第1話 弁護士、説得に失敗する
「——つまり、あなたの主張は、こういうことになりますね」
静かな声が、法廷に響いた。
東京地方裁判所、民事第七二部。傍聴席はまばらだった。離婚後の財産分与を巡る地味な係争で、世間の関心を引くような要素は何もない。ただ、原告代理人席に座る小柄な女性弁護士の声だけが、妙に通る。
「『妻が家事育児に専念していた十五年間、自分は一人で会社を築き上げた』——被告本人の陳述書、三頁二行目です」
城山律子。四十三歳。中堅弁護士事務所のパートナー。地味な紺のスーツに、化粧気のない顔。細いフレームの銀縁の眼鏡。残念ながら年齢より少し老けて見える。
被告席の男は、ふんぞり返っていた。不動産会社の社長で、長年連れ添った妻を追い出そうとしている男だった。顔の血色が良く、仕立ての良いスーツを着て、腕時計だけでも律子の年収を超えるだろう。
「——では、お伺いします」
律子は眼鏡を指で押し上げてから、書類を一枚めくった。指の動きが、妙にゆっくりしている。
「被告は、令和二年から令和四年の三年間で計二十二回、妻である原告を同伴して取引先との会食に臨んでおられますね。会社経費として精算されていますし、当事者間に争いはない」
「……それが何だ」
「さらに、令和三年の社員旅行では、原告が新入社員の世話を一手に引き受けておられます。幹事の橋本氏の陳述書、乙第十二号証です。橋本氏いわく、『奥様がいらっしゃらなければ、研修はあれほど成功しなかった』『新入社員たちの気持ちを一瞬に掴んだ』とも」
被告の弁護士が、何か言おうとして口を開けた。律子は、そちらを見もしなかった。
「異議があるなら、後でお聞きします」
冷たく突き放すのではなく、むしろ、穏やかな声で言う。
「もう少しだけ、続けさせてください。——被告は、こうもおっしゃっている。『妻は、会社のことを何一つ分かっていなかった』。陳述書、五頁七行目」
律子は、ようやく被告を見た。
「分かっていない人間を、大口顧客との会食に、二十二回連れていかれましたか?」
「……」
「分かっていない人間に、新入社員の研修を、一任されましたか?」
「……」
「被告は、妻の貢献を、矛盾する二つの方向から評価しておられる。社外に見せる時は『会社を代表する夫人』として、法廷では『何もしていない妻』として。——それであれば、どちらか一方が、嘘です」
律子は、書類を閉じた。それだけの動作が、なぜか、法廷の空気を重くした。
「裁判官。原告は、この十五年間、夫の会社の共同運営者として機能していた。労働の対価としての財産分与請求は、単なる夫婦の話ではなく、事実上の共同事業体の清算の問題です」
律子は座った。ゆっくり、静かに。
被告の弁護士が、慌てて反論を始めた。だが、その論拠はすでに崩れていた。矛盾を突かれた陳述書を、今さら修正することはできない。
傍聴席で、何人かが小さく息を吐いた。
◇
閉廷後、裁判所の廊下に研修生たちの声で溢れていた。
「いやぁ、今日の城山先生、良かったなぁ」
「ほんと。矛盾を突くのが上手いっていうか……こう、じわじわ追い詰めるの」
修習生たちが、給水機の前に集まっている。
「見た目は本当に地味な人なのに」
「地味っていうか、疲れてる感じあるよな。いつも同じようなスーツだし」
「あの人、独身だって」
「へえ」
「事務所でも、愛想ないって有名。でも仕事は良く出来る」
「見た目で損してるよね」
「うん」
廊下の向こうで、当の律子は、依頼人の女性に深く頭を下げられていた。多くを語らず、律子はただ、「お疲れさまでした」とだけ言った。
化粧っ気のない顔に、ほんの少しだけ、不器用な微笑みが浮かぶ。
依頼人は、涙ぐんだまま、何度も頷いていた。
◇
午後七時過ぎ。
