効は、正義の顔をした、見殺しにもなる、と。……ふむ」


 教授の目が、律子と、奥の席とを、一度ずつ、往復した。


「——首席が、二人、おったな。この教場に」


 髭を撫でる手が、もうひと撫で、動いた。何かを、企む手つきだった。


「よろしい。覚えておこう。——さて、次の記録に、移る」


 ……今の、撫で方。

 ……何か、企んでいらっしゃるわね、あの髭。


 実習の残りは、記録綴りの読み込みだった。塗りつぶされた名前の下で、百年ぶんの生きた紛争が、埃の匂いと、一緒に、頁をめくられていった。


 終わり際、教授は、綴りを、閉じて、言った。


「学期の半ばに、実際の案件で、模擬審理を、してもらう。場所は、裁定所を、借りる。判定は、この、わしだ」


 教場が、ざわ、とした。


「せいぜい、恥を、かかんように。——以上」


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