第9話 侯爵令嬢、変な顔になる
入学式の日。
プルデンティアは、新品の制服を着て、学院の広間に、いた。紺のワンピースに、白い襟。プラチナブロンドの髪を、一本の三つ編みにして、胸の前に、垂らしていた。
他の令嬢たちは、プルデンティアから、自然と、距離を、取っていた。
話しかけたい子は、いた。
しかし、「二問も事件」と「論文事件」の両方を抱えた、主席入学のプルデンティアに、最初に話しかける勇気を、誰も、持っていなかった。
プルデンティアは、広間の隅で、持ってきた本を、開いていた。
ペトルス先生が、退職時に贈ってくれた、古代法の写本の複写だった。
「何、読んでるの?」
声が、した。
顔を、上げた。
栗色の巻き毛が、目の前に、あった。
「——キアラ様」
「『様』は、やめて」
「……え?」
「名前で、呼んで。キアラで」
「……キアラ」
「そう。それで、いい」
キアラは、プルデンティアの隣の椅子に、自然に、腰を下ろした。
プルデンティアは、身体が、少し、強張った。
他の令嬢の視線が、二人に集まっているのを、感じていた。
「何、読んでるの?」
キアラが、もう一度、聞いた。
「……古代法の、判例集です」
「……今、入学式の、待ち時間よ?」
「ええ」
「普通、入学式の待ち時間に、判例集、読む?」
「……いけなかったでしょうか」
「いけないわけじゃないけど、貴女、変わっているわね」
キアラは、プルデンティアの本を、覗き込んだ。
「全然、読めないわ、私、古代語」
「お教えしましょうか」
「……いやいや、今は、いい」
キアラが、手を、振った。
「それより、貴女、お友達、いる?」
「……お友達?」
「うん」
プルデンティアは、少し、考えた。
「……乳母のおばさんと、料理長のペッピーノと、ペトルス先生と、中庭の蛙が」
「それは、お友達じゃないわよ」
「……そうですか」
「私と、お友達になってよ」
キアラは、さらりと言った。
「……え?」
「嫌?」
「……嫌では、ないです。——ですが、なぜ」
「なぜ、って聞く?」
キアラは、目を、丸くした。
「……はい。なぜ、私なのか、と」
「——貴女が、面白いから」
「……面白い?」
「うん。こんなに賢くて、こんなに世間知らずの子、初めて見た」
キアラは、プルデンティアの、三つ編みを、ちょいちょいと、指で、突いた。
「それに、貴女、綺麗な三つ編みね」
「……お母さまが、結ってくださいました」
「いいわね、お母さま」
キアラは、ふっと、笑った。
笑い方が、少しだけ、柔らかかった。
プルデンティアは、その一瞬の、柔らかさに、何か、を、感じた。
——この人は、たぶん、明るいだけでは、ない。
プルデンティアには、まだ、それを言葉にする力が、なかった。
ただ、この人の前だと、息がしやすい、という感覚だけが、あった。
しかし、その「息がしやすい」感覚も、他の令嬢たちの視線を、完全には、消せなかった。プルデンティアの本を握る指が、少しだけ、強くなった。
キアラが、それに、気づいた。
「プルデンティア」
「……はい」
「笑いなよ」
「……え?」
次の瞬間、キアラの両手が、プルデンティアの両頬に、伸びた。
ぐにっ、と、両頬が、つままれた。
左右に、引っ張られた。
「……」
プルデンティアの顔が、変な顔に、なった。
口の両端が、左右に、引っ張られて、半開きになった。鼻が、つられて、少し、上を向いた。
「キヤラ、ヒャ、ナニ、シェ——」
プルデンティアが、何か、言おうとした。
しかし、頬を引っ張られているせいで、声が、潰れた。「キアラ、何を、して——」と言いたかったのに、何を言っているか、自分でも、分からない、変な音に、なった。
キアラが、けらけら、笑った。
「ね、変な顔」
「ヒャラ……」
「貴女のお顔、ぐにゃぐにゃで、面白いわよ」
プルデンティアは、最初、抵抗しようと、した。
しかし、自分の声が、変な音に、なっているのが、自分でも、可笑しくて、——
プルデンティアは、つい、笑ってしまった。
頬を引っ張られたまま、変な顔のまま、笑った。
キアラが、もっと、笑った。
「もう、笑ったわね」
「……ふぁい」
「貴女もやって。私の頬」
「……え?」
「やって」
「……いいの、ですか」
「いいの」
プルデンティアは、恐る恐る、両手を、伸ばした。
キアラの、柔らかい、両頬を、つまんだ。
ぐにっ、と、引っ張った。
優しく、引っ張った。
「もっと、強く!」
「で、でも——」
「いいから!」
プルデンティアは、少しだけ、力を、加えた。
キアラの顔が、変な顔に、なった。
口が、左右に、引っ張られて、ぐにゃっと、変形した。
二人で、変な顔のまま、見つめ合った。
しばらく、見つめ合っていた。
