第5話 侯爵令嬢、音楽を楽しむ
同じ年の、ある春の、午後。
エンデミオ伯爵家の、音楽鑑賞会。
王都の、緑豊かな庭園に面した大広間だった。大きな窓が、庭の薔薇の方に開いていて、午後の柔らかな光が、磨かれた床の上に、斜めに、差し込んでいた。
金色の縁取りの椅子が、五十脚ほど、半円形に、並べられていた。
セルヴィア貴族社会では、時折、このような音楽鑑賞会が、催される。茶会より格式が高く、舞踏会より静かな社交の形式。招待される家は、限られている。
プルデンティアは、母と並んで、二列目の端の席に、座っていた。
八歳。薄い水色のドレスに、白いリボン。足が床に届かず、椅子の上で、少しだけ、ぶらぶらしていた。
「プルー、足は、揃えて」
コルネリアは、扇子で口元を隠しながらたしなめた。
「あ、はい、お母さま」
プルデンティアは、慌てて、足を、揃えた。
広間の前方に、小さな演奏壇が、設えられていた。白い大理石の上に、金色の燭台が、左右に、二つ。その中央に、一人の女性が、立っていた。
中堅貴族の、夫人だった。三十代前半くらい。淡い緑色のドレスに、真珠の首飾り。顔立ちは整っているが、どこにでもいる貴婦人の顔だ。特別な華やかさは、ない。
司会の男が、女性を、紹介した。
「本日の演奏は、バレンティーニ子爵夫人による独唱です」
夫人が、優雅に、一礼した。
「——『星の賛歌』より、第三曲」
伴奏の、古い型のチェンバロが、静かに、音を、立て始めた。
そして、夫人の口が、開いた。
——音が、出た。
その瞬間、広間の全ての空気が、変わった。
プルデンティアは、息を、止めた。
美しい声、だった。
美しい、という言葉では足りない、何か、だった。チェンバロの細い旋律の上に、女性の声が、滑らかに、乗った。高音が、広間の天井近くまで、昇り、そこで、ほんの一瞬、止まって、ゆっくりと、降りてくる。低音が、床に染み込むように、響き、身体の芯を、震わせる。
プルデンティアは、椅子の上で、微動だに、しなかった。
足を揃えたまま、母の隣で、ただ、聴いていた。
——曲が、終わった。
広間が、一瞬、静まり返った。
それから、拍手が、始まった。最初は、一人。二人。すぐに、全員が、拍手していた。
プルデンティアも、小さな手で、拍手した。
「——お母さま、素敵な歌でしたね」
隣の母を、見上げた。
母は、微笑んで、拍手していた。
ただ、少し別のものを感じた。
プルデンティアは、母の微笑みを眺めるのが好きだった。幸せな気分になるから。普段の母の微笑みと、今の微笑みは、少し、違っていた。
長く伏せられた睫毛の奥にある切れ長の瞳。その色が潤んでいる。
「……お母さま」
「はい、プルー」
「お母さまは、あまり、楽しくなかったのですか」
コルネリアは、少しの間、娘を、見た。
「そんなことは、ないわ」
「でも」
「素晴らしい歌声だった」
「……」
プルデンティアは、納得、していなかった。
母は、少し躊躇ってから、扇子を閉じ、娘の耳元に、顔を、近づけた。
他の聴衆に、聞こえない距離で、静かに、言った。
「……プルー」
「はい」
「あの歌を、美しいと思う気持ちを、大事になさい」
「……はい」
「でもね」
「はい」
「——この歌を失った人が、いるかもしれないのよ」
「……失った?」
「ええ」
「誰が、ですか」
「分からないの。——分からないから、気になるの」
プルデンティアは、しばらく、考えた。
母の言う意味が分からなかった。
歌は、声から、生まれる。声は、人の身体から、生まれる。それが、どうして、「失った人」という話に、なるのか。
「……お母さま」
「はい」
「プリュは、よく、分かりません」
「いいのよ、今は」
母は、娘の手を、握った。
コルネリアは、少しだけ、微笑んだ。
今度は、普段の微笑みに、近かった。
「お母様はね、プルー。プルーに、美しいものを、美しいと思う心は、ずっと、持っていてほしいの」
「はい」
「でも、同時に、美しさの、後ろ側を、考える心も、少しだけ、持っていてほしい」
「後ろ側」
「ええ」
「……」
「それは、一緒に、あっていいのよ。矛盾しないの」
「……はい」
プルデンティアは、理解できない話を、理解できないまま、頷いた。
二曲目が、始まった。
夫人が、再び、歌い始めた。
プルデンティアは、演奏壇の上の、夫人を、見た。
微笑んで、優雅に、歌っている。どこにでもいる貴婦人の顔が、歌っている時だけ、天使のような表情に、なる。
——この方は、誰かの歌を、持っているのかもしれない。
——誰か、どこかで、歌うことを、やめた人が、いるのかもしれない。
プルデンティアは、その「誰か」を、想像しようとした。
想像できなかった。
八歳の、彼女の想像力は、まだ、そこまで、届かなかった。
ただ、——演奏壇の上の、夫人の微笑みが、少しだけ、違って、見えた。




