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第83話 侯爵令嬢、悪役令嬢になる

 

 学院生活が、始まった。


 律子は、張り切っていた。目録の頁は、もう、決めてある。——お友達を、作る。目標、三人。


 初日の階段教室、契約法総論。律子は、早めに席に着いて、隣に誰かが座るのを、待った。


 誰も、座らなかった。


 両隣どころか、前の列まで、綺麗に、空いていた。教室の後ろ半分だけが、妙に、混んでいる。


 ……あら。

 ……皆さん、後ろの席がお好きなのね。前世の大学の、大教室と、同じだわ。


 二日目、廊下で、同学年の令嬢たちに、挨拶をしてみた。


「ごきげんよう」


「——ご、ごきげんよう、セヴェリーニ様」


 三人の令嬢は、完璧な礼をした。完璧な礼のまま、三歩、後退した。優雅だが、素早い後退だった。


 ……アルカディアの社交儀礼は、距離の取り方が、独特ね。


 三日目、前を歩いていた令嬢が、ハンカチを、落とした。


 刺繍入りの、上等な絹。律子は、拾い上げて、小走りに、追いついた。


「お待ちになって。——ハンカチを、お落としですわ」


 令嬢が、振り返った。


 律子を、見た。律子の手の中の、ハンカチを、見た。


 それから、——腰を、抜かした。


 すとん、と、その場に、座り込んだのだった。お付きの令嬢が二人、駆け寄って、両側から抱え上げ、引きずるようにして、連れて行った。三人とも、一度も、振り返らなかった。


 律子は、廊下の真ん中に、絹のハンカチと共に、残された。


 ……。

 ……遺失物の係に、お届けましょう。


 四日目、中庭の渡り廊下で、小柄な学生が、本の塔を抱えて、よろけていた。一番上の一冊が、滑り落ちた。


 律子は、反射で、受け止めた。弁護士というのは、落ちてくる書類に、敏感なのだ。


「あの、お持ちいたしましょうか。図書館まで——」


 小柄な学生は、律子の顔を見上げて、短い悲鳴を上げ、本の塔ごと、へたり込んだ。本が、石畳に、雪崩れた。学生は、本を置いたまま、四つん這いから跳ね起きて、逃げた。文字通り、逃げ惑った。まっすぐ逃げればいいものを、二度も、角を曲がった。


 律子と、後から来たジーナは、二人で、十一冊の本を、図書館へ、運んだ。


「……お嬢様、これ、わたしたちが盗んだみたいに、見えませんか」


「見えるわね。——お顔を、お上げなさい。堂々と、返しに行くのよ」


 五日目、律子は、方針を、変えた。


 ……招待が来ないなら、こちらから、開けばいいのよ。

 ……お茶会。主催、私。


 招待状を、五通、書いた。同学年の、家格の釣り合う令嬢たちに。文面は、柔らかく。お菓子の予定は、多めに。


 返事は、翌日までに、五通、揃った。全員、丁重な、欠席だった。


 うち三通が、——一句一字、同じ文面だった。


 ……あら。

 ……お断りの文例集でも、回覧なさっているのかしら。


 学食堂の、貴族用の広間では、律子が入っていくと、さざめきが、一瞬、途切れた。給仕は、丁寧だった。丁寧だが、手が、少し震えていた。


 試しに、給仕に、にっこりと、微笑んでみた。


 銀の匙が、盆から、落ちた。


 微笑むのを、やめた。


 震えが、少し、収まった。


 ……あら?


 警備の報告に来たアウレリオが、ぽつりと、言った。


「——警備は、楽です」


「あら、何よりだわ」


「誰も、近づいて、来ませんので」


「……ええ。そうよね」


 目録の、お友達の頁には、まだ、何も、書き足せていなかった。


 ◇


 その夕方、貴賓区画の居間で、ジーナが、憤慨していた。


 従者たちの食堂は、学府中の噂の集積所らしい。この数日の、お嬢様の親切の空振りの数々も、とうに、噂になっているらしかった。ジーナは、湯気の立つお茶を、律子の前に、少し乱暴に置いて、指を折り始めた。


