第86話 悪役令嬢、ヒロインと仲良くなる
手続きが終わるのを待つ間、律子は、広間の実演を、眺めていた。実演と書類提出の列は、まだ、長く、続いていた。
「私は忙しいんだ。のんびり生きている君たちと一緒にしてくれるな」
列の中ほどから、苛立たし気な声が響いた。
貴族の令息が、前にいた奨学生の少年に順番を、譲れ、と言っているようだ——
……あら、みっともない。
……新入生代表として一言、言うべきかしら?
……また広間中が凍り付きそうだけど。
律子が踏み出そうとした時、蜂蜜色の髪の少女が、するり、と、間に入った。
「あ、じゃあ、お先に、どうぞ! ——ティモ、ちょうどよかった。わたしの下書き、見てほしいの。この減免申請の綴り、わたし、間違ってるような気がして」
にこにこと、少年の袖を引いて、列の横の、記入台へ。振り上げられた令息の気位は、行き場を失って、所在なく、下ろされた。誰も、恥を、かかなかった。
……あら。さっきのヒロイン。
……お上手ね。
……それに、なるほどね。
……誓紙が消してくれるのは、嘘だけ。
……正直な綴り間違いは、——嘘ではないから、残ってしまう。
……書き損じれば、あの高い紙が、一枚、無駄。
……だから、皆さん、下書きを、お持ちなのね。
記入台の上の魔法灯は、切れかけて、瞬いていた。少女は、下書きを覗き込む少年の手元に、ぽ、と、小さな光を、灯した。手のひらから、蝋燭一本ぶんの、温かい色の光。技、というより、癖のような、自然さだった。
……光属性。
やがて、少女自身の番になって、——窓口が、つっかえた。
「国外ご出身の方は、こちらの様式と、こちらの添付が別で——それから、減免のご申請は、また別の窓口へ」
「え、ええと、様式の、二番と……あれ、さっきの紙は……」
書類が、少女の手の中で、渋滞した。官吏は、もう、次の生徒を、見ていた。
律子は、——気がつくと、歩き出していた。
職業病だった。書式の海で迷子になっている人間を、見捨てたことは、前世では、一度も、ない。
「失礼。——減免のご申請でしたら、先に、様式三号の下段の宣誓欄ですわ。二番の添付は、そちらの写しで、代えられます。施行細則の備考に、ございますの」
広間が、静かになった。
窓口の官吏が、固まった。列の生徒たちの視線が、三歩ぶん、後退した。
少女だけが、ぱっと、顔を上げた。
「ほんとですか! ——あら」
律子の顔を見ると、改めて頭を下げた。
「ありがとうございます! 今日、助けていただくのは二回目ですね。あの、わたし、クララ・ホフマンといいます。エアルから来ました。——あなたは、セヴェリーニ様、ですよね。入学式の、ご挨拶の」
「ええ。プルデンティア・セヴェリーニですわ」
「あのご挨拶、素敵でした。悲観は気分で、楽観は意志、っていうところ——わたし、手帳に、書き留めたんです」
律子は、黙った。
あの挨拶を、褒めたのは、二人目だった。でも、カリスト殿下は内容は分からなかった、という条件付き。
……エアル出身。
……平民の、奨学生。
……光属性。
……優しくて、可愛い。
……間違いない。
……ヒロインだわ。本物の。
律子は、扇子の内側で、深呼吸を、一つした。
……落ち着きなさい、律子。前世で、乙女ゲームを、百五十本、やったでしょう。
……悪役令嬢の破滅は、どこから来る? ——ヒロインへの、敵対からよ。
……逆に、言えば。
……仲良くすれば、フラグは、折れる。
……方針、決定。ヒロインとは、全力で、仲良くなる。
それはそれとして、弁護士の信条も、静かに、脇に、置かれた。
……それに、思い込みで、人を見ないこと。ゲームの配役で、生きた人間を、決めつけないこと。
警戒の鍵が、二重に、外れた。——しかし、そのことに、律子自身は、気づいていなかった。
クララは、よく、しゃべった。誓紙が、思ったより厚くて、清書の前に、下書きを三回、読み直したこと。監察棟の階段を、うっかり、数えてしまったこと(八十六段だそうだ)。エアルの、故郷の丘のこと。
身分の距離を、上手に測って、それでいて、怖がらない。まっすぐに、目を見て、笑う。
……キアラに、少し、似ているのよね。感じが。
「ご家族も、エアルに?」
と、律子は、世間話の続きで、聞いた。
「はい。両親が。……ふたりとも、少し、体が弱くて。だから、わたし、頑張って、仕送りが、できるように——」
笑顔の、素敵な目の奥の方だけが、一瞬、暗くなった。
律子の中で、何かが、ことり、と、鳴った。前世の、職業の癖だった。「大丈夫です」と言う依頼者は、本当は大丈夫ではない。この目の奥の闇を、十五年、見てきた——
……詮索は、しないの。初対面よ。
律子は、その観察を、胸の引き出しに、しまった。鍵まで、かけた。
自分の観察に、自分で鍵をかけたのは、——前世を含めて、ほとんど、初めてのことだった。そのことにも、律子は、気づかなかった。
「あの、セヴェリーニ様。……また、お話し、してくださいますか」
「ええ、もちろん」
即答だった。我ながら、少し、食い気味の返事だった。
「約束ですよ!」
クララは、ぱっと笑って、書類を抱えて、窓口へ駆けて行った。途中で一度、振り向いて、手を振った。
律子も、つい、小さく、振り返した。
広間中が、その二人をじっと見ていたことに、気づいたのは、しばらく、後だった。
◇
登録棟を出ると、春の風が、廊下を、抜けていた。
その廊下の先に、紺のローブが、立っていた。律子は、彼女を、新入生挨拶の時に、教員席で見たのを覚えていた。その教師は、書物を二冊、抱えて、窓の外を、見ている。律子を待っていた、ふうでもない。でも、通りかかった、ふうでもない。
「登録——いかがでした」
「分類保留、継続観察、だ、そうです」
「あら」
先生は、律子の顔を、見て、それから、廊下の前後を、ちらりと、見た。
誰も、いない。
「……判定、保留」
先生は、その四文字を、飴玉のように、口の中で、転がした。それから、あの穏やかな顔のままで、声だけ、すとんと、砕けた。
「あの人たち、やっぱり、ポンコツね」
「…………は?」
「良い判定ですよ。分からないものを、分からない、と書ける紙は、正直です。——人の方は、そうでも、ありませんけれど」
先生は、もう、歩き出していた。すれ違いざま、一言だけ。
「保留の子は、伸びます。ご心配なく」
……。
……いまの、なに。
……確か魔法史の、先生よね? ポンコツ、って、仰った?
