第8話 侯爵令嬢、お受験をする
プルデンティア十歳と六ヶ月。
セルヴィア法曹予備学院の、入学試験。
試験会場は、王立図書館の、大広間だった。百人を超える受験生が、机に、向かっていた。皆、緊張した顔を、している。
プルデンティアも、緊張していた。
——お父さまとお母さまに、恥をかかせては、いけない。
——一問でも多く、正解しなくては。
問題用紙が、配られた。百問。時間は、三時間。
試験官の合図で、一斉にペンが、走り出した。
プルデンティアは、深呼吸を一つして、第一問を、読んだ。
——これは、先生と一緒に、二年前に、やった問題に、似ている。
——これも、知っている。
——これは、少し、ひねってあるけれど、原理は、同じ。
ペンが、止まらなかった。
二時間半で、プルデンティアは、最終問題に、到達した。
しかし、三十六問目と、九十七問目は後回しにしていた。
「……」
問題を、三度、読み返した。ペトルス先生と学んだことだ。でも、回答の求める範囲が広すぎる。論理的に説明するには紙面も時間も足りない。
プルデンティアは、唇を、噛んだ。
試験終了の鐘が鳴るまでに、プルデンティアは、三十六問目と九十七問目の欄を、書き続けた。それでも書き終えることは出来なかった。
答案を提出する時、プルデンティアの手は、震えていた。
◇
試験会場の、外。
コルネリアが、日傘の下で、娘を、待っていた。
他の母親たちも、子供を、待っていた。
受験生たちが、続々と、外に出てくる。泣いている子もいる。笑っている子もいる。無表情な子もいる。
プルデンティアが、出てきた。
肩を、落としていた。
頭を、うつむけていた。
試験前より、背が低くなったように見えた。
「プルー」
コルネリアが、近寄った。
プルデンティアは、母の顔を、見た。
見て、——泣きそうな顔に、なった。
「お母さま」
「はい」
「ごめんなさい」
声が、震えていた。
「何が、ごめんなさい?」
「二問も、書けませんでした」
プルデンティアは、うつむいたまま、言った。
——二問も。
その言葉が、試験会場の外の、静まり返った昼下がりの空気に、ぽつんと、広がった。
近くで待っていた、他の令嬢の母親が、扇を、落とした。
別の受験生の母親が、小さく、「……え?」と、呟いた。
プルデンティアの隣を通り過ぎようとしていた、二十歳くらいの、受験生の兄らしき男が、立ち止まって、振り向いた。
「ニ問?」
と、彼は、呟いた。
「百問のうち、二問?」
誰も、答えなかった。
プルデンティアは、母の前で、ただ、しょんぼりして、いた。
「お母さま、合格できるでしょうか……三十六問目と九十七問目は時間が足らなくて」
「……」
「もっと一生懸命に、勉強すれば、解けたのでしょうか……」
コルネリアは、娘の肩を、そっと、抱いた。
それから、周りの、凍りついた親子たちを、ちらりと、見た。
——まずい。
母は、瞬時に、判断した。
「プルー、帰りましょうか」
「はい」
コルネリアは、娘の背中を、押して、足早に、馬車へ、向かった。
背後で、誰かが、「あの子……合格ラインは七十問なのに……」と、怖いものを見たような顔で呟いていた。
別の誰かが、「二問も、って……」と、震える声で、繰り返していた。
馬車に乗り込んで、扉を閉めた後、コルネリアは、深く、息を、吐いた。
プルデンティアは、母の隣で、まだ、しょんぼりしていた。
「お母さま」
「はい、プルー」
「私、合格できるでしょうか」
コルネリアは、娘の頭を、静かに、撫でた。
何とも、答えようが、なかった。
合格どころの話では、ないことを、母は、知っていた。
後に分かることだが、この入学試験は全問正解を求める設計では無かった。三十六問目と九十七問目は、効率を重視して捨てるべき問題。それを含めて完全回答に肉迫した受験生は過去にも例が無かった。
◇
一週間後。
合格発表は、学院の正門前の、大きな掲示板に、掲示された。
プルデンティアと、コルネリアが、馬車から、降りた。
大勢の受験生と、親たちが、掲示板の前に、群れていた。
プルデンティアが、人垣を、かき分けて、前に、進もうとした。
しかし、進む前から、既に、分かっていた。
受験生と親たちが、自然と、道を、空けたからだ。
皆が、プルデンティアを、見ていた。
——ひそひそ。
——あれが、セヴェリーニ家の。
——ええ、九十八問正解。
——私の子、六十三問で、落ちましたのよ。
——しかも、あの、論文の。
——えっ、本当に、お嬢様が?