律子のマンションは、JR中央線の駅から徒歩十五分の、古いファミリータイプの一室だった。一人で住むには広い。購入時の判断を、最近少し後悔している。
帰宅するなり、律子はスーツを脱ぎ、Tシャツとスウェットに着替えた。化粧は元からしていないので、落とす手間もない。
冷蔵庫から缶ビールを出し、プルタブを引く。シュッ、と音が鳴る。
「……はー」
深いため息。
それから、リビングの一角にある、壁一面の書棚の前に立った。
——壁一面。本当に、壁一面。
天井近くまであるスチールラックに、乙女ゲームのパッケージが、ずらりと並んでいる。新作、旧作、限定版、通常版、移植版、ファンディスク。ざっと見て、百五十本はある。整理番号入りのスプレッドシートで管理している。これが、律子が絶対に他人に明かさない趣味だ。
「今日はどれにしようかな……」
指が、一本のパッケージの前で止まる。『薔薇の宮殿と七つの誓い〜運命の婚約者編〜』。
つい先週、コンプリートしたはずだった。だが、ネット情報からルートを一つだけ攻略し損ねていたことが分かった。騎士団長ルート。キラリと眼鏡が光った。
「あれを……攻略するか」
律子は、ディスクを本体に差し込んだ。大画面テレビは、この部屋のもう一つの贅沢だった。オープニング曲が流れ始める。美麗なグラフィック。イケメンだらけの立ち絵。
ソファに座り、缶ビールを一口。
『——私の名はセレスティア。由緒正しき侯爵家の令嬢にして、第一王子の婚約者。ですが、私はある事実を隠していました。前世は、平凡な女子高生だった、ということを——』
「……また転生か」
律子は呟いた。
乙女ゲームのヒロインは、よく転生する。それほど現世に希望が持てないのか…。そうなのかも知れない。
『セレスティア様、今夜はどうしても……あなたにお伝えしたいことがあるのです』
画面の中で、騎士団長が片膝をついた。
律子は、背筋をすっと伸ばした。
「……」
「その前に」
律子の声が、画面に向かって、低く響いた。
「セレスティア嬢と王子の婚約は、王家と侯爵家の、双方の家長の合意によって成立している。騎士団長の一存で覆すものではない。あなたの家柄で、婚約解消の違約金は賠償できるのか? しかも君、彼女の従兄だろう。民法七百三十四条、近親婚の禁止——」
「……じゃないここは中世ファンタジー世界か。近親婚禁止規定はないかもしれない」
律子は、缶ビールを一口飲んだ。
「いや、しかしだ。宗教法上の血族婚禁止は、どの文化圏にもほぼ普遍的に存在するはずだ。つまり、このルートに進むには、まず宗教審問庁との交渉が——」
『セレスティア様……私は、あなたを……』
「だから待て。感情論に走るな。まず契約の問題を整理しろ」
テレビに向かって、律子は法廷と同じ語調で話しかけていた。缶ビールを持ったまま。Tシャツとスウェット姿で。
誰にも言えない、誰にも見せられない、律子の夜だった。
「可愛げがない」と言われ続けた幼少期。妹ばかり可愛がった母。法律を選んだのは、美しさで人を判定しない世界だったからだ。
そして乙女ゲームは——判定されない側から、判定の仕組みそのものを楽しむ、ささやかな復讐だった。
この行為に、どうしてそこまで惹かれるのか。自分でも、よく分からない。
画面の中では、騎士団長が律子の反論を無視して、愛を語り続けていた。
◇
夜、十一時。
『薔薇の宮殿』騎士団長ルート、中盤の婚約解消裁判シーンで律子は一旦セーブした。
相手弁護士の尋問が雑すぎて、ツッコミ過多で喉が渇いた。お腹も減って来た。
「……肉まん食べたい」
不意に、そう思った。
缶コーヒーと、肉まん。
律子の中で、この二つの組み合わせは、ほとんど儀式のようなものだった。
司法修習生時代、夜中まで議論して、一緒にコンビニに寄った男がいた。対等に法律の話ができる数少ない同期。気が合うと分かっていたのに、律子は一歩を踏み出せなかった。「私なんかが」と思っていた。彼も踏み出さなかった。彼は後に、別の——活発で、自分を信じる力を持った——女性と結婚した。
