第75話 侯爵令嬢の、本の森
馬車が、セヴェリーニ家の門を、くぐった。
玄関の前に、使用人たちが、並んでいた。その先頭に、マルチェッラが、立っていた。
一分の隙もない、侍女頭の立ち姿だった。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま、マルチェッラ」
律子が、馬車を、降りた。
マルチェッラは、礼をして、それから、顔を上げて、——律子を、見た。頭のてっぺんから、爪先まで。一瞬の、検分だった。
「……お陽に、灼けられました」
「あら、分かる?」
「分かります。それから、——お痩せには、なっておられません。結構なことで、ございます」
「まあ」
「キアラ様のお家の、お食事が、良かったのでございましょう。——ペッピーノが、対抗心を、燃やしております。今夜は、覚悟なさいませ」
律子は、笑った。
……ただいま。
……この家の、この感じ。
ジーナが、馬車から、土産の包みを、抱えて降りてきた。貝殻の首飾り。リミニの焼き菓子。使用人たちが、わっと、寄った。
マルチェッラが、律子の半歩後ろに、ついた。
「お留守の間の、ご報告を」
「ええ、お願い」
「大きなことは、ございません。お屋敷は、平穏で、ございました。旦那様は、つつがなく。——ああ、それから」
マルチェッラの声は、変わらなかった。
「クレメンティア様が、二度、お見えになりました」
「——あら」
「一度は、旦那様と、ご夕食を。もう一度は、旦那様がお帰りの前に、お見えになりまして、——応接の間で、お待ちに、なりました」
「そう」
「お嬢様がアルカディアへお発ちの日に、お見送りにも、お見えになるそうで、ございます」
「——ええ。伺っているわ」
律子は、頷いた。
……お留守の間も、来てくださったのね。
……お父さまが、お帰りになる前から、待って。
……律儀な方。
その時の律子は、まだ、それを、温かい話として、聞いていた。
◇
夕方。
荷解きの合間に、律子は、お母さまの部屋に、入った。
旅行の報告を、するためだった。海のこと。二人のキアラのこと。キアラに、全部、話せたこと。
部屋は、いつも通りだった。西日が、窓から、斜めに、入っていた。
文机の上に、文箱が、あった。
律子は、その前に、座って、——手を、合わせる代わりに、蓋に、指先を、置いた。
「——お母さま、ただいま帰りました」
蓋を、開けた。
手紙の束が、そこに、あった。
律子は、報告の代わりに、いつものように、一番上の手紙を、手に取ろうとして、——
止まった。
「——」
……アガタさんの手紙が、一番上。
……違う。
……一番上は、ヴィットリアさんの、はず。
律子は、束を、取り出した。一通ずつ、確かめた。
日付の順。律子が、いつも、保っている順。八割は、合っている。でも、——二通が、入れ替わっている。三通目の、封の向きが、逆。
几帳面な手が、几帳面に、戻した跡だった。
手紙の角が揃っている。几帳面すぎて、——律子の几帳面とは、ずれていた。
律子は、手紙の束を、膝に置いたまま、動かなかった。
西日が、少しずつ、傾いていった。
……誰かが、——これを、読んだ。
◇
律子は、呼び鈴を、鳴らさなかった。自分で、マルチェッラを、探しに行った。
リネン室で、マルチェッラは、敷布を、あらためていた。
「マルチェッラ。少し、いいかしら」
「はい、お嬢様」
「お母さまのお部屋のことで、聞きたいの。——お留守の間、あのお部屋に、入った人は?」
マルチェッラは、敷布を、置いた。
「奥様のお部屋は、私が、月に一度、風を通しております。お留守の間は、——一度。窓を開けて、埃を払って、閉めました。それだけで、ございます」
「物の位置は」
「動かして、おりません」
即答だった。
「文箱には」
「触れて、おりません。——奥様の持ち物には、代々、お手を触れません。私どもの、決め事で、ございます」
