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第82話 侯爵令嬢、同級生と再会する


 入学式の朝が、来た。


 学園生活、——一日目。


 講義棟の前の掲示板に、人垣ができていた。


 入学席次の、掲示だった。


 律子が近づくと、——人垣が、割れた。


 波が引くように、静かに、割れた。


 ……あら。

 ……婚約者の、威光かしら。皆さん、お行儀がいいのね。


 掲示の一番上に、二つの名前が、並んでいた。


 首席(同点) プルデンティア・セヴェリーニ

      マルクス・カンディドゥス


 ……同点。


 ……この学府の入学試験で、同点。

 ……マルクス・カンディドゥス。——セルヴィアの、平民の姓ね。

 

 ……え、マルクス。

 ……あら。

 ……あら、あら、あら。

 

 ……まさか、法曹予備学園の同級生?


記憶を巡らせた。いつも奥の席で、ノートを取らずに授業を受けていた人だ。


 ……同じ賢者学府に進むなんて聞いていなかった。

 ……そんな秀才が同じ教室に。

 ……灯台下暗しとは、このことね。


 式の前、学監付きの事務官が、書状を届けてきた。学年代表として、新入生の挨拶を、との依頼だった。末尾に、細則の引用が添えてある。——同点首位の場合において、常時発動の性質を持つ特殊例外分類の登録魔法が筆記試験の成績に寄与すると認められるときは、席次代表はこれを他方に置く。


 ……常時発動の、登録魔法。

 ……あちらの方の、事情ということね。

 ……どんな魔法かしら。


 ◇


 大講堂は、白い石の柱が、高い天井を、支えていた。


 朝の光が、高窓から斜めに落ちて、床の上に、長い光の帯を、作っている。壇の脇には、記念碑らしい古い石柱が立ち、表面は、百年分の署名で、埋め尽くされていた。


 新入生は、前方に。在校生は、後方に。教員と、来賓が、両翼に。


 式は、コンティ学監の言葉で、始まった。


 在校生代表の祝辞、の声で、後方の席から、淡い金髪の青年が、立ち上がった。


 カリスト・ヴァレンティーノ・アルカディア。


 壇に上がった公太子は、完璧だった。姿勢。声の通り。一礼の角度。祝辞は、格調が高く、綺麗で、——そして、何も、引っかからなかった。


 ……お上手。

 ……でも、殿下。

 ……お馬のお話をなさる時の方が、目が、生きていらっしゃるのよね。


 祝辞が終わり、新入生代表、の声で、律子は、立ち上がった。


 壇の袖の階段で、降りてくる公太子と、すれ違った。


 カリストは、公式の顔のまま、——ほんの一瞬、素の温度で、小さく言った。


「——後ほど」


「はい、殿下」


 すれ違いざま、足元の影が、静かになるのが、分かった。


 ……ええ、知ってるわ。

 ……殿下のお側では、あなた、いつも、そうなるのよね。

 ……おとなしくして、らっしゃい。


 壇の上に、立った。


 大講堂の全員の顔が、こちらを向いていた。


 ……弁護士になって十五年、人前で、話してきたのよ。法廷、調停室、依頼者のご自宅。

 ……挨拶くらい、どうということは——


「新入生を代表いたしまして、ご挨拶を申し上げます。プルデンティア・セヴェリーニで、ございます」


 視線の温度に、気づいたのは、その時だった。


 重い。


 社交界デビューの晩餐会の、あの重さとも、違う。好奇の熱がない。値踏みの粘りもない。ただ、静かで、——冷たい。


 ……式典って、こういうもの、だったかしら。


 律子は、続けた。


「初めてこの学府の門をくぐりました朝、中庭で、アリアドネ・テミス議長の像に、お目にかかりました。魔法の最高学府が、法服の方のお名前をいただいていることを、私は、美しいことだと存じます」


 教員席の、幾人かが、頷いた。


「百年前、この国の魔法学校に、染みしか消せない魔法を持った、一人の学生がおりました。——そのことは、教科書が教えてくれます。そして、彼女の師が、彼女に贈ったという言葉も、伝えられております。どんなに小さな魔法も、使い方次第である、と」


 教員席の端で、紺のローブの先生が、少しだけ、微笑んだ——ように、見えた。


「その、染みしか消せない魔法が、やがて、大陸の契約の歴史を、変えました。魔法の大きさが、変えたのでは、ございません。使い方が、変えたのでございます」


 ……モンタナーリ先生の声が、聞こえる気がするわ。

 ……「奇跡は、制度ではない」。

 ……ええ、先生。奇跡の続きは、制度の仕事です。

 ……それは、まだ、ここでは、申しませんけれど。


「私どもが、これから学びます法律も、同じでございましょう。法は、それ自体では、善いものでも、悪いものでも、ございません。使う者によって、弱い方の盾にも、——強い方の刃にも、なります」


 前列のどこかで、衣擦れの音がした。令嬢が一人、小さく、身を引いたのだった。


 ……あら。

 ……今のは、ただの比喩よ?


