第77話 侯爵令嬢、対決する
長い、沈黙。
それを、破ったのは、——笑い声だった。
クレメンティアが、笑っていた。
最初は、肩だけで。それから、声を、出して。
声が、——変わっていた。
柔らかい、婦人の声では、なかった。乾いた、低い、削げた声だった。同じ喉から、別の人間が、しゃべっていた。
「……ふ、ふふ。ふふふ」
女は、笑いながら、目元を、拭った。その仕草だけが、まだ、クレメンティアの優しい仕草のままで、——それが、不気味な、違和感を生んでいた。
「存在しない判決。——ああ、おかしい。四か月も、掛けたのに。最後の最後で、そんな、子供だましに」
女は、律子を、見た。
落ち窪んだ目の光が、その目に、宿っていた。写しの紙の、あの目だった。
「——プルデンティア・セヴェリーニ」
女は、言った。
「やはり、貴女は、危険だわ」
「——」
「あの方々の、仰る通り。論文を読んだ時から、分かっていたけれど。——貴女は、育ててはいけない種類の、人間」
「クレメンティア殿——いや、——貴様は」
お父さまが、立ち上がった。椅子が、倒れた。
同時に、アウレリオが、動いた。
古式銃を抜くのと、撃鉄を起こすのは同時だった。狙いは、女の眉間に定められていた。
「アウレリオ!」
律子の声が、飛んだ。
「撃っては駄目!」
引き金を引く指が、その一瞬前で、——止まった。
アウレリオは、約束を、守った。止まったまま、目だけで、律子に、問うた。
「——お嬢様」
「その身体を、傷つけては、駄目」
律子は、一歩、前に、出た。
「この人の本体は、——ここには、いません」
「——!」
「あなたが今、撃とうとしているのは、クレメンティア様の、お身体です。身体を傷つけても、術者は、痛まない。死ぬのは、——人質の方です」
アウレリオの銃口は、動かなかった。止まったまま、しかし、狙いをそらしもしなかった。判断の、拮抗だった。
その、一瞬の、拮抗の隙に。
女の手が、——袖に、入った。
出てきた手に、二つのものが、あった。
白い、ハンカチ。畳んだ内側に、茶色く変わった、染み。
白い、懐紙の包み。開いて、こぼれたのは、——プラチナブロンドの、髪。
律子の、息が、止まった。
……あれは。
……薔薇の日の。
……櫛の。
「動くな!」
アウレリオが、叫んだ。
遅かった。
女の唇が、動いていた。
「——名を、以て、呼ぶ」
乾いた声が、詠唱の律動に、なった。
「——血を、以て、指す。髪を、以て、結ぶ」
ハンカチと、髪が、女の掌の上で、——鈍く、光り始めた。
「其の名、——プルデンティア・セヴェリーニ」
世界が、——傾いた。
◇
最初に来たのは、音だった。
耳の奥で、何かが、ごうと、鳴った。書斎の音が、——お父さまの声も、アウレリオの怒号も、——分厚い水の向こうに、遠ざかった。
次に、来たのは、——引く力だった。
右半分が、引かれた。
身体の右、ではない。もっと、内側の、右。自分という布の、右半分を、誰かが、掴んで、——強く、引いた。
……ああ。
……これ。
……これが、——置換される、感覚。
視界が、割れた。書斎の景色の向こうに、別の景色が、透けた。石の壁。暗い部屋。蝋燭。——どこか、知らない場所が、こちらへ向かって、口を、開けていた。
……連れて、行かれる。
……ジーナも、こうやって。中庭から、一瞬で。
……もう、駄目——
半身が、持ち上がった。
プルデンティアが、持ち上がった。
呼ばれた名前が、呼ばれた方へ、——引かれていった。
なのに。
……あら。
……落ちない。
布の、左半分が、——動いていなかった。
引かれる右を、左が、掴んでいた。錨のように。根のように。呼ばれなかった半分が、呼ばれた半分を、この場所に、繋ぎ止めていた。
