第11話 侯爵令嬢、ドライブに行く
プルデンティア十一歳。
春の、ある朝のことだった。
家族用の小さな食堂で、朝食のスープが、湯気を立てていた。クラウディウスが新聞を畳んで、テーブルに置いた。コルネリアが紅茶のカップを、ソーサーに、戻した。
「コルネリア」
「はい、クラウディウス様」
「今日は、出かけよう」
コルネリアが、目を、上げた。
「お出かけ、と、おっしゃいますと」
「家族で、だ」
プルデンティアが、スプーンを、止めた。
「お父さま、お仕事は?」
「今日は、ない」
「明日は?」
「明日も、ない」
クラウディウスが、少し、得意そうな顔を、した。
「半年、調整した」
「まあ」
コルネリアが、少しだけ、笑った。
「では、どちらへ」
「自動車を、出させた」
「自動車?」
「北の街道を、走ろう。丘の上で、お弁当を食べよう。エアルが、見える」
プルデンティアが、椅子の上で、思わず、ぴょん、と、跳ねた。
「自動車で! お父さまが運転を!」
「そうだ」
「行きます! プリュ、行きます!」
コルネリアが、笑った。
クラウディウスが、満足そうに、頷いた。
春の朝の食堂に、湯気と、笑い声が、混じっていた。
◇
侯爵邸の、玄関先。
黒く、磨き上げられた自動車が、止まっていた。
車体は、自由都市リミニの最新型。とは言っても、製造年は数年前で、二人乗りの席に、後部座席を継ぎ足した、改造車だった。エンジンは、しばしば、機嫌が悪くなる。
御者頭のロドリゴが、エンジンを、温めていた。
「侯爵様、調子は良いようでございます」
「うむ」
「ですが、よろしければ、私が御者を——」
「いや、ロドリゴ、今日は、私が運転する」
「は」
「家族の日だ」
ロドリゴは、少し、心配そうな顔を、した。
侯爵の運転技術は、悪くはない。しかし、遠出するとなれば、まだ、不安は残る。
しかし、家長が決めたことに、口を挟むのは、自分の役目では、ない。
「畏まりました」
「途中で、何かあれば、馬で、迎えに来てもらう」
「承知いたしました」
クラウディウスが、運転席に、座った。
コルネリアが、薄手のコートを着て、助手席に、腰を下ろした。広いつばの帽子を、被っていた。風で飛ばないように、紐を、顎の下で、結んでいる。
プルデンティアが、後部座席に、跳ねるように、乗り込んだ。
「お父さま、エンジンを、おかけください!」
「待て、プリュ。順番がある」
「はい」
クラウディウスが、燃料栓を、確認した。点火栓を、引いた。エンジンが、ぶるるる、と、唸った。それから、安定した低い音に、落ち着いた。
「お父さま、すごい!」
「これくらい、誰でも、できる」
「いいえ、できません! お母さまも、準備はよろしいですか!」
「大丈夫よ、プルー」
コルネリアが、後ろを向いて、笑った。
その笑いが、春の朝の光に、白く、見えた。
自動車が、ゆっくりと、邸の門を、出ていった。
◇
王都の朝の通りを、自動車が、進んでいた。
石畳の上を、車輪が、ガタガタと、揺れる。エンジンの音が、煙突の鳥たちを、驚かせる。道行く人々が、振り返って、自動車を、見ていた。
子供たちが、走って、追いかけてきた。
「自動車だ! 自動車!」
「あれ、セヴェリーニ家の!」
プルデンティアは、後部座席で、ちょっと、得意そうに、手を、振った。
子供たちが、嬉しそうに、手を振り返した。
コルネリアが、振り返って、娘を、見た。
「プルー」
「はい、お母さま」
「そんなに手を、振り続けると、手が冷たくなってしまうわよ」
「はい!」
プルデンティアは、笑って、両手で、頬を、押さえた。
春の風が、車内に、吹き込んでいた。
風に、薔薇の匂いが、ほんの少しだけ、混じっていた。
◇
王都を出た。
北の街道に、入った。