……そして——なぜ、あの方が、ご心配なく、なの。
……分からないものは、分からないまま。……あの先生の欄も、保留、と。
◇
帰りの坂道は、もう、午後の光だった。
「いい子だったでしょう、クララさん。ね、ジーナ」
「はい! わたし、あの方の笑った顔、好きです」
ジーナが、鞄を抱えたまま、うんうんと、頷いた。
少し後ろを歩いていたアウレリオが、——前を向いたまま、ぽつりと、言った。
「——笑顔の、配り方が、均等すぎます」
「あら」
律子は、振り返って、笑った。
「皆さんにお優しいのは、良いことでしょう」
「——はい」
アウレリオは、それきり、何も、言わなかった。警備の人間というのは、時々、職業的に、疑り深すぎるのだ。
律子は、その言葉を、目録には、書かなかった。
◇
夜、貴賓区画の居間で、ジーナが、お茶を置きながら、言った。
「お嬢様、今日は、ご機嫌ですね」
「あら。分かる?」
「分かります。お顔が、春です」
律子は、まず、文机に、向かった。
出すべき手紙が、一通、あった。——宿題の、答え合わせ。
「サントーニ先生。ご報告申し上げます。本日、監察棟にて、登録を済ませて参りました。
評議会の分類は、『分類保留、継続観察』で、ございました。
鑑定は、誓紙で、ございました。嘘を書くと、字が染みになって消える、魔法の掛かった宣誓の紙でございます。私の申告は、一字も、消えませんでした。
分類の欄は、鑑定官の方が、お書きになりました。『闇』の字は、みるみる、染みになって、消えました。『光』の字は、——少しだけ、粘ってから、消えました。残りましたのは、『分類保留』の四文字だけで、ございます。判は、逆さまで、ございました。
つきましては、先生の誤診は、当面、一つのままで、ございます。二つ目になるかどうか、——評議会の紙は、闇も、光も、お断りになりました。診断そのものを、なさらなかったのは、紙ではなく、人の方でございます。
光の亜種のお説の答え合わせは、もうしばらく、お預けのようです。ただ、『光』の字の方が、長く、粘っておりましたことは、ご報告に、値するかと存じます。ちなみに、影は、鑑定室で、ウサギになりました。若い官吏の方に、大変、好評でした」
……こんなところ、かしら。
最後に、魔法鑑定の広間で、様々な魔法の実演を見たことを、添えて、封をした。
それから、目録を、開いた。
まず、監察棟の頁。
「特殊例外台帳:年代不揃い、綴じ紐に緩み、閲覧簿に署名欠落三件。管理は、杜撰。持ち出しは、事実上、可能と推定。——要、継続観察」
その下に、一行、加えた。
「誓紙:嘘は、書けない。——書かないことは、出来る。置換契約と、同じ穴と推定。要、記憶」
それから、新しい頁。
「新規:ヒロイン(本物)。クララ・ホフマン。エアル出身、奨学生、光属性。方針:友好(破滅フラグ回避のため)。所感:」
ペンが、止まった。
……所感。所感、ね。観察者としての、客観的な——
「可愛い」
と、書いた。
……まあ、事実だもの。
床の上で、影が、耳を、立てた。こちらを、見ている気配が、した。
「なあに」
影の耳が、少しだけ、傾いだ。何か、言いたげにも、見えた。
「……クララさんのこと? 今日、会ったのよ。とても、いい子」
耳は、しばらく、傾いだままで、——やがて、すん、と、戻った。
……あなたが何か言う時は、ちゃんと聞くわ。約束ですもの。
……でも、今日のは、多分、ヤキモチね。
律子は、笑って、蝋燭を、消した。