それから、——同時に、吹き出した。
二人で、げらげら、笑った。
頬を、引っ張り合ったまま、笑った。
涙が、出るほど、笑った。
広間の、他の令嬢たちが、唖然として、二人を、見ていた。
貴族の令嬢が、頬を、引っ張り合って、笑っている、姿を、見ていた。
プルデンティアは、生まれて、初めて、——両親以外の前で、大声を出して、笑った。
頬が、痛かった。
でも、頬の痛みより、お腹の方が、笑いすぎて、痛かった。
ようやく、二人で、手を、離した。
プルデンティアの頬が、少し、赤くなっていた。
キアラの頬も、少し、赤くなっていた。
二人で、まだ、肩を、揺らして、笑っていた。
「プルデンティア、貴女の笑顔、可愛いわ」
「……」
「もっと、笑った方がいいよ」
「……はい」
プルデンティアは、少し、息を、整えた。
頬が、まだ、ぽかぽかと、温かかった。
◇
入学式が、始まった。
壇上で、学院長が、長い挨拶を、していた。
プルデンティアは、背筋を伸ばして、聞いていた。
隣の席で、キアラが、密かに、あくびを、していた。
プルデンティアは、それに気づいて、思わず、ふっと、微笑んだ。
家族以外の人に、こんな気持ちになったのは——
生まれて、初めてだった。
◇
入学式の後、新入生たちは、指定された教室に、移動した。
プルデンティアとキアラは、同じクラスだった。キアラが座席表を見て「やった!」と声を上げ、プルデンティアは、そっと頷いた。
休み時間。
クラスの令嬢たちが、ぽつぽつと、二人の周りに、集まってきた。キアラが、愛想よく、みんなに、話しかけていた。
「キアラ様、本当に、ロッセリーニ家の?」
「ええ、そうよ。家は、ちょっと商売で、色々してるけど。お気軽に」
「まあ……」
「この子は、プルデンティアよ。二問もの子」
「……キアラ、そういう、紹介しないで」
「だって、みんな、知ってるもの」
令嬢たちは、笑いたいような、しかし笑っていいのか分からない、微妙な顔を、していた。
プルデンティアの「論文事件」と「二問も事件」の両方が、令嬢たちの頭の中で、彼女を怖い人物として、固めていた。
キアラは、それに、気づいた。
「皆さま」
キアラが、令嬢たちに、にっこり、笑った。
「プルデンティアのこと、怖がる必要、ないですわよ」
「……でも」
「本当に。こんなだから」
そう言って、キアラが、また、プルデンティアの両頬を、つまんだ。
ぐにっ、と、引っ張った。
プルデンティアの顔が、また、変な顔に、なった。
「……ヒャラ、また?」
「また」
「……ぐにゃっ」
令嬢たちが、——一斉に、目を、丸くした。
ロッセリーニ家のお嬢様が、セヴェリーニ家のお嬢様の、頬を、引っ張っている。
しかも、セヴェリーニ家のお嬢様が、変な顔のまま、抗議もせずに、引っ張られている。
「ね」
キアラが、令嬢たちに、向かって、言った。
「難しい論文を書いた令嬢の顔、こうなりますの」
「……」
「九十八問正解した子の顔、こうですわよ」
「……」
「怖く、ない、でしょう?」
令嬢たちが、しばらく、固まっていた。
それから、——一人が、ぷっ、と、吹き出した。
もう一人が、堪えきれずに、笑った。
もう一人が、口元を、押さえた。
令嬢たちが、じわじわ、笑い始めた。
キアラが、やっと、プルデンティアの頬を、離した。
プルデンティアの頬が、また、ぽかぽかと、温かかった。
「プルデンティア、ごめんね、二回目」
「……いいえ」
「痛かった?」
「……少し」
「ごめんなさい」
「……でも」
「うん?」
「……皆さまが、笑っていらっしゃるのは、嬉しい、ですわ」
プルデンティアは、頬を、押さえながら、ぽつり、と、言った。
令嬢たちが、それを、聞いて、——もう一度、笑った。
今度の笑いは、さっきより、温かい笑いだった。
ある令嬢が、おずおずと、口を、開いた。
「……あの、プルデンティア様」
「はい」
「私、ベアトリーチェ・コロンナと、申します」
「初めまして、ベアトリーチェ様」
「論文、読みました」
「あら、本当ですか」
「半分しか、分かりませんでしたが」
「……それは、私の書き方が、悪いせいです」
「いいえ。きっと、私の頭が、ついていかないせいです」
プルデンティアと、ベアトリーチェが、お互いに、控えめに、頭を、下げ合った。
キアラが、二人を、見て、満足そうに、笑った。
恐れていた視線が、少しだけ、和らいで、いた。
キアラが、いるからだ。
キアラの明るさが、プルデンティアを取り囲む「賢すぎる令嬢」の壁を、少しずつ、溶かしていた。
プルデンティアは、それに、無自覚だった。
ただ、教室の空気が、さっきまでより、温かい気が、していた。




