↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢の幸福論 ~異世界のリーガルロマンス~  作者: 木霊裕一郎
セルヴィア・法曹予備学院編
PR
77/121

第77話 侯爵令嬢、対決する


 長い、沈黙。


 それを、破ったのは、——笑い声だった。


 クレメンティアが、笑っていた。


 最初は、肩だけで。それから、声を、出して。


 声が、——変わっていた。


 柔らかい、婦人の声では、なかった。乾いた、低い、削げた声だった。同じ喉から、別の人間が、しゃべっていた。


「……ふ、ふふ。ふふふ」


 女は、笑いながら、目元を、拭った。その仕草だけが、まだ、クレメンティアの優しい仕草のままで、——それが、不気味な、違和感を生んでいた。


「存在しない判決。——ああ、おかしい。四か月も、掛けたのに。最後の最後で、そんな、子供だましに」


 女は、律子を、見た。


 落ち窪んだ目の光が、その目に、宿っていた。写しの紙の、あの目だった。


「——プルデンティア・セヴェリーニ」


 女は、言った。


「やはり、貴女は、危険だわ」


「——」


「あの方々の、仰る通り。論文を読んだ時から、分かっていたけれど。——貴女は、育ててはいけない種類の、人間」


「クレメンティア殿——いや、——貴様は」


 お父さまが、立ち上がった。椅子が、倒れた。


 同時に、アウレリオが、動いた。


 古式銃を抜くのと、撃鉄を起こすのは同時だった。狙いは、女の眉間に定められていた。


「アウレリオ!」


 律子の声が、飛んだ。


「撃っては駄目!」


 引き金を引く指が、その一瞬前で、——止まった。


 アウレリオは、約束を、守った。止まったまま、目だけで、律子に、問うた。


「——お嬢様」


「その身体を、傷つけては、駄目」


 律子は、一歩、前に、出た。


「この人の本体は、——ここには、いません」


「——!」


「あなたが今、撃とうとしているのは、クレメンティア様の、お身体です。身体を傷つけても、術者は、痛まない。死ぬのは、——人質の方です」


 アウレリオの銃口は、動かなかった。止まったまま、しかし、狙いをそらしもしなかった。判断の、拮抗だった。


 その、一瞬の、拮抗の隙に。


 女の手が、——袖に、入った。


 出てきた手に、二つのものが、あった。


 白い、ハンカチ。畳んだ内側に、茶色く変わった、染み。


 白い、懐紙の包み。開いて、こぼれたのは、——プラチナブロンドの、髪。


 律子の、息が、止まった。


 ……あれは。

 ……薔薇の日の。

 ……櫛の。


「動くな!」


 アウレリオが、叫んだ。


 遅かった。


 女の唇が、動いていた。


「——名を、以て、呼ぶ」


 乾いた声が、詠唱の律動に、なった。


「——血を、以て、指す。髪を、以て、結ぶ」


 ハンカチと、髪が、女の掌の上で、——鈍く、光り始めた。


「其の名、——プルデンティア・セヴェリーニ」


 世界が、——傾いた。


 ◇


 最初に来たのは、音だった。


 耳の奥で、何かが、ごうと、鳴った。書斎の音が、——お父さまの声も、アウレリオの怒号も、——分厚い水の向こうに、遠ざかった。


 次に、来たのは、——引く力だった。


 右半分が、引かれた。


 身体の右、ではない。もっと、内側の、右。自分という布の、右半分を、誰かが、掴んで、——強く、引いた。


 ……ああ。

 ……これ。

 ……これが、——置換される、感覚。


 視界が、割れた。書斎の景色の向こうに、別の景色が、透けた。石の壁。暗い部屋。蝋燭。——どこか、知らない場所が、こちらへ向かって、口を、開けていた。


 ……連れて、行かれる。

 ……ジーナも、こうやって。中庭から、一瞬で。

 ……もう、駄目——


 半身が、持ち上がった。


 プルデンティアが、持ち上がった。


 呼ばれた名前が、呼ばれた方へ、——引かれていった。


 なのに。


 ……あら。

 ……落ちない。


 布の、左半分が、——動いていなかった。