「言いますよ、お嬢様。わたし、聞いてきたのを、全部、言いますからね」


「ええ、どうぞ」


「まず——六歳のとき、お隣のご令息の誕生会に、百匹の蛙を、贈り物にした」


「……あら、懐かしい」


「懐かしくありません! それから、十歳で、お家を乗っ取るための論文を、書いた」


「乗っ取る」


「あと、社交界デビューの晩餐会で、影の魔法で、広間中を、脅した。それから、人の同意を、無効にする研究をしている。それから、人を殺めてよい条件を、研究している。それから——」


 ジーナは、そこで、一度、言葉を切った。


「——それから?」


「——お父君の、恋人を、脅して、追い出すことを、繰り返している。——ごく最近の方は、脅されたあげく、記憶の、病に——」


 ジーナの手が、エプロンの端を、握った。


「お嬢様。わたし、本当のことを、知ってるのに。あの時、本物のクレメンティア様が、どんなだったか、知ってるのに。——言えないのが、悔しいです」


「言っては、駄目よ」


 律子は、静かに、言った。


「本当のことは、あなたと、この家の中の、数人しか知らない。あなたが訂正すれば、出所は、一つしかないの。——あなたが、危なくなるわ」


「——はい」


「悔しがってくれて、ありがとう。それで、十分よ」


「——はい」


 ジーナは、頷いて、それから、盆を、取り上げかけた。


「——ときに、ジーナ」


「はい?」


「その集積所は、私の噂、専門なの?」


「え? いえ、なんでも、扱ってます。それはもう、王国中の——あ」


 ジーナが、指を、止めた。


「どなたか、お調べに、なりたい方が?」


「調べるだなんて、人聞きの悪い。——同点首席の方の噂は、あって?」


「ああ、あの、奨学生の」


 ジーナは、あっさりと、頷いた。


「ありますよ。ええと——魔法で、何でも、覚えられる方、なんですって。一度、読んだ本は、忘れないって。それで、その」


 ジーナは、少し、言いにくそうに、続けた。


「それって、ズルじゃないかって。——あ、従者の皆さんじゃなくてですね、生徒の皆さんが、そう仰ってるって話です。平民が首席なのは、魔法のおかげだって。魔法を取り上げたら、何も残らないだろうって」


「あら。——その魔法のこと、皆さん、どうして、ご存知なの?」


「え? ええと——ご本人が、仰ったから、だそうです。試験の時に、申告なさったって。それで、代表が、お嬢様に、なったとかで」


「そう。ご本人が」


 ……つまり、噂の出所は、あの方の、正直。

 ……隠していれば、誰も、知らなかった。噂も、立たなかった。あの方が新入生代表だったかもしれない。


「奨学生の方々は、従者を、お連れじゃないので。ああいう噂は、その、——言われっぱなしに、なります」


 ……言われっぱなし。

 ……私には、悔しがってくれる人が、一人、いるけれど。

 ……あの方の分を悔しがる人は、あの食堂には、いないのね。


「ジーナは、どう思う?」


「え?」


「ズルだと、思う?」


 ジーナは、エプロンの端を持ったまま、真剣に、考えた。この子は、聞かれたことを、真剣に考える。


「——わたし、レシピを、覚えるのは、得意です。一度作ったお料理は、忘れません。それは、ズルじゃ、ないです。でも、それで、料理勝負に勝ったら——うーん」


 うーん、のまま、止まった。


「では、聞くけれど。あなた、その勝負の前に、『わたしは一度作った料理を忘れません』と、申告してから、出る?」


「します!」


 即答だった。


「自慢ですもん、それ」


「あなたなら、そうでしょうね」


 律子は、少し、笑った。それから、笑いを、畳んだ。


「あの方も、そうなさったの。——いい、ジーナ。ズルというのはね、隠して、使うことよ。黙って魔法を使って、点を、取る。それは、ズル。誰が査定しても、そう」


「はい」


「でも、あの方は、隠さなかった。試験の時に、ご自分で、申告なさった。申告したから、細則に触れて、——代表は、私に、まわって来たの。入学式の、私の挨拶は、あの方の正直の、結果よ。正直の代金を、先に、お支払いになっている」