道の両側に、麦畑が、広がった。まだ、青い麦が、風に、揺れていた。遠くに、低い丘が、いくつか、連なっていた。
馬車と、すれ違った。
馬車が、自動車に、道を、譲った。御者が、驚いた顔で、見ていた。プルデンティアが、また、手を、振った。御者が、慌てて、振り返した。
「お母さま、皆、自動車を、知らないのですか」
「知ってはいるわ。でも、見るのは、初めての方が、多いのよ」
「まあ」
「自動車を、持っているお家は、王都でも、まだ、ほんの少しなの」
「うちと、どこのお家ですか」
「ロッセリーニ家にも、あるはずよ。あちらは、商売柄」
「キアラのお家! 今度、お見せいただきましょう」
「ええ、そうね」
プルデンティアの頭の中で、キアラとの会話が、いくつか、巡った。明日、学院で、自動車に乗ったことを、話そう。キアラはきっと、にやにや、笑うだろう。「貴女、貴族のお嬢様の体験を、庶民みたいに話すのね」とか言うのだろう。プルデンティアは、想像して、ふっと、笑った。
「何が、可笑しいの、プルー」
「キアラが、何と言うか、想像していました」
「あの方は、可笑しなことを、おっしゃるの?」
「いいえ。普通のことを、可笑しく、おっしゃいます」
「あら、それは、才能ね」
コルネリアが、少しだけ、笑った。
◇
街道を、一時間ほど、進んだ。
道は、徐々に、丘に向かって、登り始めた。
左手の斜面に、葡萄畑が、広がっていた。古い葡萄の樹が、ねじれた幹で、空に向かって、伸びていた。葉の隙間から、午前の光が、こぼれていた。
遠くに、エアル方面の、青い山並みが、見えてきた。
「お父さま、あの山は」
「あれが、両国の、国境の山だ」
「向こう側が、エアル王国?」
「そうだ」
「お父さま、行ったこと、おありなのですか」
「ある。仕事で、何度かな」
「どんな国ですか」
「セルヴィアより小さな国だ。麦と、ライ麦の国。それから、蒸留酒が、有名だな」
「蒸留酒?」
「ゴールデンフィールドという、銘柄が、世界中で飲まれている」
「お父さまも、お飲みになるのですか」
「たまにな」
「お母さまも?」
「お母様は、お酒は、あまり、好きでないわ」
「あら、そうなのですか」
「ええ。匂いは、好きよ。あの琥珀色の、麦の匂い」
コルネリアが、何かを、思い出すような、目を、した。
遠くの山並みを、しばらく、見ていた。
「綺麗ね」
「はい、お母さま」
風が、車内に、吹き込んでいた。
葡萄畑の匂いが、混じっていた。
◇
しばらく、走った。
突然、コルネリアが、夫の方を、向いた。
「クラウディウス様」
「うむ」
「私が、運転してみても、いいかしら」
クラウディウスが、ハンドルを、握ったまま、固まった。
「……は?」
「私が、運転してみても、いいかしら、と」
「コルネリア、お前」
「はい」
「運転は、できるのか」
「やってみないと、分からないわ」
「……」
プルデンティアが、後部座席で、目を、見開いた。
「お母さまが、運転を!」
「ええ、そうよ、プルー」
「お母さま、運転、できるのですか?」
「できると思うわ。前から、興味があったの」
「お父さま!」
プルデンティアが、興奮して、運転席の背もたれを、叩いた。
「お母さまに、代わっていただきましょう!」
「いや、プリュ、それはな」
「お父さま!」
「……」
クラウディウスは、しばらく、考えた。
妻が「興味があった」と言うのを、初めて聞いた。妻は、何にでも、興味を持つ女性だった。難しい本を読み、写本を集め、各地から手紙を取り寄せていた。しかし、自動車の話は、これまで、一度も、出たことが、なかった。
彼女は、いつも、自分の興味を、表に出さない。
今日、この春の街道で、初めて、それを口に、した。
