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第3話 侯爵令嬢、蛙を育てる


 プルデンティア六歳。


 侯爵邸の中庭に、小さな池がある。


 プルデンティアは、そこで泳いでいる、たくさんのおたまじゃくしを見ていた。


 乳母が、春先、近くの小川で、一匹捕まえてきて見せてくれたのがきっかけだった。


 黒い、小さな、生き物。


 しっぽを、ぴちゃぴちゃと、振って、泳ぐ。


「これが大きくなると手足が生えてきて、蛙になるんですよ」


「蛙に?足が生えるの?」


 その言葉が、プルデンティアの好奇心に火をつけた。


「もっと、欲しい」


「——まあ、お嬢様。では、もう少し、お持ちしましょうか。私の家の近所にいくらもいるので」


 乳母が楽しそうに言った。


 ◇


 侯爵邸の、茶会のサロン。


 何人かの夫人たちが、窓から中庭を、眺めていた。


「まあ、プルデンティアちゃん、おたまじゃくしを、育てていらっしゃるの?」


「ええ、一匹ずつ、餌をあげて、観察しているんです」


「なんて、お優しい」


「小さな生き物への愛情って、お利口な子の証拠ですわね」


「ご覧なさいな、今日もお池のほとりで、じっと見ていらっしゃる」


 コルネリアは、日傘の下から、娘を見ていた。


 見ていた。


  ——何か、嫌な、予感がする。


 母の勘が、少し、騒いだ。


 しかし、娘は、春の午後の光の中で、ただ、静かに、池を見つめていた。


 乳母が、パンくずを、娘の手のひらに、乗せた。


 娘の指が、ゆっくり、池の水面に、触れた。


 おたまじゃくしたちが、わっと、集まってきた。


 娘は、満足そうに、頷いた。


 ——きっと、生き物が、好きなのね。


 コルネリアは、そう思うことにした。


 ◇


 それから間もなく。


 セヴェリーニ侯爵家の、古い友人筋の、子爵家。


 その家の七歳の長男、バルナバスが、遊びに来た日のこと。


 バルナバスは、やんちゃで、物怖じしない男の子だった。父親譲りの、大声で笑う性格。


 そして、プルデンティアが、気に食わなかった。


 なぜかは、分からない。


 分からないが、プルデンティアが注目され、褒められているのが、気に食わなかった。


 中庭で、バルナバスは、こっそり、蛙を一匹、捕まえた。


 そして、プルデンティアの、お茶会用の小さな帽子の中に、そっと、入れた。


「…………」


 プルデンティアが、帽子をかぶろうとした瞬間。


 ぬるり、とした感触。


 帽子の中から、蛙が、ぴょん、と、跳び出した。


「きゃあああ!」


 叫んだが、プルデンティアは、泣かなかった。

 