「——そう」
律子は、少し、間を、置いた。それから、声の調子を、変えずに、聞いた。
「ほかに、あのお部屋に、近づけた人は、いる?」
マルチェッラは、すぐには、答えなかった。
記憶を、点検している顔だった。この人は、憶測でものを言わない。十七年、見てきた顔だった。
「——お一方だけ、いらっしゃいます」
「ええ」
「クレメンティア様が、二度目にお見えになった日、——応接の間で、お待ちいただいて、私は、お茶の指図に、下がりました。戻りますと、お席に、いらっしゃいませんでした」
「——」
「廊下の突き当たりで、お見かけしました。『広いお屋敷で、迷ってしまって』と、お笑いに、なりました。——二階の、廊下で、ございます」
「——二階」
「奥様のお部屋の、近くで、ございます」
マルチェッラは、そこで、まっすぐに、律子を、見た。
「お客様から、目を離しましたこと、——侍女頭として、お詫び、申し上げます。時間にして、七分か、八分で、ございました」
「——七分か、八分」
「お茶の湯が、沸く時間で、ございます」
律子は、頷いた。
「責めていないわ、マルチェッラ。——よく、憶えていてくれました」
「憶えますのが、務めで、ございますから」
マルチェッラは、礼をした。それから、少しだけ、声を、低くした。
「——お嬢様。何か、ございましたか」
「まだ、分からないの」
律子は、正直に、答えた。
「分かったら、あなたには、話します」
「はい」
それ以上、聞かなかった。気付かない振りの上手な人は、聞かない技術も、持っている。
◇
自室。夜。
律子は、目録を、開いた。書かずに、考えた。
……整理しましょう。
……一。文箱の手紙は、読まれた。戻し方が、私と、ずれている。
……二。機会があったのは、七分か、八分。二階の廊下にいた、客人。
……三。でも、それだけなら、まだ、好奇心の詮索と、区別がつかない。
……そして、四。
……盗られたものは、——無い。
律子は、それを、確かめていた。文箱の中身は、一通も、欠けていない。
欠けようが、なかった。
……ヴィオラの事件の後に、移したもの。
あの秋、律子は、文箱から、三つのものを、抜いた。偽名を使い始める前の手紙、お母さまの字で、イニシャルの書き込まれた手紙。そして、律子自身が四人に出した手紙の、写し。
名前と、場所に、繋がるもの、全部。
それを、ばらして、——蔵書の中に、挟んだ。
勉強の間の、数千冊。赤い旗と、青い旗の、突き出した本の森。どの旗が判例の印で、どの旗が名簿の在処か、律子の頭の中の索引の他に、知る方法は、ない。
文箱に残したのは、偽名の署名の、温かい私信だけ。
……アガタ。ヴィットリア。カミラ。
……お母さまが、皆さまに、偽名を使うように頼んだ。ご自分の死の、数ヶ月前に。
……私が、対応表を、本の森に隠した。ヴィオラの事件の、後に。
……お母さまが一枚目の鍵を掛けて、私が二枚目を掛けた。
……だから、読まれても、——網は、破れない。
律子は、静かに、息を、吐いた。
それから、次の問いに、進んだ。進みたくない問いだった。
……読んだのが、あの方だと、仮定する。
……あの方は、何を、探しに来たの。
……お母さまの、文箱を。お母さまの、過去を。
……お母さまの過去に、用のある人間は、——
律子の手が、目録の上で、止まった。
……仮定よ。まだ、仮定。
……七分の空白と、手紙の順だけで、人を、疑ってはいけない。
……ヴィオラの時、私は、三つ揃えてから、動いた。
……今度も、そうする。
律子は、目録に、一行だけ、書いた。
「文箱、閲覧の形跡。機会:七〜八分(M証言)。持ち出し:無し。——継続観察」
羽根ペンを、置いた。
窓の外は、暗かった。庭の白薔薇が、闇の中で、ぼんやりと、白かった。
足元で、影が、——夜の灯りを受けて、濃く、律子の足に、寄り添っていた。




