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第7話 侯爵令嬢の、論文の余波


 侯爵邸の、茶会のサロン。


 ある午後、夫人たちが、集まっていた。


 コルネリアは、日傘の下で、紅茶を、出していた。


「コルネリア様」


 一人の夫人が、切り出した。


「お嬢様の論文、お読みに、なりまして?」


「ええ、もちろんです」


「素晴らしい内容、ですわね」


「ありがとうございます」


「あれは……コルネリア様が、お書きに、なったの、ですか?」


 サロンが、一瞬、静まり返った。


 コルネリアは、紅茶を、一口、飲んだ。


 そしてティーカップを、ソーサーに、戻した。


 静かな、音が、した。


「……私、こう見えて、意外と、欲張りなのです」


「……はい?」


「もし、私が書いたのでしたら、私の名で、出しております。私は、自分の書いたものを、人に譲る性格では、ございませんので」


「プルデンティアは、幼い頃から、本が好きで。リヴィアヌス先生の、ご指導を三年、受けました。論文は、娘が、書いたものです」


 微笑みながら、言った。


 しかし、微笑みの奥に、少しも、譲らないものが、あった。


 夫人たちは、顔を、見合わせた。


 話題は、さっと、別の方向に、流れた。


 コルネリアは、そのまま、紅茶を、注ぎ続けた。


 ◇


 その夜の書斎で、クラウディウスが、妻の横顔を、見ていた。


「今日、茶会で、何か、言われたのか」


「……あら、お耳に、入りましたか」


「使用人から、少し、ね」


「大したことでは、ありません」


 コルネリアは、微笑んだ。


「私が、論文を書いたと、疑われただけです」


「……」


「否定しました。私の書いたものなら、私の名で出しますと」


「君は、論文を、書いているのか」


 クラウディウスが、静かに、聞いた。


 コルネリアの手が、一瞬、止まった。


「……いいえ」


「そうか」


「私は、手紙を、書いているだけです」


「……」


「たくさんの、お手紙を」


「誰に」


「色々な人に」


 クラウディウスは、それ以上、聞かなかった。


 妻は、話したい時に、話す人だった。


「——気をつけて、くれ」


「ええ」


「君は、私の、大切な、妻だ」


「……ありがとう、クラウディウス様」


 コルネリアは、微笑んで、夫の手を、握った。


 冷たい、細い手だった。



 論文掲載から、ひと月ほど、経った頃。


 ペトルス先生が、再び、侯爵邸を、訪れた。


 退職してからも、ペトルス先生は、時々、プルデンティアに会いに来ていた。教師としてではなく、一緒に論文を読み、共に味わう、研究者として。


 その日、ペトルス先生は、布で包んだ、薄い本を、抱えていた。


「お嬢様」


「先生、お久しぶりですわ」


「論文の参考文献を、貸してくださった、ある方が、お嬢様に、お贈り物を、なさっています」


「お贈り物?」


 プルデンティアが、目を、輝かせた。


「アルカディアで、古書店を営んでおられる、ルカヌス・モンタヌスという方です」


「私、お会いしたことが、ございませんが」


「ええ、お会いになったことは、ございません。遥か東の国です。お嬢様の論文を、紀要で、読まれて——」


 ペトルス先生は、布を、丁寧に、外した。


 革の表紙の、薄い、古い本が、現れた。


「お嬢様の論文の、次の研究の素材に、なるかもしれない、と」


 プルデンティアは、両手で、本を、受け取った。


 革の表紙が、温かかった。


 タイトルは、『古代諸部族における女性の社会的地位』。


「まあ、これ、私の論文の、次の問いに、ぴったりですわ」


「ええ、ルカヌス殿は、お嬢様の、次の関心を、見抜かれたようです」


「お会いしたことのない方が、なぜ——」


「論文を、お読みになれば、書き手の、次の問いは、見えるそうです」


「……ふむふむ」


 プルデンティアは、本を、開いた。


 最初の頁に、古い、丁寧な筆跡で、短い献辞が、書かれていた。


