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第4話 侯爵令嬢、家庭教師を困らせる


 プルデンティア七歳。


 侯爵邸の、家族用の小さな食堂。


 夕食の、スープが出された頃だった。


 プルデンティアは、銀のスプーンを持ったまま、ふと、顔を上げた。


「お父さま」


「何だ、プリュ」


「どうして、女の子は、お家を継げないのですか」


 クラウディウスは、スプーンを持つ手を、止めた。


 コルネリアも、スプーンが、止まった。


 三人分のスープが、蒸気を立てている。


「……それはな、プリュ」


 クラウディウスが、口を、開いた。


「そういう、法だからだ」


「でも、お父さまのお家には、私しかいません」


「……」


「私が継げないなら、お家はどうなるのですか」


 クラウディウスは、答えに、詰まった。


 法的な答えは、遠縁の男子に継がせる、である。だがこの答えを、七歳の娘に、夕食の席で、伝える勇気が、父には、ない。


 父は、咳払いを、一つ、した。


「……その話は、もう少し、大きくなってから、しよう」


「なぜですか」


「大人の話だからだ」


「大人の話は、どうして、子供にしてはいけないのですか」


「……プリュ」


 コルネリアが、娘を、やわらかく、見た。


「それは、お父様のご専門のお話なの。ゆっくり、時間をかけて、教えていただきましょう」


「はい、お母さま」


 プルデンティアは、スープを、口に、運んだ。


 ——でも、納得は、していない顔だった。


 夫婦は、視線を、交わした。


 この子は、時々、こういう顔をする。


 ◇


 翌日。


 勉強部屋。


 家庭教師ペトルス・リヴィアヌスが、古代法の教科書を、開いていた。


 年の頃は六十前後。白い髪を後ろに撫でつけ、縁の細い眼鏡をかけている。セルヴィアの名門大学で、二十年、古代法と哲学を教えていた名誉教授だ。


 元教え子の侯爵に口説かれて、七歳の少女の家庭教師を、引き受けた。


「今日は、家督相続の原則について、お話しいたしましょう」


「ペトルス先生」


 プルデンティアが、手を、上げた。


「はい、お嬢様」


「どうして、女の子は、お家を継げないのですか」


 ペトルスは、少し、微笑んだ。


 教育の、最初の入り口として、悪くない質問だった。


「それは、古くからの、伝統です」


「伝統って、何ですか」


「昔から、そうであった、という意味です」


「どれくらい、昔からですか」


「成文法が制定された頃からですから、三百年ほど前でしょうか」


「三百年前の人は、どうして、そう決めたのですか」


 ペトルスは、眼鏡を、押し上げた。


「……当時は、男子が戦に出ることが多く、財産は戦える者が守るべき、と考えられたのです」


「今は、戦が、ありません」


「それは、…そうですね」


「戦がないのに、どうして、その法だけ、残っているのですか」


「……」


 ペトルスの、手元が、止まった。


 ——これは、幼い質問の形をした、古典的な法哲学の問題提起だ。


 制定時の根拠が消滅した後も、法はなお効力を持つべきか——セルヴィアの大学で、何世紀も議論が続いている問題を、七歳の少女が、無邪気に、差し出してきた。


「……お嬢様」


「はい」


「次週までに、調べてまいります」


「まあ、ありがとうございます、先生」


 プルデンティアは、素直に、喜んだ。


 ペトルスは、帰りの馬車の中で、眼鏡を外して、目頭を、押さえた。


「……七歳の、質問で、ある」


 御者が、首を、傾げた。


「先生、お疲れでしょう。寝ておいでになってはいかがで」


「……そうするよ」


 ペトルスは、目を、閉じた。


 しかし、眠れなかった。


 ◇


 翌週。


 ペトルスは、大学の書庫から借りてきた、分厚い本を、数冊、机に、積んだ。


「お嬢様、先週のご質問に、お答えいたします」


「はい、先生」


「制定時の根拠が消滅しても、法の安定性のために、残すべきだ、という学説がございます」


「安定性」


「社会の秩序が、揺らがないように、という意味です」


「……ふむふむ」


 プルデンティアは、顎に、指を、当てた。


 ペトルスは、息を、ついた。


 ——これで、今週は、乗り切れる。


 七歳の少女に対して、大学院レベルの法概念を、どうにか、平易に、説明し切った。


 自分で自分を、褒めた。


「先生」


「はい」


「分かりました」


「それは、ようございました」


「でも、もう一つ、疑問が」


「……」


「社会の秩序が揺らがないように、と、おっしゃいましたね」


「はい」


「それは、誰のためですか」


 ペトルスの、手元が、止まった。


「……は?」


「今、お家を継いでいる方と、次に継ぐ予定の方は、困らないですよね」


「……ええ」


「困るのは、継げなかった方、ですよね」


「……」


「法の安定性というのは、今、持っている人の、安定性では、ないでしょうか」


 書庫の本を、八冊、積んで、臨んだ授業だった。


 その全てが、一瞬で、意味を失った。


 七歳の少女が、セルヴィアの法哲学者たちが十世代にわたって議論してきた命題の、最も鋭い一角を、夕食後のデザートでも出すように、さらりと口に、した。


