第6話 侯爵令嬢、論文を書く
プルデンティア九歳。
ある日、プルデンティアが、ペトルスに、言った。
「先生」
「はい」
「私、これまでの疑問の答えを、まとめてみたいのです」
「……」
「紙に書いた、バラバラの考えを、一つの、長いお話に、できないでしょうか」
ペトルスは、しばらく、黙った。
そして、言った。
「……それを、論文と、申します」
「ろんぶん」
「学者が、思考をまとめる、紙の形式です」
「私、学者ではありませんが」
「お嬢様は、実質的に、学者で、あられます」
「まあ、先生ったら」
プルデンティアは、照れたように、笑った。
ペトルスは、笑わなかった。
本気で、言っていた。
◇
こうして、論文執筆が、始まった。
プルデンティアが、書く。ペトルスが、補強する。
少女の直感的な一節を、ペトルスが、「お嬢様、この主張は、こちらの先行研究を引用すると、学会で通用します」と、学術的な装いに、整える。少女は、「まあ、本当ですわね」と、素直に、反映する。
二人で、一つの論文を、作っていた。
机の両側で、二人の影が、並んで、落ちていた。
もはや、どちらが教師で、どちらが生徒かは、影の形からは、分からなかった。
◇
プルデンティア十歳。
論文が、完成した。
表題『古代法における嫡男相続原則の起源についての一考察——家長権の歴史的構成と、子女の相続的地位の法的性格について』。著者、プルデンティア・セヴェリーニ。
ペトルスは、最終稿を、三度、読んだ。
読み終えて、しばらく、動かなかった。
それから、眼鏡を、外して、目頭を、押さえた。
——三十年の教師生活で、一度も、味わったことのない感情だった。
自分が教えた生徒の論文を読んで、自分が学ぶ側になる経験。しかも、生徒は、十歳。
ペトルスは、深呼吸を、した。
「お嬢様」
「はい、先生」
「この論文、大学の紀要に、載せるべきです」
「まあ」
「私から、侯爵様に、ご相談いたしましょう」
「お父さまに、ご迷惑では」
「ご迷惑には、ならないと、確信しております」
ペトルスは、最終稿を、丁寧に、綴じた。
「お嬢様」
「はい」
「——私が、お嬢様にお教えすべきことは、もう、ございません」
少女は、ペン先を、止めた。
机の向かいの、白髪の老人を、まっすぐに、見た。
アイスブルーの瞳が、ほんの少しだけ、潤んだ。
「先生」
「はい」
「——寂しいです」
「私も、です」
「これから、私は、どなたに、質問すればよろしいのでしょう」
「ご自分の頭に、です」
ペトルスは、微笑んだ。
「お嬢様は、もう、ご自分で考えられます。それが、学問の、到達点です」
「……はい」
「もっとも、私がもし、学院でお嬢様にお会いする機会があれば」
「ええ」
「その時は、おそらく、私の方が、お嬢様の、お話を伺うことになるでしょう」
プルデンティアは、ふっと、笑った。
「先生ったら」
ペトルスも、笑った。
老人と少女が、机の両側で、穏やかに、笑っていた。
二人の影が、机の上で、寄り添っていた。
◇
ペトルスは、侯爵と夫人の前で、深く、一礼した。
「もはや、私がお嬢様にお教えすべきことは、ございません」
「……先生、そんなことは」
クラウディウスが、呟いた。
「いえ、近頃は、私がお嬢様から、学ばせて、いただいております」
「……」
「論文は、大学の紀要に、掲載されるべきです。私が、手配いたします」
「内容は?」
「——嫡男相続原則の、歴史的起源に関する、批判的研究で、ございます」
クラウディウスの、眉が、動いた。
「批判的、とは」
「現行法の即時変更は、主張しておりません。ただし、原則の歴史的偶然性を、論証しております」
「……」
「率直に申し上げて、現在のセルヴィア法学界で、これに匹敵する論文を書ける者は、三人ほどしか、おりません」
「……三人」
「そのうちの一人が、私でございます」
ペトルスは、一息、置いた。
「しかし、十歳のお嬢様に、追い越されました」
夫婦は、顔を、見合わせた。
「……ペトルス先生」
コルネリアが、口を、開いた。
「はい、奥様」
「論文を見せていただけますか」
「ご用意してございます」
ペトルスは、鞄から、綴じた原稿を、取り出した。
コルネリアが、受け取った。
指が、少し、震えていた。
◇
その夜、書斎。
コルネリアが、論文を、読んでいた。
分厚い、紙の束。
クラウディウスは、隣の椅子で、別の書類を見ているふりをしながら、妻の横顔を、見ていた。
妻は、一頁、読む。止まる。目を閉じる。開く。また、読む。
やがて、最終頁を、読み終えた。
コルネリアは、論文を、机に、置いた。
そして、両手で、顔を、覆った。
泣いているのでは、なかった。
震えていた。
「……クラウディウス様」
「うむ」
「……凄い、論文だわ」
「……」
「私が、長く、ぼんやり考えていたことを、あの子は、明文化した」
「……」
コルネリアは、手を、下ろした。
顔に、微笑みが、戻っていた。
しかし、微笑みの奥に、別の何かが、あった。
クラウディウスは、それに、気づいた。
気づいたが、聞かなかった。
「……掲載は、どうするか」
「本名で、出すべきよ」
コルネリアは、即答した。