……どうして。
……名前と、血と、髪。三つ、揃っているのに。
……揃って、——いない。
律子は、水の底で、目を、見開いた。
……名前が、——半分しか、呼ばれていない。
……プルデンティア・セヴェリーニは、私の、半分。
……もう半分は、——
……城山律子。
……あの女は、その名前を、知らない。
……この世界で、知っているのは、——キアラ、一人。
……当事者の特定に、空白がある。
……名義が半分の契約は、——完成しない。
引く力が、——緩んだ。
持ち上がった半身が、——ゆっくりと、下りてきた。
左半分の上に、右半分が、重なった。ぴたりと、合わさった。四十三年と、十七年が、一つの場所に、戻った。
書斎の音が、——戻ってきた。
◇
女の顔から、笑みが、消えていた。
掌の上のハンカチと髪は、まだ、光っていた。光ったまま、——何も、起きていなかった。
「……なぜ」
女が、呟いた。
女は、掌を、見た。素材を、見た。規定の量。正しい手順。二十年、しくじったことのない、仕事だった。
「なぜ、——発動、しない」
律子は、まっすぐに、立っていた。
膝の奥が、まだ、細かく、震えていた。半身を引かれた感覚が、皮膚の内側に、残っていた。
……仮説。まだ、仮説よ。
……でも、私は今、引かれて、——留まった。
……留めたのは、あの人が呼ばなかった、名前。
律子は、右手の扇子を、——開いた。
ぱん、と、乾いた音が、書斎に、鳴った。
お母さまの、扇子だった。オリーブの枝と葉。平和と知恵を象徴する模様が広がった。
開いた扇の上から、令嬢の目が、女を、見た。
「——無駄です」
プルデンティア・セヴェリーニの声が、言った。
「私に、置換魔法は、効きません」
「——」
「二度やっても、十度やっても、同じことです。——その素材は、紙屑ですわ」
嘘は、一つも、言っていなかった。
理由だけを、言っていなかった。
女の目に、初めて、——律子の知っている色が、浮かんだ。
法廷で、何度も見た色。手持ちの札が、突然、全部、意味を失った人間の色。自分の理解の外で、何かが起きている、と悟った人間の色。
「——貴女、——何なの」
女の声が、低くなった。
「置換の効かない人間なんて、——いるはずが」
「いましたわ。——ここに」
その時、アウレリオが、動いた。
銃をホルスターに収めた。一瞬で間合いに飛び込み、——素手で、女の両腕を、後ろに、取った。骨の軋む、正確な、制圧だった。素材の、ハンカチと髪が、床に、落ちた。
「確保、しました」
「——ええ」
律子は、床の素材を、見た。拾おうと、一歩、出た。
女が、——笑った。
アウレリオに、両腕を、極められたまま。
「——ふふ」
「何が、おかしい」
「捕まえた、おつもり?」
女は、律子を、見た。律子には本当の顔が見えたような気がした。落ち窪んだ目が、値踏みするように、見ている。
「プルデンティア・セヴェリーニ。——貴女のことは、報告させていただくわ。置換の効かない、危険な小娘が、いる、と」
「——」
「では、——ごきげんよう」
女の唇が、短く、動いた。
聞き取れない、二つか三つの、音だった。
アウレリオの腕の中で、——女の身体から、力が、抜けた。
糸の切れた、操り人形だった。がくりと、頭が、落ちた。アウレリオが、慌てて、抱きとめた。
数秒。
女の頭が、——のろのろと、上がった。
目が、開いた。
別の目だった。
落ち窪んだ光は、消えていた。琥珀色の、しかし、濁って、怯えた、——病の人の目だった。
その目が、書斎を、見回した。倒れた椅子。抜き身だった剣。自分の腕を、掴んでいる、知らない男。
唇が、震えた。
「……ここは、——どこ?」




