第10話 侯爵令嬢、親友を得る
ある令嬢が、キアラに、そっと、耳打ちした。
「キアラ様……あの方に主席の座を奪われて悔しくはないのですか?」
「え?」
「私たち、きっとキアラ様が一番だろうって噂していましたのに…」
キアラが少し考えて、笑った。
「あれだけ突き抜けていると、悔しいって気持ちは出てこないかもね」
「……恐ろしい」
「恐ろしい?」
キアラは、小首を、傾げた。
「どうして、恐ろしいの?」
「だって、その……普通じゃありません。…悪魔じみている」
「私も最初、あの子は皆を見下してるのかと、思ったわ」
「……」
「でも、違うの。あの子は、本当に、自分は二問も間違えたって、泣いていた」
「……」
「そういう子、なの」
キアラは、少し、声を、低めた。
「見下してなんか、ない。ただ、自分のことが、よく分かってないの」
「……」
「それって、恐ろしい?」
令嬢は、ちらりと、プルデンティアを、見た。
プルデンティアは、窓の外の木を、じっと、見ていた。
雀が、枝に、とまっていた。
プルデンティアは、雀を、見ながら、本を、そっと、膝の上に、閉じていた。雀が、飛び立たないように、動かないで、いた。
——その顔は、恐ろしい顔では、なかった。
令嬢は、小さく、首を、振った。
「……恐ろしくは、ないです。ただ、変、ですわね」
「でしょ?」
キアラは、にっこり、笑った。
「だから、面白いの」
◇
下校時間。
学院の正門の前で、プルデンティアとキアラが、並んで、立っていた。
それぞれの家の馬車が、迎えに来ている。
「プルー」
キアラが、プルデンティアを、そう、呼んだ。
「……え?」
「愛称よ。プルーって、呼んでいい?」
「……はい」
「お母さまも、そう呼んで、いらっしゃる?」
「はい」
「じゃあ、お揃いだね」
キアラは、にっこり、笑った。
「また、明日」
「……はい」
「本、ちゃんと、持って帰るのよ」
「はい」
キアラは、自分の馬車に、乗り込んだ。
プルデンティアは、キアラの馬車が、見えなくなるまで、門の前に、立っていた。
それから、自分の馬車に、乗った。
◇
馬車の中で、プルデンティアは、窓の外を、見ていた。
王都の、夕暮れの風景が、流れていく。
馬の蹄の音。御者の声。他の馬車とすれ違う音。道端で物を売る商人の声。
そして、遠くで、一度だけ、ぱぱんと、乾いた音が、した。
プルデンティアは、窓から、頭を、引っ込めた。
——鉄砲の音だわ。
——王宮の、警備の、交代の時刻。
近衛兵の装備が、槍から鉄砲に変わったのは、プルデンティアが生まれる前のことだった。プルデンティアにとって、鉄砲の音は、子供の頃から聞き慣れた、夕方の日常の、一部だった。
プルデンティアは、座席に、深く、座り直した。
頭の中で、今日のことを、思い返していた。
——キアラ。
——キアラ・ロッセリーニ。
——可愛い、と、言ってくれた人。
——「お友達になって」と、言ってくれた人。
——「プルー」と、呼んでくれた人。
プルデンティアの身体の中で、何か、温かいものが、静かに、広がっていた。
何なのか、まだ、名前のつけられない、感情だった。
◇
侯爵邸。
プルデンティアが、馬車から降りて、玄関に、向かった。
扉の前に、コルネリアが、立っていた。
春の風が、母のストレートの黒髪を、ほんの少しだけ、揺らしていた。
「お帰りなさい、プルー」
「ただいま、お母さま」
「今日は、どうだった?」
プルデンティアは、少し、困った顔を、した。
それから、ほんの少し、口を、動かした。
「お母さま」
「はい」
「お友達が、出来ました」
「まあ、本当?」
コルネリアは、嬉しそうに、目を、見開いた。
「ロッセリーニ家の、キアラ、という方です」
「ロッセリーニ家の……ご商売をなさっているお家ね」
「はい」
「どんな方?」
プルデンティアは、言葉を、探した。
自分の中に、この人を説明する語彙が、まだ、なかった。
「……『可愛い』と、言ってくれました。私のこと」
「あら」
「私、『恐ろしい』は、言われたことが、あるのですが」
「ええ」
「『凄まじい』も、聞こえてきたことが、あります」
「……」
「『可愛い』は、お母さまと、お父さま、それに年配の方からしか」
「そうね」
「だから」
プルデンティアは、少し、言葉を、切った。
「だから、嬉しかったのです」
コルネリアは、玄関先で、娘の前に、膝を、折った。
そして、細い腕を、娘の小さな肩に、回した。
娘の髪に、顔を、埋めた。
何も、言わなかった。
プルデンティアは、母の腕の中で、じっと、していた。
母の体は、前より、少しだけ、細くなった、気がした。
でも、プルデンティアは、それに、気づかなかった。
◇
その夜、書斎。
クラウディウスが、何かの書類に、目を、通していた。
コルネリアが、静かに、入ってきた。
「クラウディウス様」
「どうした、コルネリア」
「プリュが、お友達を、作ったそうです」
クラウディウスが、書類から、顔を、上げた。
「……そうか」
「はい」
「どこの家だ」
「ロッセリーニ家の、キアラ、というお嬢様だそうです」
「ロッセリーニ——ああ、あの商会の。堅実な一族だ」
「はい」
「——良かったな」
クラウディウスは、羽根ペンを、置いた。
「プリュは、ずっと、お友達を、持たなかったから」
「ええ」
「気づいていたのか」
「当然でしょう」
コルネリアは、ほんの少し、微笑んだ。
それから、窓の外を、見た。
新式のオイルランプの光が、夫婦の影を、壁に、落としていた。
庭の向こうの空には、星が、出ていた。
「あの子に、家族以外の、居場所が、出来ました」
「……ああ」
「それは、嬉しいことだわ」
「ああ」
コルネリアは、少しの間、黙っていた。
それから、小さく、言った。
「——論文の噂、まだ、続いているそうですね」
「……ああ」
「私が書いたという説から、リヴィアヌス先生が書いたという説まで」
「——気に、するな」
「気には、していません」
コルネリアは、微笑んだ。
「ただ、もう少し、賑やかになるかも、しれません」
「……」
「覚悟は、しています」
クラウディウスは、妻の、薄い白磁のような横顔を、見た。
何も、聞かなかった。
ただ、妻の手に、自分の手を、重ねた。
その手は、冷たかった。
「——一人で、戦わないでくれ」
「はい」
「二人で、戦おう」
「——二人で」
妻は、微笑んだ。
庭の向こうで、星が、一つ、流れた。
プルデンティア・セヴェリーニ、十歳。
彼女の幸福な幼少期は、あと、三年ほど、残っている。




