第2話 侯爵令嬢、幸せに育つ
「——おぎゃあ」
泣き声が、石造りの広間に、高く、響いた。
セヴェリーニ侯爵邸。
侍女が産着に包んだ赤子を、そっと差し出した。
「侯爵様、お嬢様でございます」
クラウディウス・セヴェリーニ侯爵は、四十歳目前。家門の当主として、いつも少し険しい顔をしている男だった。元老院の法案審議から戻ったばかりで、スーツの袖口が、まだ冷えている。
クラウディウスは赤子を抱いた。
抱き方が、ぎこちなかった。
赤子は、ぷにぷにしていた。想像していたより、ずっと軽い。そしてやたら、小さい。少し怖くなった。
何かの手違いで、これ、落としたりしないだろうか。
いや、落とさない。私はセヴェリーニ家の当主である。跡取りを落としたなどという噂が、家門に——
——いや、待て。
プリュは、娘だ。
跡取り、という語は、この子には、相応しくない。
そこまで考えて、クラウディウスは、黙った。
「……プリュ、か」
小さく、呟いた。
プルデンティア。賢慮。四元徳の一つ。代々、セヴェリーニ家の女子につける名の候補にあった名。
だがクラウディウスは、いま抱いている重みの温かさに対して、徳目を向ける気にはならなかった。
「……プリュ」
もう一度、呼んだ。短い、親しい響き。
赤子は、泣き止んで、父を見た。
まだ見えているかどうかも分からないが、深い、青い目だ。
◇
寝室。
侯爵夫人コルネリアは、産後の疲れた顔で、しかし微笑んでいた。顔は光を透過する薄い白磁のように青白く、そして脆く見える。
憂いを秘めた艶のある黒髪は、長くまっすぐで、産後の汗でほんの少し乱れている。華奢な肩と長い手足。体は細いが、芯の強さが伸びた背筋に表れていた。
「ご覧になりましたか」
「見ました」
「可愛らしいでしょう」
「……可愛らしい、という情感は、主観の問題だが」
「クラウディウス様」
コルネリアは、ほんの少しだけ、笑った。
「時に、元老院の語法は、ご家庭には不向きです」
「……」
クラウディウスは、黙って、椅子に座った。
そして、ぎこちない手つきで、コルネリアの手を、握った。
それが、セヴェリーニ侯爵の、精一杯の愛情表現だった。
部屋の大きなガラス窓から、月の光が二人を照らしていた。
◇
プルデンティア三歳。
侯爵邸の書斎は、壁の一面が本棚で占められている。
父の膝の上に座って、プルデンティアは、大きな革の本を覗き込んでいた。
「お父さま。この、ぐにゃぐにゃは、何ですか」
「これは、領地の、古い取り決めだ」
「とりきめ」
「お父さまの、お仕事の、一つだよ」
「どうして、こんなに、ぐにゃぐにゃ?」
「昔の紙だからだ。動物の皮から出来ている」
「文字もぐにゃぐにゃ」
「昔の人の文字だ。今の文字とは、少し、形が違う」
「……プリュの、絵本の文字と、違う」
「そうだ。絵本の文字より、ずっと、古い」
「……プリュは、これ、読めないわ」
「お父さまも、読むのに、時間がかかる」
プルデンティアは、ちょっと、嬉しそうな顔をした。
父も、読むのが、大変らしい。
「——そうか」
クラウディウスは、少し、笑った。
娘の頭を、ぎこちなく、撫でた。
プルデンティアの絹のようなプラチナブロンドの髪が、父の節くれだった指の下で、さらりと流れた。
書斎の窓から、午後の光が差していた。
プルデンティアの小さな影が、父の膝の上で、本の頁に落ちていた。
——光の加減のせいだろう、と、クラウディウスは思った。
影が、一瞬だけ、本の古い文字の形をなぞるように、動いた気がした。
いや、一瞬のことだ。目の錯覚に違いない。
プルデンティアは、機嫌よく、父の胸にもたれて、父の心音を聞いていた。
◇
プルデンティア五歳。
春の茶会。
王都の、侯爵家の庭。薔薇が満開だった。
各家の若夫人たちが、白い日傘の下に集まっていた。
「まあ、プルデンティアちゃん、なんて、お可愛らしい」
「このお目々の色、青いガラス玉みたい」
「髪もさらさらで……侯爵夫人譲りですわね」
「どれどれ、おばさまにご挨拶を」
プルデンティアは、母に教わった通り、膝を折って、軽く頭を下げた。
「ごきげんよう、みなさま」
「まあああ」
夫人たちが、一斉に、崩れた。
「可愛いい」
「この間おっしゃっていた通りですわ、コルネリア様、こんなにお利口さんで」
「まあ、うちの娘にも、爪の垢を煎じて」
プルデンティアは、顎を、ほんの少しだけ、上げた。
五歳にして、もう分かっていた。
——私は、可愛い。
——私は、褒められる存在である。
——これは、私に与えられた才能である。
それは、傲慢ではなく、事実の認識だった。プルデンティアは、まだ傲慢という概念を知らない。ただ、自分の周囲の現実を、観察して、受け入れた。
コルネリアは、日傘の下から、静かに娘を見ていた。長く伏せられた睫毛の奥にある切れ長の瞳は、静かな湖面のように澄み切っている。
ほんの少しだけ、微笑んだ。
——そろそろ、地面に足をつける話も、していかなくてはね。
コルネリアは、そう思いながら、ガラスのティーカップから紅茶を一口、飲んだ。
◇
プルデンティア五歳と六ヶ月。
深夜。