 引かれる右を、左が、掴んでいた。錨のように。根のように。呼ばれなかった半分が、呼ばれた半分を、この場所に、繋ぎ止めていた。


 ……どうして。

 ……名前と、血と、髪。三つ、揃っているのに。


 ……揃って、——いない。


 律子は、水の底で、目を、見開いた。


 ……名前が、——半分しか、呼ばれていない。

 ……プルデンティア・セヴェリーニは、私の、半分。

 ……もう半分は、——


 ……城山律子。


 ……あの女は、その名前を、知らない。

 ……この世界で、知っているのは、——キアラ、一人。

 ……当事者の特定に、空白がある。


 ……名義が半分の契約は、——完成しない。


 引く力が、——緩んだ。


 持ち上がった半身が、——ゆっくりと、下りてきた。


 左半分の上に、右半分が、重なった。ぴたりと、合わさった。四十三年と、十七年が、一つの場所に、戻った。


 書斎の音が、——戻ってきた。


 ◇


 女の顔から、笑みが、消えていた。


 掌の上のハンカチと髪は、まだ、光っていた。光ったまま、——何も、起きていなかった。


「……なぜ」


 女が、呟いた。


 女は、掌を、見た。素材を、見た。規定の量。正しい手順。二十年、しくじったことのない、仕事だった。


「なぜ、——発動、しない」


 律子は、まっすぐに、立っていた。


 膝の奥が、まだ、細かく、震えていた。半身を引かれた感覚が、皮膚の内側に、残っていた。


 ……仮説。まだ、仮説よ。

 ……でも、私は今、引かれて、——留まった。

 ……留めたのは、あの人が呼ばなかった、名前。


 律子は、右手の扇子を、——開いた。


 ぱん、と、乾いた音が、書斎に、鳴った。


 お母さまの、扇子だった。オリーブの枝と葉。平和と知恵を象徴する模様が広がった。


 開いた扇の上から、令嬢の目が、女を、見た。


「——無駄です」


 プルデンティア・セヴェリーニの声が、言った。


「私に、置換魔法は、効きません」


「——」


「二度やっても、十度やっても、同じことです。——その素材は、紙屑ですわ」


 嘘は、一つも、言っていなかった。


 理由だけを、言っていなかった。


 女の目に、初めて、——律子の知っている色が、浮かんだ。


 法廷で、何度も見た色。手持ちの札が、突然、全部、意味を失った人間の色。自分の理解の外で、何かが起きている、と悟った人間の色。


「——貴女、——何なの」


 女の声が、低くなった。


「置換の効かない人間なんて、——いるはずが」


「いましたわ。——ここに」


 その時、アウレリオが、動いた。


 銃をホルスターに収めた。一瞬で間合いに飛び込み、——素手で、女の両腕を、後ろに、取った。骨の軋む、正確な、制圧だった。素材の、ハンカチと髪が、床に、落ちた。


「確保、しました」


「——ええ」


 律子は、床の素材を、見た。拾おうと、一歩、出た。


 女が、——笑った。


 アウレリオに、両腕を、極められたまま。


「——ふふ」


「何が、おかしい」


「捕まえた、おつもり?」


 女は、律子を、見た。律子には本当の顔が見えたような気がした。落ち窪んだ目が、値踏みするように、見ている。


「プルデンティア・セヴェリーニ。——貴女のことは、報告させていただくわ。置換の効かない、危険な小娘が、いる、と」


「——」


「では、——ごきげんよう」


 女の唇が、短く、動いた。


 聞き取れない、二つか三つの、音だった。


 アウレリオの腕の中で、——女の身体から、力が、抜けた。


 糸の切れた、操り人形だった。がくりと、頭が、落ちた。アウレリオが、慌てて、抱きとめた。


 数秒。


 女の頭が、——のろのろと、上がった。


 目が、開いた。


 別の目だった。


 落ち窪んだ光は、消えていた。琥珀色の、しかし、濁って、怯えた、——病の人の目だった。


 その目が、書斎を、見回した。倒れた椅子。抜き身だった剣。自分の腕を、掴んでいる、知らない男。


 唇が、震えた。


「……ここは、——どこ?」 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。