プルデンティアは、人々の視線を、正面から、受け止めた。
本人は、周りが何を言っているのか、よく、分からなかった。
ただ、皆が、自分を見ている。
——合格できたのか、できなかったのか、早く、知りたい。
掲示板の前に、着いた。
受験番号を、探した。
——あった。
プルデンティア・セヴェリーニ。
受験番号、二十三番。首席合格。
プルデンティアは、掲示板に向かって、ぺこりと、お辞儀を、した。
なぜ、お辞儀をしたのか、本人にも、よく、分からなかった。
ただ、ほっとして、身体が、そう動いた。
近くで、誰かが、小さく、吹き出した。
視線を、向けた。
一人の少女が、立っている。
同じ年頃の、栗色の巻き毛の、大きな緑の瞳の少女。背はプルデンティアより少し高い。受験番号を確認したところらしい。
少女は、掲示板を見て、それから、プルデンティアを見て、もう一度、掲示板を、見た。
そして、もう一度、小さく、吹き出した。
「……お辞儀、してたでしょう、貴女。掲示板に」
少女は、プルデンティアを、見て、言った。
「……はい」
「掲示板に、お辞儀するの、貴女だけよ」
「……そうでしょうか」
「うん、絶対、貴女だけ」
少女は、笑っていた。
意地悪な笑いでは、なかった。面白いものを見た、という種類の素直な笑いだった。
「私、キアラ。キアラ・ロッセリーニ」
少女は、自分の名前を、名乗った。
「プルデンティア・セヴェリーニ、です」
「知ってる」
「……え?」
「貴女、注目の的よ。分かっていないの?」
「そうなのですか」
「で、貴女、さっき合格掲示を見て、誰に、お辞儀したの?」
「……掲示板に、でしょうか」
「うん。なぜ?」
「……」
プルデンティアは、答えに、困った。
「……ほっとして、身体が、勝手に、動きました」
「可愛いわね」
キアラは、けらけらと、笑った。
「貴女、自分が首席だって、分かってた?」
「いえ、ついさっき、知りました」
「だろうね。貴女、試験会場で『二問も間違えた』って言ったって、噂になってるわよ」
「……はい」
「普通、九十八問正解して、『も』って、言う?」
「……言っては、いけなかったのでしょうか」
キアラは、腹を、抱えた。
大声で、笑った。
掲示板の前の、他の親子たちが、こちらを、見た。
プルデンティアは、おろおろした。
「ごめんなさい、笑って。でも貴女、最高よ」
キアラは、涙を、拭いた。
「私、貴女のこと、好きになりそう」
「……は?」
プルデンティアの頭が、ついていかなかった。
好きになりそう。
そんな言葉を、両親以外の人間から、聞いたのは、生まれて、初めてだった。
「……は?」
もう一度、プルデンティアは、間の抜けた声で、呟いた。
キアラは、また、笑った。
コルネリアが、少し離れたところから、娘と見知らぬ少女の様子を、静かに、見ていた。
——娘が、誰かの前で、こんなに、困惑している顔を、初めて、見た。
そして、不思議と、そんな姿を見るのが、嬉しかった。