「……社交界の波紋は、大きいぞ」
「ええ。でも、避け続けると、プルーは、自分の達成を、隠す癖を覚えてしまうわ。それは、もっと、怖いこと」
「……」
「私が、世間と、交渉します」
クラウディウスが、妻を、見た。
「——交渉、とは」
「世間は、この論文を、誰が書いたと、解釈するかしら」
少しの、沈黙。
「……君だと、思う者が、多いだろうな」
「ええ」
コルネリアは、少しだけ、笑った。
「私が否定すればするほど、噂は、広がるわ」
「……」
「プルーの名で出して、私が世間と、直接向き合う方が、まだ、制御できます」
「コルネリア」
「はい」
「——君が、矢面に、立つことに、なるぞ」
コルネリアは、夫の手に、自分の手を、重ねた。
細い、冷たい手だった。
「ええ」
「それで、いいのか」
「私は、論文の学問的評価と、著者の世間的評価を、分けたいの」
「……」
「プルーには、『自分が書いた論文は、素晴らしい』という誇りを、持たせてあげたいわ。世間の雑音で、その誇りを、曇らせたくない」
「……」
「雑音は、私が、引き受けるわ」
クラウディウスは、しばらく、黙っていた。
それから、妻の手を、握り返した。
「——分かった」
夫婦は、手を、重ねたまま、ランプの光の中に、いた。
新式のオイルランプが、二人の影を、壁に、落としていた。
◇
翌日。
コルネリアが、娘を、呼んだ。
書斎ではなく、庭の、薔薇のあずまやだった。春の午後、白い日傘の下で、母と娘が、向かい合って、座った。
「プルー」
「はい、お母さま」
「論文、読ませていただいたわ」
プルデンティアの顔が、緊張した。
母が、微笑んだ。
「素晴らしい論文だったわ」
「——本当、ですか」
「ええ、本当」
プルデンティアの顔が、ぱっと、輝いた。
「ただね、プルー」
「はい」
「一つだけ、お話ししたいことが、あるの」
プルデンティアは、背筋を、伸ばした。
「プルーが書いたのは、学問の論文よ。でも、読む人は、学問の目で読むとは、限らないの」
「……」
「ここ、この一節」
母の指が、論文の一頁を、示した。
「『法の安定性は、今持っている人の、安定性である』」
「はい」
「これを、お家のおじいさまや、おばあさまが読んだら、どう、思うかしら」
プルデンティアは、しばらく、考えた。
「……私が、おじいさまを、批判している、と」
「ええ」
「でも、私が言いたいのは、そういうことではなくて——」
「ええ、お母様は、分かっているわ。でも、読む人は、自分の立場から、読むの」
「……」
「セヴェリーニ家のお嬢様が、家父長制度を批判する論文を書いた——この事実を、社交界は、どう、解釈するかしら」
プルデンティアが、しばらく、黙った。
そして、静かに、言った。
「……私が、お父さまのお家を、狙っている、と」
「そう思う人が、いるわ」
「でも、私は、そんな——」
「ええ、お母様は、分かっている」
母は、娘の手を、そっと、取った。
「プルー、賢さは、武器になるけれど、——その武器で、自分を傷つけることも、あるの」
「……」
「……賢さは、時々、鏡になる。自分を、斬るのよ」
「ええ。これが、その例なの」
母は、少し、間を、置いた。
「お母様は、この論文を、誇りに、思うわ。プルーの頭脳の、結晶よ」
「……」
「でも、世間に出す時は、世間の読み方を想像しなくては、いけないの」
「……はい」
「これから、プルーが成長していくと、こういう場面が、何度も、あるわ。自分の正しさと、世間の解釈との、ずれ」
「……」
「完全に避けることは、できない。でも、自分が何を書いているかと、どう読まれるかを、両方、考える癖は、つけていてほしい」
「はい、お母さま」
母は、娘を、抱きしめた。
「プルーは、大丈夫よ。プルーは、賢いから」
娘は、母の腕の中で、少しだけ、泣きそうに、なった。
薔薇の花びらが、風に、一枚、落ちた。
母の肩で、白い花びらが、しばらく、止まっていた。
◇
論文は、セルヴィア王立大学の紀要に、著者プルデンティア・セヴェリーニの名で、掲載された。
学界は、沈黙した。
それから、驚愕した。
「十歳の論文だ、と?」
「セヴェリーニ家の令嬢だと?」
「……リヴィアヌス名誉教授が、監修しているが」
「だが、著者は令嬢の名前だぞ」
学界の沈黙が、社交界に、伝播した。
「まあ、お聞きになりまして?」
「セヴェリーニ家のお嬢様、論文を、お書きになったとか」
「しかも、家父長制度を、批判する内容だそうよ」
「十歳で?」
「そう、ですの」
「……本当に、お嬢様が、お書きに?」
「それが、ね」
「え?」
扇が、口元を、覆った。
「——コルネリア様が、お書きになったのを、お嬢様のお名前で、出したのでは、という、噂も」
「……まあ」
「コルネリア様は、昔から、本をたくさん、お読みになる方ですし」
「確かに、そうね」
「それに、十歳のお嬢様が、あんな論文を、書けるはずが——」
「でも、リヴィアヌス先生の監修、ですわよ」
「先生が、コルネリア様に、協力されたのかも」
「まあ、そんな」
「可能性は、ありますわ」
噂は、広がっていった。
扇の陰で、少しずつ、形を、変えながら。




