第78話 侯爵令嬢、父と語る
「——ここは、——どこ?」
書斎の中で、誰も、すぐには、答えられなかった。
女性は、アウレリオの腕の中で、震えていた。さっきまで、乾いた声で笑っていた身体が、今は、小さく、縮こまっている。
律子が、最初に、動いた。
「アウレリオ。——手を、離して。ゆっくり」
アウレリオが、支えは、残したまま、腕を、解いた。
律子は、女性の前に、膝を、折った。目の高さを、合わせた。
……ゆっくり。大きな声を、出さない。
……怯えている人への、最初の三十秒が、全部を決める。
前世で、何十回もやった。夫から逃げてきた人。記憶の混乱した、お年寄り。事務所の相談室で、目の高さを合わせて、最初に言う言葉は、いつも、決まっていた。
「——もう、大丈夫ですわ」
律子は、静かに、言った。
「ここは、セヴェリーニ侯爵の屋敷です。あなたは、お客様として、いらしています。誰も、あなたを、傷つけません」
女性の目が、律子を、見た。
琥珀色の、濁った、優しい目だった。四か月間、この屋敷で笑っていた目と、同じ色だが、——それは全く、別の目だった。
「——セヴェリーニ、——」
「ええ」
「——あの、——私、——」
女性は、自分の手を、見た。自分のドレスを、見た。灰青の、上等なドレスを。
「——おかしいの。——私、療養所に、いたはずなの。——領地の。——窓の外に、糸杉が、あって——」
「ええ」
「——それから、——暗い、お部屋にいた気がするの。——ずっと。——夢かしら」
「——」
「——ねえ、」
女性は、律子の袖に、そっと、触れた。
「——主人は? ——主人を、呼んでくださいな。パピニアーニが、参りますから。あの人が来れば、全部、分かりますから」
部屋が、静かになった。
卓の上に、判事の判例集が、開いたまま、あった。
お父さまが、目を、伏せた。
律子は、女性の手を、両手で、包んだ。冷たい手だった。
「——ええ。今は、お疲れでしょうから、まず、お休みになって。温かいものを、お持ちしますわ」
「——そう? ——そうね。——なんだか、とても、眠いの」
女性は、素直に、頷いた。
律子は、扉の外に、控えていたマルチェッラを、呼んだ。マルチェッラは、一目で、状況の温度を、読んだ。何も聞かずに、女性の肩を、抱いた。
「さ、お客様。良いお部屋が、ございますよ」
二人が、出ていった。
律子は、閉まった扉を、見ていた。
……若年性の、認知症。
……見当識の混乱。近い記憶から、崩れていく。ご主人の死は、——たぶん、もう、あの方の中に、ない。
……修習の時の、あの事件。
……認知症になった奥様を見かねて、手にかけた旦那さん。あの人は、愛が理由で、罪になった。
……この人は。
……判断の力を失くした人の身体を、道具として、使われた。屋敷を探り、私を誘拐するため。
……でも、犯人は罪に、——ならない。今の法律では、罪の名前すら、ない。
律子は、床を、見た。
白いハンカチと、髪の包みが、落ちたままだった。
律子は、それを、拾った。暖炉に、火が、残っていた。
白い布が、火の中で、めくれて、黒くなって、——消えた。プラチナブロンドの髪が、一瞬だけ、金色に光って、燃えた。
「怪我をした方に、洗い物をさせる母親が、どこにいて?」
あの声を、思い出した。
律子は、火が消えるまで、暖炉の前に、立っていた。
◇
医師が、呼ばれた。
診立ては、短かった。お若いのに、物忘れの病が進んでおられます、と言った。お身体は、健やか。安静と、見知った場所での療養が必要。
……見知った場所。
律子は、夜のうちに、手紙を書いた。パピニアーニ家の領地の、療養所へ。病状が、また、重くなられたこと。数日中に、お送りすること。道中の付き添いは、こちらで、立てること。
そして、目録を開いた。
あの女が、どこの誰なのか。石の壁の、暗い部屋が、どこなのか。糸口は、燃やしたハンカチと一緒に、消えていた。
……いいえ。
……消えては、いないわ。
……「報告させていただくわ」と、言った。
……つまり、報告する相手がいる。あの女は、道具で、——道具を使う手が、別に、ある。
……お母さまの時と、同じ手。
律子は、目録に、書いた。
「置換術者(女・正体不明):逃走。組織への報告を予告。——敵は、私を『危険』と分類した」
その一行を、しばらく、見た。
……結構よ。
……危険で。
◇
夜、遅く。
書斎の扉を、律子は、叩いた。
「お父さま。——まだ、起きていらっしゃいますか」
「——入りなさい」
書斎は、片付いていた。倒れた椅子は、起こされ、茶器は、下げられていた。