「……」


「その上で、皆さんは、仰るわけ。実力じゃない、と」


 ジーナの眉が、寄っていった。


「——えっと。じゃあ——隠したら、ズルで」


「ええ」


「申告したら、実力じゃない」


「ええ」


「……どうすれば、よかったんですか、あの方」


「どうも、しなくて、いいのよ」


 律子は、少し、間を、置いた。


「あの方は、どこも、間違えていない。——間違えているのは、査定の方」


 ジーナは、しばらく、眉を寄せたままだった。それから、憤慨の顔に、戻った。今日二度目の、憤慨だった。


「なんだか、それ、ひどくないですか」


「ひどいわよ」


「わたしの料理で言ったら、正直に言って出た勝負で勝ったのに、あんたの勝ちは誰かのレシピのおかげだって、言われてるってことですよね」


「そういうことね。——レシピの記憶も込みで、あなたの料理でしょうに」


 ……あら。

 ……今、私、いいことを、言ったわね。

 ……目録に、書いておきましょう。


「まあ、——うらやましくは、あるのよ。私は、レシピを、書かないと、覚えられない口だから」


「お嬢様のは、レシピじゃなくて、判例です」


「同じことよ」


 ジーナが、笑って、盆を、取り上げた。


 ジーナが、下がってから、律子は、お茶を、一口、飲んだ。


 ……さて。

 ……整理しましょう。

 ……蛙は、本当。論文は、三本とも、本当。影の暴走も、本当。ヴィオラ様をお引き取りいただいたのも、本当。クレメンティア様が、記憶の病で、療養所にお帰りになったのも、——外から見れば、本当。

 ……全部、本当のことでできていて、悪意で、束ねてある。

 ……反証する場所が、どこにもない。

 ……見事な、束ね方。あの方の手口と、同じ癖。

 ……噂は、育て親を、必要としなくなって——海まで、渡ったのね。私より先に、船に乗って。


 ……ときに、あの方の噂も、同じ型だったわね。魔法で覚えられるのは、本当。ご自分で申告なさったのも、本当。

 ……本当の上に、「ズル」の紐が、掛けてある。——正直まで、束の中に、入れて。

 ……「別のことを」。——なるほど、これのことだったのね。


 律子は、指を、三本、折った。


 ……実害の査定。


 ……一つ。評判。傷ついているのは、私の評判だけ。お父さまでも、お家でもない。

 ……二つ。社交の耳。お茶会の招待が来ないのは、正直、少し、困る。社交界は、耳だもの。

 ……三つ。——


 三つ目が、出てこなかった。


 両隣の空いた席。三歩、後退する優雅な礼。震える給仕の手。


 ……三つ目は、ないわ。

 ……一人は、慣れているし、調べものには、むしろ、好都合よ。


 胸のどこかが、小さく、軋んだけれど、律子は、それには、気づかない振りをした。


 ◇


 夜、律子は、お父さまへの手紙を、書いた。


 学府の門の古さのこと。中庭の大樹と、アリアドネ議長の像のこと。入学式のこと。学年代表を務めたこと。殿下が、壇上で、立派な祝辞をなさったこと。ジーナが、部屋の広さに、おののいていること。


