第81話 侯爵令嬢の、希望に満ちた学園生活
国境を越えて、四日目の朝だった。
馬車の窓の外で、世界の色が、変わっていった。
セルヴィアの、麦と土の平野が、終わった。道は、ゆるやかに、登り始め、両側に、灰色の岩肌と、針葉樹の深い緑が、増えていった。谷を渡る橋の下を、雪解けの水が、白く砕けながら、流れていく。
「お嬢様、お嬢様、山の上に、街が!」
ジーナが、窓に、張り付いた。
斜面に、白い建物が、鱗のように、連なっていた。朝だというのに、幾つかの窓に、青白い灯りが、点っているのが見えた。熱のない、魔法の灯。
……アルカディア。
……魔法使いの、国。
街道の先で、騎馬のアウレリオが、片手を上げた。異常なし、の合図だった。
◇
城門をくぐると、街は、坂で、できていた。
石畳の道を、胸に魔法使いであることを示す刺繍をつけた人々が、歩いていく。ひとり。またひとり。刺繍。刺繍。
「……みんな、魔法使いなんですね」
ジーナが、声を落とした。
「ほとんどは、小さな魔法だそうよ。染みを消すとか、火を点けるとか」
「それでも、魔法使いです」
「ええ。——それでも、魔法使い」
馬車と、荷運びの自動車が、同じ坂を、登っていた。工場の煙は、街の外の低い方に、まとまっていて、坂を上るほど、空気は静かになった。
坂の途中に、小さな古書店があった。店先の台に、店主が本を積み上げていた。その掌が子供のようにつやつやしていた。
律子は、それを、見るともなく、見た。
馬車は、通り過ぎた。
一番高い丘に、細い塔が立っていた。評議会の塔。その隣の、なだらかな丘の上に、白い建物の群れが、朝日を受けて、光っていた。
「あれが、賢者学府、ですね……」
ジーナの声が、少し、震えていた。きっと武者震いの類だろう。
◇
正門は、街のどの建物よりも、古い石の門だった。
アーチの上に、古代語が刻まれている。
Schola Sapientium ……賢者たちの、学び舎。
門の内側で、黒いローブの老人が、待っていた。白髪。長身。目元は穏やかで、しかし顔の線は、厳格だった。
「セヴェリーニ嬢。——ようこそ、賢者学府へ。学監の、ベルナルド・コンティです」
「プルデンティア・セヴェリーニで、ございます。本日より、お世話になります」
律子は、令嬢の礼をした。
「侯爵閣下より、かねて、お話は伺っております。——ご案内いたしましょう」
門の内側の学府は、時代の層で、できていた。
外周には、新しい白亜の建物。彫刻を飾った講義棟。広い窓の並ぶ本館。その華やかな輪の内側に、古い石の建物が、囲われるように、残っている。新しい石が古い石を守っているのか、閉じ込めているのか、——見る者によって、違う景色になりそうだった。
「学府は、外から新しく、内から古い、と申します」
コンティが、歩きながら、言った。
「中心に、参りましょう」
◇
中央の中庭は、静かだった。
石畳は、角が取れるほど摩耗し、古い噴水が、細い水音を立てていた。そして、中庭の真ん中に、一本の大樹が、立っていた。幹は太く、枝は空へ広く伸びて、若葉が朝の光を、透かしていた。
「学府で、最も古い場所です。——創設より前から、この樹は、ここに」
北側に、像があった。
法服をまとった、女性の立像。
「アリアドネ・テミス。百年前の、魔法評議会、第十二代議長です。本学府の通称——テミス・アルカナ学院は、この方のお名前から」
「百年前の、——染み抜き事件の頃の、議長でいらっしゃいますね」
「よく、ご存知だ」
コンティの目元が、少しだけ、緩んだ。
「晩年は、立法に、心血を注がれた方です。——志半ばで、あられたが」
律子は、像を、見上げた。
……モンタナーリ先生の声を、思い出す。
……「アリアドネは、法案を持っていた。法典を、持たなかった」
……初めまして、議長。
……あなたの求めていた法典は、——私が。
中庭を渡る時、風が、少しだけ、強くなった。
大樹の葉擦れの音の中に、何か、別の音が、混じった気がした。鈴のような。小さな笑い声のような。
律子は、足を止めて、枝を、見上げた。
何故か、既視感があった。
……気のせい、ね。
少し離れた校舎の、二階の窓辺に、紺のローブの女性が立って、外を見ていた。
「どうしたんですか、ルシア先生。ずっと固まって」
同僚の声に、女性は、穏やかに微笑んだ。
「いいえ。——なんでもありません」
窓の外で、彼女にしか見えないものたちが、新しく入学した一人の令嬢の周りを、光の粉のように、舞っていた。
◇
コンティの案内は、丁寧だった。
中庭に面した、石造りの離れ。
「古文書庫です。今は図書館の別館の扱いですが、——もともとは、創設期の本館でしてな。古い判例集は、大方、あちらに眠っております」
……判例集。
……これから、ここに通うことに、なりそうね。
渡り廊下の先の、小さな建物。
「裁定所。学生同士の紛争を扱う、学内の小さな法廷です。法学部の実習も、あそこで行います」
……法廷。
……あら。いいじゃないの。
寮は、二つに分かれていた。従者の同伴できる貴族寮と、相部屋の奨学生寮。律子にあてがわれたのは、貴族寮の中でもさらに独立した、貴賓区画だった。セルヴィア侯爵家の使節団、という扱いらしい。
「お嬢様、この居間、お屋敷のわたしの部屋の、六つ分あります!」
「あなたの部屋も、三つ分くらいには、していただきましょうね」
「三つ分も要りません。夜、広いと、怖いので」
アウレリオは、荷を降ろすなり、屋根の勾配を確かめに、外へ出て行った。どこへ行っても、まず高い所を見る人だった。
◇
その夜、荷解きの済んだ自室で、律子は、目録を、開いた。
新しい土地に着いたら、まず、目標を書く。前世からの、癖だった。
……調査のことは、調査の頁に。
……それにしても、
……本当の、——魔法学園か。
乙女ゲーム百五十本の猛者にとって、感慨深かった。
……この世界は乙女ゲームとは違う。
……並みいる攻略対象と恋愛を楽しむだけ、の世界じゃない。
……積み上げられた歴史と、厳格な魔法制度、そして法律。
……この世界の人々は、——生きている。
……そして、私もこの世界の一員。
……私には重い使命がある。
……でも、
……少しくらい、学園生活を楽しんでも良いよね。
……憧れ続けた魔法学園で、勉強と調査ばかりでは。
……そうなると、
……まず、これよ。
律子は、新しい頁の頭に、書いた。
「お友達を、作る。目標——さしあたり、三人」
……魔法学院。学園生活。同じ年頃の、生徒たち。
……ふふ。
……私の配役は、十三のときから、もう、分かっている。
……乙女ゲームのヒロインは、平民の、奨学生の女の子。私は、侯爵令嬢。だから、主人公では、ない。
……多分、主人公を応援する、優しいお友達の貴族令嬢。よくいる、サブキャラ。
……いい役よ。気楽で。
……ヒロインみたいな子が入学してきたら、お友達になって。お茶会をして。試験の前には、一緒に、夜更かしをして。
……お友達も。お茶会も。夜更かしも。
……前世では、あまり出来なかった。
……今度こそ、——青春を楽しむの。
ペン先が、少し、弾んでいた。
窓の外で、丘の下の街が、青白い灯を、ちらちらと、瞬かせていた。