ただ、卓の上の判例集だけが、開いたまま、だった。
お父さまは、その前に、座っていた。読んでは、いなかった。
「プリュ。——座りなさい」
律子は、座った。
しばらく、二人とも、黙っていた。暖炉の火が、小さく、鳴った。
「——あの方は」
お父さまが、先に、口を、開いた。
「休まれました。マルチェッラが、付いています。——数日、養生していただいて、領地の療養所へ、お送りします。手配は、済ませました」
「——そうか」
「お医者さまは、お身体は健やかだと。ただ、——お心の方は、お戻りに、ならないだろうと」
「——」
お父さまは、判例集の頁に、目を、落とした。
「——四か月」
低い声だった。
「四か月、私は、——偽物と、笑っていた」
「お父さま」
「判例の話が、合った。あれほど、話の合う人は、コルネリアの他に、いなかった。——当然だ。合わせて、いたのだから」
「お父さま。あれは——」
「分かっている」
お父さまは、手を、上げた。律子の言葉を、静かに、止めた。
「分かっている、プリュ。敵が、それだけの、備えをしてきた、ということだ。マルチェッラも、お前も、検分をした。誰にも、見抜けなかった。——分かっている」
「——」
「分かっていて、——恥じている。それは、両立するのだ」
律子は、何も、言えなかった。
……ええ、お父さま。
……両立します。私も、知っています。
……私も、あの方に、髪を、梳いていただきました。
……心の中で、——お母さま、と、呼びました。
それは、言わなかった。代わりに、律子は、別のことを、言った。
「——私も、あの方が、好きでした」
お父さまが、顔を、上げた。
「偽物の演じた、偽物の優しさでした。でも、私が温かいと感じたことまでは、——偽物に、できません。感じたのは、私ですから」
「——」
「だから、悔しいのです。騙されたことより、——あの温かさの使い道の方が」
お父さまは、長いこと、律子を、見ていた。
それから、ぽつりと、言った。
「——お前は、時々、コルネリアの言いそうなことを、言う」
「——あら」
「褒めている」
「——はい」
暖炉の火が、また、鳴った。
お父さまは、判例集を、——閉じた。
両手を、その上に、置いた。祈るような、形だった。
「プリュ」
「はい」
「私は、お前を、守りたかった」
とつとつと、言葉は、出てきた。四年前の、あの夜と、同じ話し方だった。
「守り方が、分からなかった。だから、黙って、固めた。婚約も、警備も、——全部、壁のつもりだった。壁の中で、お前が、息苦しかろうと、思いながら、それでも、壁を、選んだ」
「——」
「それが、昨日、——私の書斎で、私の招いた客に、お前は、さらわれかけた」
お父さまの手が、判例集の上で、固く、握られた。
「コルネリアに続いて、プリュ、——お前まで失ったら、私は、どうすれば良いのか、——分からん」
声の最後が、掠れた。
律子は、椅子から、立った。机を、回った。お父さまの、握られた手の上に、自分の手を、重ねた。
「失われません」
「——」
「昨日、ご覧に、なったでしょう。——私は、さらわれかけましたが、そうはなりませんでした」
「——あれは、——なぜだ」
来た。
律子は、答えを、用意していた。嘘のない答えを。
「分かりません。私にも、確かなことは」
「——」
「アルカディアの評議会に、魔法の登録があります。私の魔法を、調べていただけば、——何か、分かるかもしれません」
お父さまは、頷いた。それ以上、問わなかった。
この家の人たちは、問わない技術で、互いを守ってきた。その技術が、今夜も、使われた。
「——アルカディアに、行きなさい」
お父さまは、言った。
「予定通り。いや、——予定より、前倒しして行きなさい。公太子殿下の、お側は、この大陸で、一番、安全な場所だ」
「——はい」
「殿下が、お前を、守ってくださる。あの婚約には、——最初から、その意味も、あった」
律子は、お父さまの手の上の、自分の手を、見た。
……最初から、その意味も。
……「も」。
……お父さま。その「も」の中身を、私は、いつか、全部、伺いに参ります。
……今夜では、なく。
「はい、お父さま」
令嬢の返事だけを、律子は、した。
部屋を出る時、扉のところで、お父さまの声が、追ってきた。
「プリュ」
「はい」
「『ロンバルディの水車』は、——」
お父さまは、少しだけ、間を、置いた。
「——良い判決だった。実在すれば、の話だが」
律子は、振り返った。
お父さまは、笑っていなかった。でも、四年前より、笑うことに近い顔を、していた。
「ありがとうございます。——私も、そう思います」