同じチェーンのコンビニに、律子は今も、時々寄る。
肉まんと缶コーヒー。並んで買って、並んで食べた、あの夜の。
律子は、スウェットの上にパーカーを羽織って、外に出た。
◇
コンビニは、マンションから徒歩三分のところにあった。
白い蛍光灯の光が、夜の歩道にこぼれている。自動ドアの前に立つと、聞き慣れた電子音が鳴った。
店内は、客がまばらだった。
レジに、若い女性アルバイトが一人。二十歳くらいか。褐色の肌。名札に『フェルナンデス』とある。
お菓子コーナーに、小学生の男の子を連れた母親。男の子は、大きなリュックサックを背負い、何かの教材を抱えていた。こんな遅くに塾帰りだろうか。母親は明るい声で話しかけている。
飲料の冷蔵棚の前に、高校生くらいのカップル。男子は背が高く、女子は少しおどけた顔で飲み物を選んでいた。二人とも、笑っていた。眩しいほどに。
「…………」
律子は、一瞬、立ち止まった。
眩しいカップル。二十年前、並んで肉まんを買った夜の、あの光景に——重なる。
律子は頭を振って、カウンターに向かった。
「肉まんを一つと——」
ピザまん、あんまん、カレーまん。今日はどうしよう。
迷ったものの、結局、肉まんを一つだけ頼んだ。二十年前と、同じように。
紙の包みに入った肉まんを受け取り、レジ横の保温ケースから缶コーヒーを取る。ブラック、微糖、ミルク多め…。微糖を選んだ。
会計を済ませて、律子は外に出た。
自動ドアの横には、小さなベンチがある。律子はそこに腰を下ろし、肉まんの包みを開いた。湯気が立ち上がる。白い、柔らかい皮。一口食べた。少し眼鏡が曇った。
「……美味しい」
小声で呟いた。
缶コーヒーのプルタブを引く。シュッ、と音が鳴る。
夜の道路に、車のヘッドライトが流れていく。月は見えない。雲が厚い。明日は雨かもしれない。
肉まんを、ゆっくり咀嚼する。
二十年前の夜と、同じ味だ。
◇
肉まんを半分ほど食べた時、店の中で、何かが動いた。
律子は、はじめ、何が起きているのか分からなかった。
ガラス越しの店内で、高校生カップルの女子が、こちらを見ていた。顔が、凍りついている。
——なぜ?
レジの方向に目をやって、律子の思考が止まった。
一人の男が、レジの前に立っていた。黒いパーカーのフードを深く被り、右手に、ナイフを握っていた。折り畳み式の、サバイバルナイフ。刃渡り、おそらく十センチ以上。
アルバイトのフェルナンデスが、両手を挙げ、派手な悲鳴をあげた。
小学生を連れた母親は、お菓子コーナーで立ち尽くしていた。男の子の肩を、震える手で押さえていた。
高校生カップルは、冷蔵棚の陰に、身を隠そうとしているが、そんなスペースは無い。
「…………」
律子の頭の中で、何かが素早く働いた。
——通報? 無理。男は、すでにレジの真後ろまで移動している。誰かが電話を取った瞬間、人質が取られる。
——逃げる? 無理。店内の四人は、非常口までの動線を、男に遮られている。
——待つ? 男の様子を見ろ。
律子は、ガラス越しに男の挙動を観察した。
右手のナイフ、震えている。フードの下の目、落ち着きなく動いている。この男は、プロではない。場慣れしていない。追い詰められた人だ。
プロじゃない強盗は、逆に怖い。パニックで刺す。
律子の手の中で、缶コーヒーが、微かに震えた。
——十五年、家事事件ばかり担当してきた。
離婚調停で、暴力夫と対峙した回数。相続争いで、殺すか殺されるか、と叫ぶ兄弟の間に割って入った回数。そのたびに、律子は、ただ一つの方法で収めてきた。論理で話す。感情で返さない。利害を冷たく計算して提示する。
「——私を刺して刑務所を出た時、あんたは幾つだ」
