第84話 悪役令嬢、ヒロインに出会う
約束の午後、公太子は、時間ぴったりに、貴族寮の門の前に、立っていた。
護衛は、遠くに二人だけ。取り巻きの姿は、なかった。
「殿下。本日は、お招きいただきまして」
「いや。——式では、ゆっくり、話せなかったから」
カリストは、少しだけ、目を伏せた。
「その。——挨拶、良かった。難しいところは、正直、分からなかったが、——声が、良かった」
「恐れ入ります」
……正直な、ご感想だこと。
……でも、あの挨拶に感想をくださったのは、殿下が、お一人目。
学府の案内は、回廊から、始まった。
「この回廊は、創設期のものだと、聞いている。詳しくは、——学監に、聞いてくれ」
「まあ。正直な、ご案内ですこと」
「知ったかぶりは、するなと、教わった。——数少ない、身についた教えだ」
律子は、少し、笑った。公太子も、少し、笑った。
歩きながら、律子は、試しに、聞いてみた。
「監察棟の、魔法の登録の制度について、少し、伺っても、よろしいですか。特殊例外の分類は、どのような——」
「ああ、登録か」
意外にも、視線は、泳がなかった。
「あれは、昔は、儀式だったんだ。新しい魔法使いが来ると、議長が、一人一人の魔法を、聞いて、——言祝いをする。魔法は、贈り物だから、と」
「まあ」
「今は、書類だ。判を、押すだけの。ただの事務作業に成り下がった、と、父上は、仰る」
カリストは、少しだけ、つまらなそうな顔を、した。それから、思い出したように、付け加えた。
「ああ、——使う紙だけは、昔のままだ」
「紙、と、おっしゃいますと」
「誓紙。魔法の掛かった、宣誓の紙だ。嘘を書くと、——字が、染みになって、消える」
「まあ」
「契約の紙と、同じ仕掛けだと、聞いている。昔は、誓紙に残った言葉を、議長が、読み上げて、言祝いをしたそうだ。今は、綴じて、棚に仕舞うだけだが」
……嘘を書くと、消える紙。
……ふうん。
……面白い仕組みだこと。
「だから、心配は、要らない。あなたの影が、何であれ、——判は、押される」
「分類の、実務は、どなたのご権限で——」
「官吏が書いて、正しければ紙に残る」
……全部、魔法任せなのね。
……魔法は嘘をつかない、か。
「それより、南の庭を、見せよう。今の季節が、一番、いい」
……殿下は、魔法のことは、よどみなく、お話しになる。
……儀式のお話をなさる時、少し、悔しそうでいらしたわね。
南の庭は、確かに、見事だった。公太子は、花の名前を、よどみなく、挙げていった。こちらは、用意された原稿ではなかった。
◇
厩舎に近づくと、公太子の歩き方が、変わった。
背筋の角度は、そのままで、——歩幅だけが、少年のものに、なった。
「やあ、ベッポ。ゼフィロの機嫌は、どうだ」
「上々でございますよ、殿下。朝から、そわそわしておいでで」
「私が来る日が、分かるんだ」
年かさの馬丁が、笑って、厩の戸を開けた。飼い葉と、日向の匂いがした。
美しい芦毛だった。公太子が近づくと、長い首を、伸ばしてきた。
「ゼフィロ。——ご挨拶だ。私の、婚約者だよ」
律子は、令嬢の礼を、——馬に向かって、した。ゼフィロは、鼻を、鳴らした。
「首の、ここを。——そう。もっと、強めで、いい。こいつは、遠慮されるのが、嫌いだ」
言われた通りに、撫でると、大きな目が、うっとりするように細くなった。温かかった。
それから、公太子は、よく、話した。蹄の手入れのこと。飼い葉の配合のこと。北の丘までの、遠乗りの道のこと。どの言葉も、生きていた。
……ああ。
……殿下は、ここでは、ご自分の言葉で、お話しになるのね。
「いつか、遠乗りに、行こう。ゼフィロの弟が、ちょうど、あなたに、合うと思う」
「ええ、殿下。ぜひ」
社交辞令では、なかった。本当に、少しだけ、楽しみだった。
帰りの回廊で、すれ違う生徒たちが、足を止めて、礼をした。
背中の向こうで、囁きが、す、と、交わされた。
「……ご婚約者様の……」「……首席で、いらして……」
……ええ、ええ。怖がらなくて、いいのよ。
囁きには、もう半分が添えられていた。律子は、その半分を、聞き取らなかった。耳に入ったとしても、頭には入って来なかった。
寮の前で、別れる時、足元に、目を、落とした。
影は、行儀よく、静かだった。
……今日も、あなた、よく寝てたわね。
……殿下のお側は、そんなに、居心地がいいの。
◇
翌日は、新入生の魔法登録の、指定日だった。
場所は、評議会の塔の足元の棟——監察棟。書類と、財布を持っての、外出である。ジーナが鞄を提げ、アウレリオが、少し離れて、付いてきた。
監察棟の前は、ちょっとした広場になっていた。石段の下まで、新入生の列が、伸びている。貴族の制服と、奨学生の黒い制服が、混ざって、並んでいた。学府に来て、初めて見る、身分の混ざった列だった。
春の風の、強い日だった。
列の中ほどで、小さな悲鳴が、上がった。
「あーっ!」
紙の束が、風に、攫われたのだ。申請書やら、添付やら、誓紙の下書きやらが、白い鳥の群れのように、広場に、散った。
蜂蜜色の髪の少女が、慌てて、追いかける。周りの生徒たちは、——避けた。舞ってくる紙を、上品に、避けた。他人の書類のために屈むことは、貴族の教育には、含まれていないらしい。
律子は、反射的に、動いていた。
二枚を、手で押さえ、三枚目は、——ヒールの先で、そっと、踏んだ。令嬢の所作では、なかった。風の強い日に、裁判所前に立った、弁護士の所作だった。
最後の一枚が、ひときわ高く、舞った。
それを、長身の学生が、跳びもせずに、長い腕を、すっと伸ばして、取った。
……あら。
……カンディドゥス様。
マルクスだった。彼も、登録に来たらしい。取った一枚を、駆け寄ってきた少女に、無言で、差し出す。
「ありがとうございます!」
少女が、ぱっと、頭を下げた。マルクスは、礼を言われ慣れていない顔で、一瞬だけ、止まってから、小さく会釈をして、——列の方へ、戻っていった。
少女は、それから、律子の方へ、駆けてきた。
「あの、ありがとうございました! 助かりました……えっと、その、お靴まで」
「いいえ。——飛んでいく書類を見ると、体が、勝手に、動きますの」
少女は、律子の顔を、まっすぐに見て、目を、ぱちぱちさせて、それから、にこっと笑った。
彼女の姿は、まるで柔らかな春の陽だまりを人の形に編み上げたかのようだった。髪は、絞りたての蜂蜜のように豊かで艶やかな黄金色。その瞳は、春の芽吹きをそのまま閉じ込めたような、澄み切ったエメラルドグリーンだった。見る者の心の奥底まで真っ直ぐに届くような無垢な透明感を湛えている。そこに恐れの色は、何もなかった。
律子はその姿に釘付けになった。
……出た、ヒロインだ。
……私の配役は悪役令嬢で決定。
……ゲームでは、悪役令嬢はヒロインをいじめて断罪される。
……でも、私がこの娘をいじめる?
……それはないわね。
拾い集めた紙を胸に抱えて、列へ、戻っていく彼女を見つめながら、律子は心の中で考え続けていた。