 三枚に、なった。


 噂のことは、——書かなかった。


 ……着いた、と、一行あればいい、と、仰ったけれど。

 ……長いのを書くと、約束したもの。


 封をした手紙の横に、今日届いた、小さなカードがあった。公太子の紋。流麗な文字で、三日後の午後、学府の中を案内したい、とあった。


 ……「後ほど」の、案内状ね。

 ……律儀な方。


 ◇


 寝る前に、律子は、目録を、開いた。


 まず、調査の頁。噂の一覧、六件。出所の推定。席次の細則のこと。同点首席のこと。裁定所と、古文書庫の場所のこと。——ここまでは、いつも通りの、事務だった。


 それから、もう一つの頁を、開いた。


 「お友達を、作る。目標——さしあたり、三人」


 その下は、白いままだった。


 ……作戦を、練り直しましょう。

 ……皆さん、少し、人見知りでいらっしゃるのよ。外国から来た、公太子の婚約者の、首席入学の令嬢なんて、そりゃあ、話しかけにくいでしょうし。

 ……ハンカチの方は、あれは、貧血か何かで。

 ……本の方は、その、驚きやすい、体質で。

 ……お断りの文面が、三通、同じだったのは——


 ペンの尻を、唇に、当てた。


 ……ええと。

 ……正直に、言いましょうか、律子。

 ……あれは、人見知りの程度では、ないわ。

 ……あれは。

 ……怖がって、いるのよ。私を。


 書いた文字を、見た。お友達を、作る。目標、三人。


 ……おかしいのよ、そもそも。

 ……私、お友達の役なのに。

 ……主人公を応援する、優しい、お友達の、貴族令嬢——


 そこで。


 思考が、止まった。


 ……お友達役の令嬢は。

 ……怖がられたり、——しない。


 魔法学院。


 一年先輩の、完璧な王子様が、婚約者。


 平民の、奨学生がヒロイン。


 そして、冷たい美貌に、悪魔的な頭脳。学院中から、恐れられている、侯爵令嬢。


 ペンが、指から、落ちた。


 律子は、立ち上がった。部屋の隅の、姿見の前に、立った。


 月明かりの中に、令嬢が、いた。


 プラチナブロンドの髪。アイスブルーの瞳。感情の読めない、冷たいと評判の、美貌。


 ……いた。

 ……いたわ、ここに。

 ……完璧な悪役令嬢が。

 

 律子は、鏡の前で、額に、手を、当てた。


 ……そして、プルデンティア。

 ……いたわ。そういう名前の悪役令嬢が。

 ……どのゲームだったかは思い出せない。

 ……すぐに退場するキャラだったから、忘れていた。


 律子の背筋に悪寒が走った。


 ……ヒロインのお友達という結論を出したのは、十三歳の——お母さまを亡くした、あの夜。

 ……泣きながら、それでも、配役の心配をしていた。

 ……五年後には、お友達の役どころか。

 ……主役たちを怖がらせる配役に、なっている。

 ……五年間、その節を、一度も、更新していなかった。

 ……古い判例を、引きっぱなしにして、弁論していた。私としたことが。

 ……その五年の間に、噂が、丁寧に丁寧に、育てられて。

 ……立派な悪役令嬢が、できあがっていた。


 机の上で、目録が、開いたままだった。


 お友達を、作る。目標、三人。


 律子は、その一行を、しばらく、見た。


 腰を抜かした令嬢。逃げ惑った学生。三通の、同じ文面。——あれは、意地悪では、なかった。きっと相談の上で、申し合わせて書いたのだろう。悪役令嬢から逃げるのは、脇役の、正しい動きだ。


 ……楽しみに、していたのだけれど。

 ……お茶会も。夜更かしも。

 ……今度こそ、と、思っていたのだけれど。


 胸の軋みを、今度は、気づかないふりが、できなかった。


 床の上で、影が、動いた。


 影が、するりと、机の上に、伸びた。丸くなって、長い耳が、二本、立った。影のウサギは、跳ねなかった。律子の手の影に、そっと、頭を、寄せた。


「……慰めてるの」


 耳が、ぴこ、と、揺れた。


「……ありがと」


 律子は、息を、一つ、吐いた。吸った。背筋を、伸ばした。


 ……さて。

 ……取り乱しましたが、ここまでです。

 ……査定に、入ります。

 ……悪役令嬢の、典型的な結末。婚約破棄。断罪。国外追放。


 ……国外追放。——あら。もう、国外にいる。達成済み。

 ……婚約破棄。——カリスト殿下との婚約が破棄されて、私は困るのかな?「縁というものは、——結ばれることも、あれば、解かれることも、——ある」とお父様は言った。多分、それほど困らない、のでは。

 ……そして、断罪。——断罪ね。でも、弁明の機会があるのなら、それは、断罪と言わない。

 ……それは、法廷と、呼ぶのよ。

 ……法廷なら。

 ……負けられないわね。


 律子は、目録に、書き足した。


 「新規:悪役令嬢(私)。典型的結末:婚約破棄、国外追放。——備考:国外追放は、既に達成」


 それから、お友達の頁にも、一行。


 「計画:継続。ただし、戦術は、全面見直し」


 しばらく、二つの頁を、見比べた。


 ……結構よ。

 ……悪役で。


 ……こちらには、六法と、四十三年が、あるもの。

 ……それに。

 ……悪役令嬢がお友達を作ってはいけないなんて規則は、——どこにもないのだから。


 律子は、蝋燭を、消した。


 月の光が、窓から、床に落ちて、その中に、影が、濃く、はっきりと、あった。


 ……濃さ、良し。

 ……おやすみなさい、——悪役令嬢の影さん。


 ◇


 夜の中庭で、大樹が、風に鳴っていた。


 葉擦れの音の中に、鈴のような音が混じっていることに、——気づく者は、まだ、丘の上の校舎に、一人しか、いなかった。


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