 古いインクの、少しだけ褪せた、しかし美しい字で。


『お嬢様の、思考の旅に、この一冊が、共に、ございますように。


 ところで、お嬢様は、Convenis を、ご存じですか。 LM』


 プルデンティアは、その文字を、読んだ。


 Convenis。コンウェニース。


「先生、これは、古代語、ですわよね」


「ええ、お嬢様」


「『一つに集まる』『君に合う』という意味の、古い言い回しですか」


「お分かりですか」


「動詞 Convenio コンウェニオー の、二人称単数形、ですよね」


「ええ、その通りです」


 ペトルス先生が、微笑んだ。


「ルカヌス殿は、お嬢様が、この単語を、ご存じかどうか、知りたかったようですよ」


「あら、なぜ?」


「単に、お嬢様の、古代語の素養を、確かめたかった、のだと思います」


「お試しに?」


「ええ。学者は、皆、若い才能には、お試しをするものです」


 プルデンティアは、少し、誇らしそうに、笑った。


「では、お礼の手紙に、書いておきましょう。Convenis を、知っております、と」


「ええ、お喜びになるでしょう」


 プルデンティアは、もう一度、本の頁を、捲った。


 古い紙の、少しだけ、黄ばんだ匂いが、した。


 古い本の、いい匂い、だった。


 しかし、——


 頭の中で、Convenis、という音を、もう一度、繰り返した時、


 なぜか、その音が、——別の何か、に、似ている気が、した。


 何に、似ているのか、——分からなかった。


 ただ、不思議な、響きだった。


「お嬢様?」


「あ、——いえ、何でもありません」


「お疲れですか」


「いいえ、先生」


 プルデンティアは、本を、胸に、抱いた。


「素敵なお贈り物に、感激していただけです」


 ◇


 その夜、プルデンティアは、自室で、お礼の手紙を、書いた。


『ルカヌス・モンタヌス様


 素晴らしいお贈り物を、頂戴し、ありがとうございました。


 私の論文を、お読みくださり、次の研究の素材まで、お贈りくださり、深く、感謝いたします。


 Convenis、存じております。動詞 Convenio の、二人称単数形。「君に合う」「君にとって良い」という意味の、古い言い回し、と承知しております。


 お贈りくださった本、まさに、Convenis、で、ございました。


 いつか、お目にかかれる日を、楽しみにしております。


 プルデンティア・セヴェリーニ』


 手紙を、便箋に、清書した。


 封蝋を、押した。


 明日、ペトルス先生に、お渡しして、ルカヌス殿に、発送していただこう、と決めた。


 手紙を、机の上に、置いた。


 ベッドに、入った。


 ◇


 数週間後。


 王都の旧市街の、小さな古書店。


 白髪の、痩せた、中背の男が、店の奥の机で、一通の手紙を、読んでいた。


 読み終えた。


 静かに、——目を、閉じた。


 深く、息を、吐いた。


 手紙には、Convenis、という単語に対する、完璧な、古代語の知識が、記されていた。


 しかし、——それだけ、だった。


 別の何かへの、反応は、なかった。


 男は、目を、開けた。


 窓の外を、見た。


 春の、夕暮れだった。


「……人違いか、」


 男は、誰に向けてでもなく、呟いた。


「それもと、まだ、目覚めて、いないのか」


 答える者は、いなかった。


 古書店の、奥の机の上で、手紙の便箋が、夕陽に、染まっていた。


 男は、手紙を、丁寧に、畳んだ。


 そして、店の奥の、古い書類入れの、一番上に、収めた。


 書類入れの中には、——同じような、薄い手紙が、何通か、既に、入っていた。


 100年に渡る観察者が集めた様々な情報。


 男は、その書類入れを、閉じた。


 そして、また、店の仕事に、戻った。


 彼は、待つことに慣れている。


 100年、待ってきた。


 あと、数年、待つことなど、何でも、なかった。

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