第85話 悪役令嬢、魔法を登録する
律子の番になると、窓口の官吏が、名簿と、律子の顔を、二度、見比べて、——ペンを、落とした。
「セ、セヴェリーニ様。ええと、特殊例外の、既存登録の、照合を——だ、台帳を——」
官吏は、奥の棚へ、走った。戻ってこなかった。別の官吏が、走った。
「申し訳ございません。台帳が、その、——綴じ間違いで、隣国の棚に、入っておりまして」
「まあ。それは、大変」
待つ間、律子は、待合の椅子から、部屋の奥を、眺めていた。始めて来た場所を眺めるのは、癖だった。
……台帳の、年代が、揃っていない。
……綴じ紐が、緩んでいる。あれでは、ページの抜き差しが、後から、できてしまう。
……手前の閲覧簿。署名の欄が、——三行、空いたまま。
……特殊例外の台帳と、いえば、魔法の国の急所でしょうに。
……この管理では。
……書類を抜き取ろうと思えば、——取れるわね。誰でも。
……覚えて、おきましょう。
ようやく戻った官吏が、書式を三枚、並べた。仮登録の継続。分類保留の更新。
「それでは、その、——鑑定を、行いますので。……特殊例外の方は、奥の、個室で」
案内された廊下の途中で、隣の広間が、見えた。
新入生の、属性鑑定の広間だった。鑑定官の前で、一人ずつ、属性を、小さく、実演していく。水の輪が、宙で、くるりと回る。指先に、火花が、ぱちりと咲く。小石が、ふわりと浮いて、そっと、降りる。小さな旋風が、机の書類を——慌てて、押さえられる。広間は、縁日のように、賑やかだった。
……いいわね。
……魔法学院だわ、とても。
……で、私はといえば、個室。
……特殊例外は、こちら。はいはい。
……半径三歩の、制度版ね。
個室の手前で、扉が開いて、——マルクスが、出てきた。
目が合って、互いに、会釈をした。
……あちらも、個室組。
……特殊例外が、一学年に、二人。珍しい年なのじゃないかしら、私たち。
鑑定室は、廊下の突き当たりの、小さな部屋だった。中央に、傾いた書見台が一つ。周りに、用途の分からない真鍮の器具が、三つ。うち一つには、埃が、積もっていた。
書見台の上に、紙が、一枚、載っていた。
灰色のローブの鑑定官が、抑揚のない声で、言った。
「特殊例外の、更新の誓紙です。——ご本人が、この場で、ご記入を。代筆は、紙が、受け付けませんので」
律子は、書見台の前に、立った。ペンを取る前に、——紙に、指を、置いた。
指が、止まった。
……漉き目が細かい。上等の紙だ。
……そして、気配を感じる。
……しっかりと、魔法がしみ込んでいる。
足元で、影が、紙に向かって、ほんの少し、身じろいだ。
……あなたも、気づいた?
……これが、殿下の仰った、誓紙。
……嘘を書くと、染みになって、消える紙。
……本物だわ。
ペンを、取った。指先が、少しだけ、冷たかった。
書式の欄は、古かった。属性の時代の様式の、ままらしい。
「発現の別(常時・随意)」——常時、と、書いた。
インクは、乾いて、残った。
「制御の可否」——可能、と、書いた。
残った。
「作用の概要」
ペンが、一度、止まった。
……さて。
……分離。写し。
……正直に全部並べる欄には、見えないけれど。
……そもそも、書く欄が、ないのよね。分離の。
……属性時代の古い様式は、こういう時、便利だわ。
「影に、働きかける魔法」——と、書いた。
……形も変わる。写しも取れる。離れも、する。
……全部、「働きかける」の内側。
……嘘は、一文字も、ない。
インクは、静かに、乾いて、——残った。
「副作用の有無・概要」
ペンが、また、止まった。
……あるわよ、そりゃあ。等価交換の世界ですもの。
律子は、書いた。
「影の濃度の低下(用いた量に、応ず)。休めば、回復」
インクは、——少し、ゆっくり、乾いた。
……あら。
……「回復」のところ、いま、粘らなかった?
