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悪役令嬢の幸福論 ~異世界のリーガルロマンス~  作者: 木霊裕一郎
セルヴィア・法曹予備学院編
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第79話 侯爵令嬢、旅立つ


 翌朝。


 律子は、いつもより、早く、目が覚めた。


 カーテンを、開けた。朝の光が、床に、長方形に、落ちた。


 その光の中に、立った。


 足元に、影が、伸びた。朝の、細く長い影だった。


 律子は、その場に、しゃがんだ。自分の影と、目の高さを、合わせるように。


「——おはよう」


 影は、静かに、していた。


「——ごめんなさい」


 律子は、言った。


「あなたは、ずっと、言っていたのね」


 髪を梳かれた、あの夕方。部屋の隅へ、細く逃げた影。


 薔薇の庭の、あの夕暮れ。彼女から、離れる方へ伸びた影。


 玄関の、あの夜。いつもより近く、足に、寄り添った影。


「三回。——いいえ、きっと、もっと。あなたは、ずっと、教えてくれていた。それなのに私が、見なかった」


 影は、動かなかった。


「人見知り、なんて、言って、ごめんなさい。無理やり、あの人を、写しに行かせて、——ごめんなさい」


 律子は、床の影に、指先で、触れた。冷たい床の、温度しか、しなかった。それでも、触れた。


「約束するわ」


「これからは、毎朝、あなたを、見ます。濃いか、薄いか。元気か、疲れているか。——あなたが何かを言う時、ちゃんと、聞きます」


 朝の光の中で、影が、——すこし、動いた。


 伸びた影の先が、ゆっくりと、丸くなって、——長い耳が、二本、立った。


 小さな、ウサギだった。


 得意げでもなく、食いしん坊でもない、朝の光の中の、静かな一羽だった。


「——ふふ」


 律子は、笑った。


「ええ。——仲直り、ね」


 その朝から、律子の一日は、影を見ることから、始まるようになった。


 目録の、新しい頁の、一番上に、律子は、書いた。


 「毎朝:影の濃さを、確認すること(約束)」


 ◇


 午後、律子は、マルチェッラを、自室に、呼んだ。


「約束した通り、話すわ」


「はい」


「座って、ちょうだい」


 マルチェッラは、一瞬、ためらって、それから、椅子の端に、腰掛けた。律子の部屋で、この人が座るのを、律子は、初めて見た。


「クレメンティア様は、——本物のクレメンティア様では、なかったの」


 律子は、順を追って、話した。置換魔法のこと。身体は本物で、中身が別人だったこと。狙いが、律子自身だったこと。魔法は失敗して、術者は逃げたこと。今、二階にいるのが、本物のクレメンティア様であること。


 名前の耐性のことは、話さなかった。お母さまの網のことも、前世のことも。


 ……ここまでが、この人の安全に、必要な分。

 ……ここから先は、この人を、危険にする分。


 マルチェッラは、最後まで、口を、挟まなかった。


 聞き終えて、彼女が、最初に言ったのは、これだった。


「——服飾では、見抜けない敵が、いる、ということで、ございますね」


「——ええ。そういうこと」


「では、検分の基準を、変えます」


 マルチェッラは、既に、実務の顔に、なっていた。


「所作と、お召し物は、身体に付くもの。あれは、もう、当てになりません。——代わりに、言葉の中身を、見ます。その方しか知らないはずのことを、折々に、お尋ねする形で」


「——マルチェッラ」


「はい」


「あなた、優秀だわ」


「五十年、人様を、見て参りましたから」


 マルチェッラは、澄まして、言った。それから、少しだけ、目を、伏せた。


「——七分の間、目を離しました。あの七分が、なければ、と、思っておりました。ですが、お嬢様のお話ですと、あの七分が、あってもなくても、あの方の狙いは、変わらなかった」


「変わらなかったわ。あなたの七分は、——むしろ、証拠になった。あなたが、正確に、憶えていたから」


「——」


「憶えているのが、あなたの務め、なのでしょう?」


 マルチェッラは、顔を上げて、——ほんの少しだけ、口の端を、上げた。写しの紙の中の、あの口元だった。


「はい、お嬢様」


 ◇


 ジーナには、庭で、話した。


「悪い魔法使いが、クレメンティア様の振りを、していたの。正体がばれて、逃げたわ。本物のクレメンティア様は、ご病気だから、領地にお帰りになる。——それだけよ。もう、大丈夫」