クラウディウスは、自動車を、道の脇に、止めた。
「コルネリア」
「はい」
「降りなさい」
「あら、まあ」
「席を、代わろう」
「いいの?」
「家族の日だ。お前の、興味も、優先されるべきだ」
コルネリアが、にっこりと、笑った。
その笑顔は、プルデンティアが、見たことのない、種類の笑顔だった。
ほっそりとした輪郭が、少し緩んで、少女のような笑顔が浮かんだ。
◇
席が、入れ替わった。
クラウディウスが、助手席に、座った。少し、不安そうな顔をしていた。
コルネリアが、運転席に、座った。帽子を、脱いだ。長い黒髪が、春の風に、なびいた。それから、コルネリアは、ハンドルを、両手で、握った。
しばらく、ハンドルを、見ていた。
それから、足元を、確認した。
燃料栓、点火栓、ペダルの位置。
すべて、確認した。
クラウディウスが、口を、開きかけた。
「コルネリア、これは——」
「シーッ」
コルネリアが、夫を、人差し指で、制した。
「分かっています」
「……」
「私、本を、読みましたの」
「本?」
「自動車の、操作の本」
「いつ?」
「先月から」
「先月から?」
「ええ。クラウディウス様が、ご公務で、お忙しかった頃」
「……」
クラウディウスは、しばらく、妻の顔を、見ていた。
妻は、運転席で、嬉しそうに、ハンドルを、撫でていた。
この女は、何を、考えているか、分からない。
クラウディウスは、心の中で、呟いた。しかし、それは、不快な感情では、なかった。むしろ、妻の予測不可能性に、何度目かの感心を、していた。
コルネリアが、エンジンを、かけた。
ぶるるる、と、エンジンが、唸った。
コルネリアは、ペダルを、ゆっくり、踏んだ。
自動車が、滑らかに、動き出した。
◇
「……お母さま」
プルデンティアが、後部座席で、呆然と、呟いた。
「上手……」
コルネリアが、ハンドルを、軽やかに、操作していた。クラウディウスのような、力任せのハンドリングではなく、指先で、語りかけるような、繊細な動きだった。エンジンの音が、彼女の足の動きに、合わせて、滑らかに、変化していた。
車は、なめらかに、丘の道を、登っていった。
クラウディウスは、助手席で、眼鏡の奥の目を、見開いていた。
「コルネリア、お前」
「はい」
「私より、上手いぞ」
「……あら、そうかしら」
「いや明らかに上手い」
「光栄です、クラウディウス様」
コルネリアが、また、笑った。
少女のような笑顔が弾ける。
「お父さま!」
「うむ」
「お母さま、運転、すごく上手!」
「……ああ」
「お母さま、もっと、速く走れますか?」
「プルー、それは——」
「クラウディウス様」
コルネリアが、横目で、夫を、見た。
「行きましょうか」
「……コルネリア、待て」
「プルー、つかまってね」
「はい!」
コルネリアが、ペダルを、踏み込んだ。
エンジンが、唸った。
自動車が、加速した。
「うわあああ!」
プルデンティアが、後部座席で、歓声を、上げた。
風が、車内に、流れ込んだ。
春の風が、髪を、暴れさせた。葡萄畑が、流れた。麦畑が、流れた。遠くの山並みが、ゆっくりと、近づいた。
馬車を、追い抜いた。
御者が、目を、丸くしていた。
また、馬車を、追い抜いた。
別の御者が、口を、開けたまま、見ていた。
「お母さま、もっと! もっと!」
「プルー、これ以上は、危ないわ」
「はい!」
「でも、もう少しだけ、ね」
コルネリアが、悪戯っぽい目で、笑った。
ペダルを、もう少しだけ、踏み込んだ。
エンジンが、嬉しそうに、唸った。
クラウディウスが、助手席で、思わず、首をひっこめた。
しばらく、誰も、口を、きかなかった。
ただ、自動車の揺れに体をまかせていた。
春の街道を、家族で、走っていた。