ある刑事弁護士から教わった言葉が、律子の頭をよぎった。
律子は、缶コーヒーを、ベンチの上に置いた。
肉まんの紙袋は、隣に畳んで置いた。
立ち上がった。
自動ドアに向かって、歩いた。
ドアが、開いた。
電子音が鳴った。
「……あの」
律子は、できる限り、落ち着いた声で言った。
強盗が、弾かれたように振り向いた。
ナイフの切っ先が、律子に向いた。
「こ、こっちに来るな!」
声が裏返っていた。二十代前半か。
「はい。行きません」
律子は、入口のところで立ち止まった。両手を、肩の高さに上げた。
「私は弁護士です。城山といいます」
「……は?」
「弁護士です」
律子は、もう一度、同じ言葉を繰り返した。
「聞いてください。少しだけ、話をさせてください。あなたにも良い話です」
男は、混乱していた。強盗相手に、弁護士を名乗る女が現れるなど、想定していない。
律子は、それを待った。相手の思考を、一瞬、宙に浮かせる。それが、話を聞かせるための最初の一手だった。
「……今、あなたが手にしているナイフ」
律子は、静かに言った。
「それが人に当たっていなければ、ぎりぎり、強盗罪です。刑法二百三十六条。懲役五年以上。ただし、初犯で、計画性が低く、被害額が小さく、反省が認められれば——執行猶予の可能性があります」
「…………」
「でも、もしそれが、人に当たれば——それだけで、罪名が変わります。強盗致傷。刑法二百四十条。無期、または、六年以上の懲役。執行猶予は、原則、つきません」
律子は、言葉を区切った。
「もしそれで人が死ねば、強盗致死。死刑、または、無期懲役です」
「……」
男の呼吸が、早くなっていた。ナイフを握る手に、汗が浮いている。
「あなたは、今、その分岐点にいます」
律子の声は、なお、静かだった。
「ナイフが人に触れるか、触れないか。その差で、あなたの人生は、十年か、四十年か、あるいは終わりか、が決まる。——今、ナイフを下ろしたら、最も軽い分岐に乗れる。下ろすなら、最適のタイミングです」
「……うるせえ」
男の声は、かすれていた。
「うるせえ……お前に、何が分かる……」
「何も分かりません」
律子は、即答した。
「あなたが、どうしてここに来たのかも、知りません。でも、一つだけ、分かります。——あなた、そのナイフ、人を刺したことは、ないですね」
「……っ」
「握り方で分かります。刃を上にしないで、下にしている。ナイフは、人を刺すには、刃を上に向けた方がいい。あなたはそれを知らない。もしくは、知っていても、そうしたくない」
律子は、ゆっくり、一歩、店内に入った。男のナイフの切っ先から、二メートル。
「このまま、刺すことなく、ナイフを下ろせば。私が、良い弁護人を紹介します」
「……あ?」
「私は目撃者なのであなたを弁護できませんが、国選でなく、私選で。報酬は、私が払います」
律子は、半歩、近づいた。
「聞いてください。私は、家事事件の弁護士です。離婚と、相続と、DVの被害者と、加害者を、たくさん見てきた。みんな、最初は、どうしようもなくなってここにいる、と言いました。——でも、どうしようもなかった人は、一人もいなかった。必ず、選べる道が、複数、残っていた」
男の手が、わずかに、下がった。
——来た。
律子は、無数の調停の場で見てきた、相手が折れる直前の揺らぎを、確信した。
店の奥の方で、小さな足音が聞こえた。
振り向かなかった。だが、見えなくとも、分かった。高校生カップルが、非常口の方へ、移動している。アルバイトのフェルナンデスが、親子連れの手を、取った。四人が、動いている。非常口へ。
律子は、男の目だけを見ていた。
「ナイフを、下ろしてください」
律子は言った。
「下ろすなら、今しか、ない」
男の手が、もう少し、下がった。
ナイフの切っ先が、床を向いた。
——よっしゃ。
