第76話 侯爵令嬢、アルバムを作る
三日後の、午後。
出発まで、あと、五日だった。
律子は、勉強の間に、——アルバムを、作っていた。
卓の上に、写しの紙が、並んでいる。
お父さまの、執務の横顔。眉間の皺まで、写っていた。
ロドリゴと、馬。ロドリゴが、照れて、馬の陰に、半分、隠れていた。
ジーナとメイドさんたち。ジーナは満面の笑み。両手に、リミニの貝殻の首飾り。
マルチェッラ。澄ました、侍女頭の顔。——でも、よく見ると、口の端が、ほんの少しだけ、上がっていた。写される前に、「私など、よろしいのに」と、三回、言った人の口元だった。
お母さまの、白薔薇。
「……ふふ」
律子は、紙を、一枚ずつ、確かめては、重ねた。
……前世では、パソコンで、やったのよね、こういうの。
……写真を取り込んで、並べて、日付を入れて。事務所の二十周年の記念誌も、結局、私が全部、作ったんだったわ。誰も、やらないから。
……今世は、影が、カメラ。
……解像度は、あなたの、頑張り次第よ。
足元の影が、心なしか、得意げに、揺れた。
影写しは、高くつく。だから、一日に、二枚と、決めていた。それでも、五日あれば、間に合う。会えなくなる人たちを、全部、持っていける。
律子は、窓の外を、見た。
庭に、クレメンティアが、いた。
白薔薇の前に、立っていた。今日は、お父さまの帰りを待って、庭を、散歩している。夕方の光の中で、灰青のドレスが、静かに、揺れていた。
……あの方も、撮っておかなくちゃ。
……アルカディアに行ったら、次にお会いできるのは、いつになるか、分からないもの。
……お見送りの日は、慌ただしいでしょうし。——今のうちに。
律子は、影に、頼んだ。
……お願い。窓から、お庭の、クレメンティア様を。
影が、——動かなかった。
「——あら?」
……どうしたの。
影は、椅子の脚の後ろに、いた。細く、縮こまるように。
……お願いよ。一枚だけ。
影は、しばらく、動かなかった。それから、——のろのろと、窓の方へ、伸びた。嫌々、宿題をやりに行く子供の、伸び方だった。
「ふふ。——あなた、まだ、あの方に、人見知りしているの」
律子は、笑った。
……ほかの人は、あんなに、喜んで撮ったのに。
……変な子。
影が、窓の敷居を、越えた。庭の、クレメンティアの足元へ、するりと、伸びて、——重なった。
影の視界を見ながら、紙を見つめる。
クレメンティアの優しい顔が紙の上に輪郭をつくりはじめた。
視界が変わった。影は、逃げるようにクレメンティアの足元から出た。
紙の上の像が出来上がる前に、早くも、影は、律子の足元に戻ってきた。
律子は、白い紙の像を見続けていた。
像が、——はっきりしてきた。
薄い灰色から、濃い灰色へ。輪郭から、細部へ。
灰青のドレス。柔らかい髪の、線。白薔薇の、枝。
そして、顔。
律子は、微笑んで、それを、見守っていた。
微笑みが、——凍り付いた。
顔が、二つ、あった。
クレメンティアの、柔らかい輪郭。その上に、重なって、——別の顔が、写っていた。
痩せた、女の顔だった。頬の肉が、そげていた。目が、落ち窪んで、その奥から、こちらを、見ていた。知らない顔だった。優しさの、欠片もない顔。
二つの顔は、一枚の紙の上で、同じ場所に、あった。
外側に、クレメンティア。
内側に、——知らない女。
「…………」
心臓が、止まりそうになった。
律子の、紙を持つ手が、小刻みに震えていた。
……これ、は。
……知っている。
……私、これを、知っている。
サントーニ先生の、最初の授業。先生の、写しの魔法。紙の上の、十三歳の自分の顔。その目元に、——あるはずのない、銀縁の眼鏡。
……写しは、中身を、写す。
……魔法は、嘘を、つきません。
……顔の下に、顔があるのは、——身体の中に、別の人がいる、ということ。
……私が、——そうだから。私が、一番、よく知っている。
窓の外で、クレメンティアが、白薔薇に、顔を、寄せていた。優しい、いつもの、仕草だった。
律子は、紙の上の、落ち窪んだ目を、見た。
……あなたは、——誰。
手が、小刻みに震え続けていた。律子は、それを抑えるために、拳を、握った。
……順番。順番よ、律子。
……一。文箱。二。七分の空白。三。——これ。
……三つ、揃った。
◇
律子は、立ち上がった。
写しの紙を、二枚——自分のものと、今日のものと——文挟みに、入れた。
……ジーナを、遠ざける。
……マルチェッラに、預ける。
……アウレリオを、呼ぶ。
……それから。
律子は、窓の外を、もう一度、見た。クレメンティアが、丁度、屋敷の方へ、歩き出すところだった。お父さまの馬車の音が、門の方で、していた。
……お父さまの、いる場所で、やらないと。
……この人の正体が、何であれ、——お父さまには、ご自分の目で、見ていただかなくては、いけない。
……四年ぶりに、笑ったお父さまに。