 でも、顔が、みるみる、真っ赤になった。


 バルナバスは、げらげら、笑った。


「やーい、プルデンティアの、泣き虫!」


 プルデンティアは、じっと、バルナバスを見た。


 アイスブルーの瞳が、春の光の中で、一瞬、凍った。


「泣いてないわ」


 呟いたその時、プルデンティアの足元の影が、ほんのわずか、遅れてバルナバスの方を向いた。


 プルデンティア自身の身体は既にバルナバスから視線を外していたのに、影だけが、まだ、そこを見ていた。


 誰も、気づかなかった。


「……いいわ」


 プルデンティアは、小さく、言った。


 そして、スカートの裾を、つまんで、一礼した。


 令嬢の礼だった。


 それから、くるりと、向きを変えて、母のもとへ、歩いていった。


 ——バルナバスは、小さな勝利に喜んだ。


 その日は。


 ◇


 翌日。プルデンティアは、池の前にしゃがみこんでいた。


「……あなたたち」


 プルデンティアは、おたまじゃくしの群れに、静かに、語りかけた。


「早く、大きくなりなさい」


「……」


「そして、足を、生やしなさい」


「……」


「いい? プリュは、あなたたちに、お仕事があります」


 おたまじゃくしたちは、黒い目で、少女を見ていた。


 少女の足元の影は、その日、やけに、大きく、濃かった。


 ——観察者がいれば、気づいたかもしれない。


 しかし、見ている者はいなかった。


 ◇


 二ヶ月後。


 おたまじゃくしたちは、立派な蛙になった。


 正確には——百匹と、少し。


 乳母が、こっそり、捕まえてきた分も、合わせて。


 庭師のジョルジョが、中庭の池の異様な繁殖に、眉をひそめていた。「お嬢様、これ、少し、放してきた方が——」


「だめ」


 プルデンティアは、即答した。


「まだ、必要なの」


「は、はあ」


 庭師は、何が必要なのか、分からなかった。


 ◇


 子爵家。


 バルナバスの、七歳の誕生日の、朝。


 子爵家の、大広間。


 正装したバルナバスが、召使たちの拍手の中、階段を降りてきた時だった。


 玄関ホールに、大きな箱が、届いていた。


 リボンで飾られた、きれいな箱だった。上にカードが添えられている。


『バルナバス様 七歳のお誕生日、おめでとうございます プルデンティア・セヴェリーニ』


「ほう、セヴェリーニ家のお嬢様から、お祝いだ」


 父の子爵が、相好を崩した。


「バルナバス、開けなさい」


 バルナバスは、得意げに、箱の前に進んだ。


 リボンを解いた。


 蓋を、持ち上げた。


 ——その瞬間。


 中から、何かが、一斉に、飛び出した。


 黒い。


 小さい。


 ぬるり、とした。


 ぴょん。


 ぴょん。


 ぴょん、ぴょん、ぴょん、ぴょん、ぴょん、ぴょん、ぴょん——


 大広間の、磨き上げられた大理石の床に、蛙たちが、散らばった。


 百匹はいる。


 たくさんの蛙が、子爵家の大広間を、跳ね回った。


 召使の一人が、悲鳴をあげた。


 別の一人が、気絶しかけた。


 母の子爵夫人が、椅子の上に、飛び乗った。


 バルナバスは——固まった。


 顔から、血の気が、引いていた。


 あの時の仕返しだ。


 ——帽子に一匹入れた蛙を百倍返ししてきた。


 蛙は怖くない。でも、皆が逃げ惑い、自分の楽しい誕生会が無茶苦茶になっていた。


 バルナバスは、悔しさのあまり、涙が出るのを止められなかった。


 大声で、泣いた。


 ◇


 侯爵邸の書斎。


 クラウディウス・セヴェリーニ侯爵が、手紙を読んでいた。


 子爵家からの、正式な抗議文だった。


 クラウディウスは、手紙を、三度、読み返した。


 それから、羽根ペンを置いた。


「……プリュを、呼んでくれ」「この手紙はコルネリアに渡すように」


 侍女が、プルデンティアを連れてきた。


 六歳の少女は、父の机の前に、ちょこんと立った。


 父は、黙って、娘を見た。


 娘も、黙って、父を見た。


 沈黙が、書斎を、満たした。


 クラウディウスは、沈黙で交渉相手の心を折る、沈黙の使い手だった。


 しかし、娘も負けずに沈黙を続けていた。


「……プリュ」


「はい、お父さま」


「バルナバス卿のお誕生日の、贈り物の件だ」


「……はい」


「蛙が、百匹、入っていたそうだな」


「……はい」


「これは、どういう、お祝いだ」


 プルデンティアは、少し、考えた。


 それから、顎を、ほんの少しだけ、上げた。


「……バルナバス様は、生き物が、お好きなのかと、思いました」


「……」


「プリュの帽子の中に、蛙を一匹、お入れくださいましたから」


「……」


「ですので、お誕生日に百倍、差し上げました」


「……」


「いけなかったでしょうか」


 クラウディウスは、娘の顔を、見ていた。


 少女の顔は、澄んでいた。


 クラウディウスは、——セヴェリーニ家の当主として、この娘の手口の構造を、把握した。


 ——子爵家への、贈答慣行を巧みに模した、倍返し。


 ——先例(バルナバス卿の蛙一匹)への、正確な応答。


 ——家門同士の交渉の礼法を、表向きの器に使っている。


 ——動機を一切、表に出さない、巧妙さ。


 ——以上を、六歳が、組み立てている。


 クラウディウスは、——羽根ペンを取り上げて、何か書こうとして、やめた。


 こんな分析をしている場合ではない。


 叱るべきなのは、明らかだった。


 だが、叱るとしたら、何に対して叱るのか。


 ——娘が、子供という仮面を利用したことに対してか?


 ——贈答慣行の作法を、悪用したことに対してか?


 ——あるいは、蛙百匹という、悪趣味な物量に対してか?