律子の頭の片隅で、自分らしくない歓声が上がった。十五年の調停経験。完璧な論陣。完璧な説得——
次の瞬間、律子の腹部に、熱いものが、押し込まれた。
◇
「……あれ?」
律子は、自分の声に、自分で驚いた。
男の目は、驚いたように、見開かれていた。男自身も、自分の手が何をしたのか、理解していない顔だった。
ナイフは、すでに抜かれていた。床に落ちて、乾いた音を立てた。男は、一歩、二歩、後ずさった。そして、走って、店を出て行った。
律子は、床に、膝をついた。
——論理は、通っていた。
——相手も、理解していた、はずだった。
——だが、刺された。
十五年以上、律子が積み上げてきた「理性に訴えれば、人は動く」という信念が、静かに、膝の下に、崩れ落ちていくのを感じた。
温かいものが、Tシャツに、広がっていた。
視界が、少しずつ、白く、霞んでいく。
——非常口の方を、律子は、ぼんやりと見た。
開いていた。
アルバイトのフェルナンデスが、親子連れの手を引いて、走って出ていく姿が見えた。高校生カップルも、一緒に。女子の方が、一瞬だけ、振り返った。泣きそうな顔で。
四人が、生きて、ここを出ていく。
それで、いい。
——眩しいカップル。
二十年前の夜の、肉まんの湯気と、缶コーヒーの湿気と、並んで歩いた舗道の、あの微かな手の甲の距離。彼が別の女性と結婚したと聞いた同期会の、一瞬の痛み。
踏み出せなかった私が、最後に、眩しい二人を、非常口の向こうに送り出す。
——まあ、それも、いいか。
律子の頭の中で、声が、静かに重なっていった。
「人を守るのが——弁護士だ」
心の中で、呟いた。呟く必要すら、本当はなかった。前に出た。説得した。守った。それだけが、答えだった。
律子は、床に、ゆっくりと、倒れた。眼鏡が床に落ちる。
肉まんの紙袋が、外のベンチに、置いたままだ。
缶コーヒー、飲み残した。もったいない。
視界が、さらに、白く、霞む。
——そういえば。
律子の頭の中に、最後の懸念が、ふと浮かんだ。
「…………家の、本棚、誰か、片付けて」
乙女ゲーム、百五十本。
親戚が来る。葬式の準備で、部屋に入る。叔母あたりが、絶対、あの棚を見る。
「……ちょっと、勘弁して」
律子は、床に倒れたまま、小さく呟いた。
「ほんとに、勘弁して……」
意識が、薄れていく。
——でも。
肉まん、美味しかった。
四人、逃げた。
まあ。
——悪くない。
◇
視界の白さが、光の粒に、変わった。
——あれ? コンビニの、蛍光灯?
律子は、ぼんやり、思った。違う。コンビニの蛍光灯は、こんなに、柔らかくない。
光の粒が、舞っている。淡い金色の。ふわふわと、まるで、何かに応えるように。
律子の周りで、たくさんの小さなものが、踊っていた。形はよく見えない。羽が生えている気もするし、花びらのようにも見える。ただ、全てが光っていた。
「……これ、何?」
律子は、声に出してみた。声が、反響しない。体の感覚が、ない。
乙女ゲームの、プロローグみたいだった。
光の演出。舞う精霊たち。主人公の周囲で、世界が変容していく——
「……え、天国って」
律子は、思わず呟いた。
「こんなに、インタラクティブなの?」
誰か、ツッコミを入れてほしかった。だが、周りには、光る何かしか、いなかった。
律子は、少し、笑った。
最後の最後まで、乙女ゲームの文法でしか、世界を見られない自分が、何だか、愛おしいような、情けないような、複雑な気持ちになった。
光が、強くなる。
律子の意識が、光の粒の中に、溶けていく。
——どこかで。
「——おぎゃあ」
赤子の、泣き声が、聞こえた。
高くて、細くて、まだ息継ぎもうまくできない、新しい生き物の、泣き声。
「……あれ」
律子は、最後に、呟いた。
「天国、なのに、赤ちゃんの声……?」
答えは、なかった。
光が、律子を、飲み込んだ。