律子は、目を、閉じた。三つ、数えた。
開けた時には、令嬢の顔に、戻っていた。
◇
廊下で、マルチェッラを、呼び止めた。
「マルチェッラ。お願いが、二つ」
「はい」
「ジーナを、厨房に。ペッピーノの手伝いでも、何でもいいわ。——今からしばらくの間、書斎には、近づけないで」
マルチェッラは、律子の顔を、見た。
それだけで、彼女は全てを理解した。
「畏まりました」
「もう一つ。——使用人を、書斎から、下げて」
「——はい」
「分かったら話すと、言ったわね」
「はい」
「終わったら、話します。約束するわ」
マルチェッラは、深く、礼をした。それから、顔を上げて、一言だけ、言った。
「——お嬢様。旦那様を、お願い申し上げます」
……この人は、分かっている。
……何が起きるかは、知らないまま。誰が傷つくかだけ、分かっている。
「ええ」
律子は、頷いた。
◇
アウレリオは、玄関脇の、詰所にいた。
「アウレリオ。武器を持って、私と、来てください」
近衛出身の男は、質問を、しなかった。立ち上がって、古式拳銃の入ったホルスターを、確かめるように叩いた。
「敵は」
「書斎に。——お父さまと、一緒にいます」
アウレリオの目が、鋭くなった。
「一つだけ、先に、言っておきます」
律子は、歩きながら、言った。
「私が、撃つなと言ったら、——止まってください。どんなに、おかしなことを、私が言ったとしても」
「……畏まりました」
◇
書斎の扉の前で、笑い声が、聞こえた。
お父さまの、笑い声だった。
低い、慣れない、四年ぶりに使う筋肉の、笑い声。
律子は、扉の前で、一秒だけ、目を、伏せた。
……ごめんなさい、お父さま。
扉を、叩いた。返事を、待たずに、開けた。
「お父さま。——お話し中、失礼いたします」
書斎の中で、二つの顔が、こちらを、向いた。
机を挟んで、お父さまと、クレメンティア。卓の上に、お茶と、開いた判例集。
「プリュ? ——どうした」
お父さまの眉が、寄った。律子の後ろの、アウレリオを、見たからだった。
「まあ、プルデンティア様」
クレメンティアが、微笑んだ。いつもの、柔らかい微笑みだった。
「お帰りなさいませ。海のお話、伺いたかったの」
「ええ。——後ほど、ゆっくり」
律子は、部屋の中央まで、進んだ。扇子を、閉じたまま、手に、持っていた。
「その前に、クレメンティア様。——一つ、お願いが、ございますの」
「あら、なあに」
「亡くなった判事様の、お話を。——私、旅行の間に、リミニの商法学校の方から、伺いましたのよ。パピニアーニ判事の、『ロンバルディの水車』の判決は、今でも、講義で扱われている、と」
律子は、にっこりと、笑った。
「あの判決の、お話。お父さまに、ぜひ、判事様の側から」
「……まあ」
クレメンティアは、目を、少し伏せた。懐かしむような目だった。
「『ロンバルディの水車』。——ええ、ええ。あれは、主人も、ずいぶん、苦労した裁きで、ございました。水を分けるというのは、土地を分けるより、難しいのだ、と、よく、申しておりました」
柔らかく、淀みなく、思い出は、語られた。
完璧だった。
——お父さまの、手だけが、止まっていた。
茶器を持ち上げかけた手が、宙で、止まっていた。
お父さまは、クレメンティアを、見ていた。それから、ゆっくりと、律子を、見た。
律子は、お父さまの目を、見返した。
……そうです、お父さま。
……『ロンバルディの水車』という判決は、——この世に、存在しません。
……たった今、私が、作りました。
……パピニアーニ判事の判決を、全部、読んでいらっしゃるのは、この部屋で、お父さまだけ。
……本物の未亡人なら、笑って、こう言うはずでした。「そんな判決は、ございませんわ」と。
書斎が、静かになった。
クレメンティアは、まだ、微笑んでいた。その微笑みのまま、律子と、お父さまを、順に、見た。
「……あら」
小さく、言った。
「私、何か、間違えたかしら」
「間違えて、おられません」
律子は、文挟みから、紙を、一枚、出した。卓の上に、置いた。判例集の、隣に。
今日の、写しだった。
「——完璧で、ございました。この四か月間、ずっと」
クレメンティアの目が、紙に、落ちた。
二つの顔の写った、紙に。
「服装も、作法も、表情も、本物でした。当然です。身体が、本物ですもの」
律子は、静かに、続けた。
「でも、写しの魔法は、外側を写しません。——そこに写っているのが、あなたです。今、その身体の中にいる、あなた」
「プリュ、——これは、一体」
お父さまの声が、掠れていた。
「お父さま。この方は、クレメンティア様では、ありません。クレメンティア様の身体に、置換魔法で、入っている、——別の、どなたかです」
「——」
「本物のクレメンティア様は、今、この方の身体の中ではなく、——どこか、別の場所に、いらっしゃいます」
沈黙が、訪れた。