「——魔法使い」


 ジーナの手が、エプロンの端を、握った。


 自分が、ガリーブという男と置換された記憶が、彼女の中にはある。それが、律子には、見えた。中庭にいたはずが、知らない部屋にいた、あの日の記憶が。


 律子は、それには、触れなかった。代わりに、言った。


「アウレリオが、追い払ったの。あの人、強いのよ。二丁拳銃で」


「——見たかったです、それ」


「格好良かったわよ」


「ずるいです。わたし、厨房で、芋を剥いてました」


「ペッピーノのお芋も、大事な任務よ」


「そうですけど!」


 ジーナは、頬を、膨らませた。それから、膨らませたまま、ぽつりと、言った。


「——お嬢様が、ご無事で、良かったです」


「ええ」


「アルカディアでは、わたし、目を離しませんから。お嬢様から、一分も」


「あら。お手洗いは?」


「——三分だけ、離れます」


 二人は、笑った。庭の白薔薇の上を、春の終わりの風が、渡っていった。


 ◇


 出発の朝が、来た。


 玄関の前に、馬車が、二台。荷物の馬車と、人の馬車。


 使用人たちが、並んだ。


 ペッピーノが、進み出て、大きな包みを、三つ、ジーナに、押し付けた。


「街道の三日分です。上から順に、お食べください。一番下のは、日持ちします」


「三日で、こんなに!?」


「足りなかったら、私の恥です」


 ロドリゴは、馬車の馬の、鼻面を、撫でていた。それから、律子に、深く、頭を下げた。何も、言わなかった。言わないのが、この人の言葉だった。


 マルチェッラが、最後に、進み出た。


「お嬢様。——行ってらっしゃいませ」


「行って参ります、マルチェッラ。——家を、お願いね」


「はい。それから、これを」


 マルチェッラは、小さな包みを、差し出した。開けると、——付箋の束だった。蜜蝋の、新しい旗。赤と、青。


「ジーナと、練りました。向こうで、切らしたら、いけませんので」


「——」


「学問の、お道具で、ございましょう?」


「——ええ。とても、大事な、お道具よ」


 律子は、包みを、胸に、当てた。


 ……学問の道具で。

 ……お母さまの作った網の、鍵。

 ……知らないまま、この人は、鍵の予備を、作ってくれた。


「ありがとう。——大事に、使うわ」


 お父さまは、玄関の階段の上に、立っていた。


 律子は、階段を、上がった。令嬢の礼を、した。


「行って参ります、お父さま」


「……うむ」


 いつもの、「うむ」だった。


 律子が、身を、翻しかけた時、——


「プリュ」


「はい」


「——手紙を」


 お父さまは、それだけ、言った。


「書きます。うんと、長いのを」


「——長くなくて、いい。着いた、と、一行あれば」


「長いのを、書きます」


「——うむ」


 お父さまの「うむ」が、少しだけ、湿っていた。


 律子は、階段を、降りた。


 庭の前を、通る時、白薔薇の前で、一度だけ、足を、止めた。


 ……お母さま。行って参ります。

 ……今度は、少し、長い旅です。

 ……お母さまの網は、本の森に、置いていきます。誰にも、破れません。


 ……あちらで、弁護士に、なって参ります。


 薔薇は、朝の風に、揺れた。


 ◇


 馬車が、動き出した。


 ジーナが、窓から、身を乗り出して、いつまでも、手を振っていた。並んで走る馬の上で、アウレリオが、無言で、街道の先を、見ていた。


 律子は、座席に、深く、座った。


 膝の上に、旅行鞄。鞄の中に、目録と、『地図』の帳面と、付箋の束と、——アルバム。


 写しの紙の、束。お父さま。マルチェッラ。ロドリゴ。メイドたち。ペッピーノ。白薔薇。


 一番下に、一枚だけ、二つの顔の写った紙も、入っていた。


 ……忘れないためのアルバムに、忘れてはいけない一枚。


 律子は、鞄の上に、手を、置いた。


 鞄の中には、殿下からの、最新の手紙も、入っていた。学府にて、お待ち申し上げる、と、あった。その後に、馬場の話が、二頁。

 

 ……そういえば。

 ……殿下のお側だと、あなた、いつも、静かになるのよね。

 ……あちらに行ったら、お側にいる時間が、増えるわ。——毎朝、ちゃんと、見ていてあげないと。


 朝の光が、馬車の床に、差し込んでいた。


 その光の中に、律子の影が、濃く、はっきりと、落ちていた。


 ……濃さ、良し。

 ……行きましょうか。


 馬車は、街道を、——東へ、走っていった。


 東の果てには、学府の都と、評議会の塔と、——古い古書店で待つ、手だけが若い紳士が、いた。


 律子は、まだ、そのことを、知らなかった。


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