 ペトルスは、しばらく、眼鏡を、外したまま、固まった。


「……お嬢様」


「はい」


「……今、お嬢様が、おっしゃったこと」


「はい」


「紙に、お書きに、なって下さい」


「え?」


「大事な思考は、紙に残さないと、消えます」


「まあ、先生ったら、大げさですわ」


「大げさでは、ございません」


 ペトルスは、真剣だった。


 プルデンティアは、きょとんとしながら、ペンを、取った。


 「法の安定性は、今持っている人の、安定性」と、書いた。


「……これで?」


「そうで、ございます」


 ペトルスは本を閉じた。


「先生」


「はい」


「今日の授業は、もう終わりですか」


「……今日は、ここまで、に、いたしましょう」


「まだ、時間が、ございますが」


「先生が、少し、整理する時間が、必要なのです」


 プルデンティアは、こくん、と、頷いた。


 ペトルスは、よろよろと、馬車に、乗り込んだ。


「御者、大学へ、やってくれ」


「大学にでございますか」


「大学の書庫に行く。至急、だ」


 御者は、何が起きているのか、分からなかった。


 ◇


 一週間後。


 ペトルスは、書庫から戻ってきた。


 髪が、前より、少し、白くなった気が、した。


「お嬢様」


「はい、先生」


「先週のご質問に、お答えいたします」


「はい」


「学界には、『法の安定性は既得権の保護である』という主張をする学者も、おります」


「まあ」


「ですが、これは、少数派です。多くの学者は、法の安定性を、より中立的な価値として、論じております」


「ふむふむ」


「お嬢様のご指摘は、少数派の学者の主張と、結果的に、同じ方向を向いておられます」


 プルデンティアは、嬉しそうな顔を、した。


「あら、私に仲間がいるのですね」


「ええ。ただし、少数派です」


「少数派、というのは、悪いことですか」


「いえ、悪いというわけでは……」


 ペトルスが、言葉を、探している間に、プルデンティアは、次の質問を、始めていた。


「先生、その学者さんたちは、どうして、仲間が少ないのですか」


「……」


「だって、考え方は合っているのでしょう?」


「……論理的には、有力です」


「では、なぜ、仲間が増えないのですか」


「……」


 ペトルスは、眼鏡を、外した。


 そして、目頭を、押さえた。


 ——この子は、知らずに、学問の最も残酷な事実を、問うている。


 論理的に正しい主張が、必ずしも、多数派には、ならない。なぜなら、多数派を形成するのは、論理ではなく、利害だからだ。


「……お嬢様」


「はい」


「紙に、書きましょう」


「またですか?」


「またです」


「先生、紙の束が、ずいぶん、増えてしまいました」


「……これは、大事な紙、です」


 ペトルスは、ほとんど、祈るように、言った。


 ◇


 それから、一年が、過ぎた。


 プルデンティア八歳。


 勉強部屋の、机の上の、紙の束は、すでに、本一冊分に、達していた。


 ペトルスは、毎週、書庫に通った。


 退官して以来、一度も行かなかった書庫に、週に三度、通うようになっていた。司書が、名誉教授の顔を、覚え直していた。


「先生、最近、研究を、再開されたので?」


「……八歳の子供の、質問に、答えるためだ」


「……」


 司書は、大変ですねと笑って答えたが、本当のところ、この返答の意味が、分からなかった。


 ◇


 プルデンティアの「なぜ」は、続いていた。


 なぜ、戦がない時代にも、戦のための法が残っているのか。


 なぜ、論理的に正しい主張が、多数派にならないのか。


 なぜ、現行法は、過去の偶然を、未来への必然として、押し付けるのか。


 一つ、一つの問いが、セルヴィアの法哲学の、最も深い層に、触れていた。


 プルデンティアは、それを、自覚していなかった。


 ただ、疑問を持ったから、聞いているだけ。


 ペトルスの「次週までに、調べてまいります」が、毎週、続いた。書庫の本が、勉強部屋に、どんどん、運ばれてきた。


 ある日、プルデンティアが、運ばれてきた本の山を、見て、言った。


「先生」


「はい、お嬢様」


「こんなに、ご面倒を、おかけして」


「いいえ、お嬢様。——私も楽しんで、おります」


「本当に?」


「本当に、でございます」


 ペトルスは、笑った。


 笑って、少しだけ、目を、潤ませていた。


 三十年、大学で教えていた時間にも、ここまで面白い生徒には、会ったことが、なかった。


 博士課程の学生たちは、優秀だった。しかし、彼らは、学問の枠組みの中にいた。プルデンティアは、学問の枠組みの外から、枠組みそのものに、疑問を差し向けていた。


 これは、教育の、最も贅沢な形だった。


 ペトルスは、名誉教授としての残りの人生を、この少女に、捧げようと、決めていた。


 ただし、そんなことを、プルデンティアに、言うつもりは、なかった。


 余計なことを言うと、プルデンティアは、また、「なぜですか」と、聞いてくるに、違いないからだ。

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