侯爵邸の廊下は、燭台の小さな炎だけが揺れていて、壁の家紋のタペストリーが、ぼんやりと浮かんでいた。
プルデンティアは、寝巻きのまま、廊下を歩いていた。
目的地は、厨房。
「……プリュは、クリームのケーキが、食べたい」
小さく、一人で、呟いた。
夕食の後に、母が読んでくれた絵本に、お姫さまが大きなクリームのケーキを食べる場面が出てきた。あの絵が、脳裏から、離れない。
厨房の扉を、そっと、開けた。
中は、真っ暗だった。
料理人たちは、もう、休んでいる時刻だ。
プルデンティアは、ちょっと、困った。
それから、廊下の突き当たりの、料理長の部屋の方へ、歩いた。
控えめに、扉を叩いた。
「……ペッピーノ」
小さな声で、呼んだ。
しばらくして、扉が開いた。
料理長ペッピーノは、もう還暦近い、頑固そうな顔の男だった。セヴェリーニ家に三十年仕えている。寝巻きの上にガウンを羽織って、目を擦っている。
「……お嬢様?」
「プリュは、クリームのケーキが、食べたい」
「…今でございますか?」
「今」
「……」
ペッピーノは、しばらく、沈黙した。
それから、——頑固そうな顔を、ほんの少しだけ、崩した。
「……かしこまりました」
「!」
プルデンティアの顔が、輝いた。
「ただし」
ペッピーノが、ぴしりと言った。
「奥様には、お伝えいたしますよ」
「……」
それは、多少、想定外だった。
しかし、ケーキの魅力には、敵わなかった。
プルデンティアは、こくり、と頷いた。
◇
厨房で、ペッピーノは、黙々と、クリームを泡立てていた。
寝起きだというのに、手元に、少しの狂いもなかった。三十年の技術は、眠気では揺らがない。
プルデンティアは、厨房の大きな椅子の上で、膝を抱えて、見ていた。
卵白が、白い山になっていく。
砂糖が、さらさら、落ちていく。
ヴァニラの香りが、暗い厨房に、立ち昇る。
プルデンティアは、うっとりした。
「……ペッピーノは、お料理が、上手」
「恐れ入ります」
「プリュは、ペッピーノが、大好き」
「恐れ入ります」
ペッピーノは、クリームを絞り袋に詰めながら、眠そうに、返事をした。
——この方は、きっと、将来、良い令嬢になる。
ペッピーノは、ぼんやりと、そう思った。
ただ、その「良い令嬢」の中身を、まだ、誰も、知らなかった。
◇
翌朝。
侯爵邸の、家族用の小さな食堂。
コルネリアは、朝食のスープを前に、娘を、じっと、見ていた。
プルデンティアは、スプーンを握ったまま、もじもじしていた。
母は、何も、言わなかった。
ただ、見ていた。
それが、少しだけ、怖かった。
「……お母さま」
「はい、プルー」
「……昨日の夜、ペッピーノに、ケーキを作ってもらいました」
「ええ。聞いています」
「……」
「美味しかった?」
「——うん。美味しかった」
「それは、よかったわね」
コルネリアは、微笑んだ。
プルデンティアは、ほっとした。
しかし、次の母の言葉で、その安堵は、消えた。
「プルー、聞いてくれる?」
「はい」
「ペッピーノや、厨房の者たちはね」
コルネリアのスプーンが、スープの表面を、ゆっくりと、撫でた。
「プルーが目覚める前から、もうキッチンで、火を入れているの」
「……はい」
「お父様とプルーの朝食を用意して、お昼を用意して、夜のお料理を用意して。お茶会のお菓子も焼くわ。ペッピーノは、三十年、そうしてきたの」
「……」
「みんなより早く起きて、みんなが寝てから、ようやく、自分のベッドに入るのよ」
コルネリアは、スプーンを置いた。
「プルーが昨夜、叩いたのは」
ほんの少しだけ、首を傾けた。
「ようやく眠りについたばかりの、おじいさんの肩だった、ということ」
「……」
プルデンティアの、頬が、熱くなった。
怒られているのではなかった。
怒られるより、恥ずかしかった。
「お父様がご公務でお疲れの夜、プルーは、お父様の肩を叩いて起こす?」
「……しません」
「なぜ?」
「……お父様が、可哀想だから」
「ええ」
コルネリアは、頷いた。
「ペッピーノも、プルーにとって、『お父様のようなもの』なの」
「……」
「三十年、この家のお料理を守ってきた、おじいさんなのよ」
プルデンティアの、プラチナブロンドの頭が、下を向いた。
スプーンを握る、小さな手が、震えていた。
「……」
「プルー」
「……はい」
「お母様はね、プルーを、叱っているのではないの」
「……」
「ただ、教えたいの。プルーが見えていないものを」
コルネリアは、手を伸ばして、娘の頬を、そっと、撫でた。
「プルーは、とても、賢い子よ。だから、すぐ、分かる」
「……はい」
「今日、ペッピーノに、ありがとうを言いに行きましょう」
「……はい」
「何のありがとう?」
「……ケーキを、作ってくれて」
「それと?」
「……」
プルデンティアは、ちょっと、考えた。
それから、小さく、言った。
「……眠い時に、起きてくれて、ありがとう」
コルネリアは、微笑んだ。
母の微笑みが、娘の頬に、降りた。
プルデンティアの椅子の下で、幼い影が、そっと、母の影の方へ、寄った。
本人は、それに気づいていなかった。