……気のせいね。毎朝、戻っているもの。私の、信じている通りよ。
続けて、書いた。
「その他、観察の途中」
……知っているのは、濃くなったり、薄くなったり、するところまで。
……その先は、知らない。知らないことは、書けない。
……そして、この紙は、——書かなくて、いいと、言ってくれる紙なのよね。
インクは、乾いて、残った。
「本人以外への、危害の事例」
ペン先が、紙の上で、半秒、迷った。
……晩餐会。
……刺客は、影が、押さえただけ。怪我人は、出ていない。
……嘘では、ないわ。
「なし」——と、書いた。
インクが、乾くまでの、一呼吸が、長かった。
——残った。
律子は、息を、細く、吐いた。
最後の行に、定型の文言が、刷られていた。
「以上、知り、かつ信じるところに、相違ありません」
……この一文が、全部の仕事をしているのよね。
……知らないことは、書けない。信じた通りなら、誤りでも、嘘ではない。
……起草なさった方、——分かっていらっしゃるわ。
署名した。
インクは、残った。
鑑定官が、書見台の誓紙を、手元に、引き取った。目を通して、判を、一つ、押した。
「では、——何か、動かして、いただけますか。分類の欄は、当方で、記入しますので。——実物との、照合になります」
部屋の空気が、少しだけ、張った。窓口から付いてきた、若い女性の官吏が、扉の側で、半歩、下がった。
……ええ、ええ。噂の影よ。
……でも、お見せするのは、お遊びの範囲だけ。
……分離は、しない。写しも、しない。
……お行儀のいいところを、見せてあげて。
律子は、足元の影に、頼んだ。
……ウサギ。
影が、するり、と、形を、変えた。長い耳が、二本、立った。影のウサギは、床の上を、一跳ね、二跳ねして、——書見台の脚の陰から、耳だけを、ぴこん、と、傾けた。
「…………」
「…………」
鑑定官の、ペンが、止まっていた。
扉の側で、若い女性の官吏が、小さく、呟いた。
「————かわいい」
鑑定官が、咳払いをした。女性官吏が、姿勢を、正した。
鑑定官は、誓紙の、分類の欄に、ペンを、下ろした。
「闇」——と、書いた。
インクが、——にじんだ。
字が、ゆっくり、黒い染みに、崩れて、——紙に、吸われるように、消えた。
鑑定官の、眉が、動いた。彼は、床のウサギと、誓紙を、二度、見比べた。ウサギは、耳を、傾けたままだった。
鑑定官は、ペンを、握り直した。
「光」——と、書いた。
こちらは、少し、粘った。字の形が、しばらく、紙の上に、留まって、——それから、灰色に、沈んで、消えた。
……あら。
……「光」は、少し、粘ったわね。
鑑定官は、ペンを、置いた。それから、また、取った。
「分類保留、継続観察」——と、書いた。
インクは、——残った。
紙が、受け入れた、唯一の分類だった。
押された印は、上下が、逆さだった。
……先生。
……紙も、迷っておりましたわ。
鑑定官は、誓紙を、綴りに、挟みながら、抑揚のないまま、言った。
「継続観察の分類は、半期に一度、ご本人の、確認出頭が、要ります。追って、呼び出しの書面が、参りますので」
「承りました」
……半期に一度の、様子見、と。
……仮免許の、更新みたいなものね。分かりやすいこと。
「それと、その、特殊例外の方は、誓紙が、特別性になりまして。——手数料が、千リルに、なります」
……特注用紙ね。
……真実しか残らない紙。前世の法廷に、一束、欲しかったわ。
……でも、この値段では、依頼者には、勧められないけれど。
手数料は、リル建てだった。評議会には、五カ国から、人が来る。
控えていたジーナが、財布を、差し出した。律子は、千リル札を、一枚、抜いた。
札の中央で、男が、悪戯っぽい目で、笑っていた。肖像の周りに、小さく、三つの肩書——ウィスキーの父。製紙の父。近代金融の父。
……エアルの、偉人ね。教科書で、見たわ。
律子は、少しだけ、眉を、寄せた。
……この目が、なんとなく、気に入らないのよね。
……理由は、ないのだけれど。
……何もかも、見透かして、——こちらを、馬鹿にしているような、目。
札を、窓口に、置いた。官吏が、恭しく、受け取った。