「ですから、この学府で私どもが授かりますのは、魔法や法という、力そのものでは、ないのだと存じます。——力の、使い方。それを学ぶために、私どもは、この門をくぐりました」


 律子は、少しだけ間を置いた。


「最後に、私の好きな言葉を、お借りいたします。——悲観は気分に属し、楽観は意志に属する。良い世界は、待つものではなく、意志によって、作られるものである、と」


 大講堂は、静かだった。


「新入生一同、その意志の使い方を、この学府で、学んで参ります。ご指導のほど、よろしくお願い申し上げます」


 一礼した。


 拍手は、正確な長さで、鳴って、正確に、止んだ。


 ……前世の書架にあった本の言葉を使った。

 ……それが、この世界で私に出来ること。

 ……前世で見た法律の地図を、この世界に再現する。


 席へ戻る短い道のりで、囁きの端が、耳に、触れた。


「……刃、と、仰ったわ」


「……力の使い方を学ぶ。ご自分で、仰るのね……」


「……意志で、世界を、作る、って……」


 ……あら?

 ……私、何か、変なこと、言ったかしら。


 ◇


 式の後、回廊は、新入生と家族で、ざわめいていた。


 その人混みの、少し外れたところ。掲示板の前に、背の高い学生が、一人で、立っていた。


 黒に近い、奨学生の制服。錆びた赤褐色の髪が、やや伸びて、少し乱れている。眼鏡は、かけていない。本を読む人間の、自然な前傾みで、掲示を、見ていた。


 ……背が、高い。

 ……あら。

 ……あの、背中。

 ……教室の、一番奥の。


 掲示の名前と、目の前の背中が、やっと、繋がった。


 ……いらしたのね。本当に、同じ学府に。

 ……五年、同じ教室にいて。私、あなたの何を、存じ上げていたかしら。

 ……お名前と、ノートをお取りにならないことだけ。


 律子は、歩み寄った。令嬢の礼儀として、声をかけた。


「——マルクス・カンディドゥス様、で、いらっしゃいますね」


 青年が、振り返った。


 少しだけ、間があった。


 驚きが、彼の顔に、そのまま出ていた。隠す訓練を、受けたことのない顔だった。それから、彼は、姿勢を正して、一礼した。指が長く、その指の関節に、インクの染みが、あった。


「——はい。マルクス・カンディドゥスです」


「プルデンティア・セヴェリーニで、ございます。予備学院で、ご一緒でしたわね」


「はい。——ずっと、教室の、奥に、おりました」


「同点首席、おめでとうございます」


「いえ」


 彼は、当然のことを言う声で、言った。


「私のは、魔法込みの点ですから。——代表は、あなたです。応相(ふさわ)しいと、思います」


 ……あら。


 祝いの言葉に、温度の計算が、なかった。羨望の粘りも、卑下の湿りもない。事実を述べる声だった。


「恐れ入ります」


 律子は、礼を返して、——それから、少しだけ、迷った。


 ……魔法込みの、点。

 ……ご自分で、仰るのね。

 ……今朝の細則にあった、「常時発動の登録魔法」。

 ……どんな魔法か、考えていた。

 ……ご本人が、目の前に、いらっしゃるわ。


「——ときに、カンディドゥス様。不躾(ぶしつけ)を、承知で、伺いますけれど」


「はい」


「どのような、魔法ですの?」


 間があった。


 彼の顔に、小さく、何かが、構えた。慣れた問いを、慣れた姿勢で、受ける構えだった。


「——一度、読んだものを、忘れない魔法です」


 当然のことを言う、同じ声だった。


「見たものも、聞いたものも、同じです。忘れる、ということが、できません」


「——まあ」


 ……忘れない。

 ……一度、読んだものを、——全部。


「では、予備学院で、ノートをお取りにならなかったのは」


「はい。必要が、ないのです」


 彼は、そこで、律儀に、付け加えた。


「試験では、その分が、点に、乗ります。——ですから、魔法込みの点、と、申し上げました」


 ……ああ。

 ……この方、ご自分の点数から、魔法の分を、引いて、暮らしていらっしゃるのね。

 ……几帳面な、こと。


「——率直に、申し上げて、よろしいかしら」


「はい」


「うらやましい、ですわ」


 彼が、瞬きをした。


 驚きが、また、顔に、そのまま出た。今度の驚きは、先ほどのものと、少し、種類が違って見えた。


「私、書かないと、忘れますの。書いても、忘れますのよ。ですから、書いて、書いて、また、書いて、——五年、そうして参りましたの。それで、やっと、あなたと、同点」


 ……うん。

 ……あらためて口に出すと、ちょっと、悔しいわね、これ。


「ですから、——うらやましい。それだけですわ。他意は、ございません」


 マルクスは、少しの間、黙っていた。


「——そのように、言われたのは、初めてです」


「あら。皆さん、何と?」


 マルクスは答えに詰まった。


「——別のことを」


 それだけ、言った。


「では。——失礼いたします」


 彼は、もう一度、正確に礼をして、人混みと反対の方へ、歩いて行った。長居をしない。侯爵令嬢と平民の奨学生の距離を、きちんと、わきまえた背中だった。


 律子は、その背中を、少しの間、見ていた。


 ……この学府に来て、初めて、普通の温度の会話を、した気がするわ。

 ……忘れない魔法、か。いいわねえ。私の「写し」なんて、本一冊で、影が、薄くなってしまう。切り札だけど、めったに使えない。あちらは、ただで、毎日、全冊よ。魔法の配給係は、何を、考えていらっしゃるのかしら。

 ……それにしても。

 ……魔法込みの点、ですから、——か。

 ……それだって、あなたの点でしょうに。


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