 クラウディウスの頭の中で、家長としての回路と、父親としての回路が、静かに、衝突を起こしていた。


 扉が、開いた。


 コルネリアが、入ってきた。


 手に、あの抗議文を、持っていた。


「……クラウディウス様」


「コルネリア」


「……」


「……」


 夫婦は、しばらく、見つめ合った。


 それから、コルネリアが、娘の前に、膝を折った。


「プルー」


「はい、お母さま」


「バルナバス様は、プルーの帽子に、蛙を、一匹、入れたのね」


「はい」


「それは、プルーを、驚かせるため?」


「そうだと、思います」


「驚かせようとされて、プルーは、どう感じた?」


「……嫌な気持ちがしました」


「ええ」


「だから、プリュも、バルナバス様を、驚かせようと、思いました」


「……百倍にして」


「……はい」


「プルー」


「はい」


「驚かせようとする人に、驚かせ返すと、どうなるのかしら」


「……」


「次は、どうなると、思う?」


 プルデンティアは、ちょっと、考えた。


 それから、静かに、言った。


「……二百匹に、なって、返ってくる、と思います」


「ええ」


「でも、プリュは、もっとおたまじゃくしを育てて——三百匹に出来ます」


「プルー」


 コルネリアが、娘の手を、そっと、取った。


「蛙の次は蛇、その次は怖い犬…。それを、続けていくと、いつか、誰かが、死ぬわ」


「……」


「家と家の争いって、そういうものなの」


「……」


「プリュは、それが、したい?」


 プルデンティアは、少しの間、黙っていた。


 それから、小さく、首を、横に振った。


「……したくない、です」


「そう」


 コルネリアは、娘の頭を、撫でた。


「プルーはね、賢いから、最初の仕返しの時点で、気づいてほしかったのよ」


「……」


「仕返しをせずに、バルナバス様のお父様に、きちんと、言えばよかった。『失礼なことをされて、嫌な気持ちがしました』って。大人に、相談すればよかったの」


「……」


「お母様は、そのためにいるの」


「……」


「お父様も」


 コルネリアは、夫を見た。


 クラウディウスは、少し気まずそうに、頷いた。


「……はい、お母さま」


「ほら、お返事」


「プリュは、今度から、お母さまに、相談します」


「それと?」


「……お父さまにも」


「ええ。それから」


 コルネリアは、娘の顔を、しっかり、見た。


「バルナバス様に、お手紙を、書きましょう」


「……はい」


「プリュは、嫌な気持ちを、百倍のお返しにして、やりすぎたって。ごめんなさい、って」


「……」


「書ける?」


「……はい、お母さま」


「お母様が、一緒に、書いてあげるから」


「……はい」


 プルデンティアは、母の手を、握った。


 母の手は、とても細かったが、とても暖かかった。


 ◇


 その夜。


 侯爵邸の、子供部屋。


 プルデンティアは、ベッドの中で、目を、開けていた。


 天井の、装飾が、月の光の中で、ぼんやり、浮かんでいた。


 ——次は、二百匹、そして、蛇に、犬になって、返ってくる。


 母の言葉が、頭の中で、残っていた。


 プルデンティアは、まだ、その意味を、全部は、理解していなかった。


 ——でも、お母さまが、そう言うなら、そうなのだろう。


 プルデンティアは、母を、信じていた。


 母を信じる、という感覚は、プルデンティアにとって、疑問を持たないほど、自然なものだった。生まれてからずっと、母は、プルデンティアの世界の根だった。


 ——お母さまは、いつも、賢いことを、言う。


 ——プリュも、賢くなりたい。


 プルデンティアは、そう思いながら、目を、閉じた。


 枕元の影が、ほんの一瞬だけ、まだ天井の装飾を見ているような向きで、止まっていた。


 やがて、その影も、少女の寝息に合わせて、静かに、眠りについた。


 ◇


 侯爵邸の、夜の書斎。


 クラウディウスが、手紙を、書いていた。


 子爵家への、正式な謝罪文だった。


 隣で、コルネリアが、別の本を、読んでいた。


 分厚い、革表紙の本。古代法の、判例集の、新しい版だった。


 ——表向きは。


 コルネリアは、時々、ペンを取って、本とは別の紙に、何か、書きつけていた。


 クラウディウスは、気づいていた。


 妻が、何かを、調べていることに。


 ただ、聞かなかった。


 妻は、話したい時に、話す人だった。


 今は、話したくないのだろう。


 それ以上、夫は、何も、問わなかった。


 ただ、隣に、いた。


 妻の、華奢な肩が、新式のオイルランプの光の中で、静かに、揺れていた。


「……クラウディウス様」


「どうした、コルネリア」


「プリュは、とても、賢い子ね」


「……ああ」


「賢すぎて、心配だわ」


「……」


「賢さは、武器にも、盾にも、なるけれど」


 コルネリアは、ペンを、置いた。


「時々、鏡にもなるの。自分を、斬るのよ」


「……」


「プリュが、自分を、斬らないように、育てないと」


 クラウディウスは、しばらく、黙っていたが、呟くように言った。


「あの子には魔法ではなく、法律を学んで欲しい。その素質がある」


 クラウディウスは妻の手に、自分の手を、重ねた。


「——二人で、育てよう」


 コルネリアは、微笑んだ。


「ええ」


 夜は、静かだった。


 侯爵邸の、どこかの部屋で、六歳の少女が、すやすやと、眠っていた。


 絹のようなプラチナブロンドの髪が、枕の上で、広がっていた。


 小さな影が、ベッドの脇に、落ちていた。


 ——影の先端が、ほんの少しだけ、扉の方を、向いていた。


 少女の頭は、枕の中央にあった。


 本来、影は、まっすぐ、ベッドの縁に落ちているはずだった。


 しかし、影の先端は、扉の方を、向いていた。


 少女は、眠ったまま、何かを、見ている気配だった。


 あるいは、——誰かを、待っている気配だった。


 その「誰か」が誰なのかは、まだ、少女自身も、両親も、知らなかった。


 扉の向こうの、廊下の、ずっと遠く。


 コルネリアとクラウディウスは、書斎で、手を重ねたまま、ランプの光の中にいた。


 ——二人で、育てよう。


 夫婦は、そう、約束した。


 侯爵邸の夜は、穏やかに、更けていった。


 プルデンティア・セヴェリーニ、六歳。


 彼女の幸福な幼少期は、あと、半分ほど、残っている。


 ——そして彼女が、乙女ゲームの悪役令嬢と同じ名前を持つことに、まだ、誰も、気づいていない。


 彼女自身も、含めて。

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