第74話 侯爵令嬢、告白する
夕方。
二人は、浜に、いた。
祭りの音が、遠くに、聞こえる、静かな浜だ。
キアラが、先に、靴を、脱いだ。
「プルーも、脱ぎなさいよ」
「あら、——はしたない」
「誰も、見てないわ。ジーナさんだけ」
「わたしも見ません!」
ジーナが、宣言した。彼女は既に、裸足だった。
律子は、周りを、見た。それから、靴を、脱いだ。
砂が、——温かかった。
波が、寄せてきて、三人の足首を、洗った。
「冷たっ」
「ふふ」
「きゃーっ! お嬢様、次の、大きいです!」
波が、来た。三人が、逃げた。スカートの裾を、両手で、持ち上げて。
波が、引いた。三人が、戻った。
夕日が、海の上に、金色の道を作っていた。
濡れた砂の上に、三人の影が、長く、伸びていた。
律子の影は、二人の影と、並んで、静かに、波を、受けていた。
……ねえ。
……あなたも、海、初めてでしょ。
影は、答えなかった。ただ、波が影の上を、通り過ぎるたびに、少しだけ、揺れた。気持ちよさそうに、——見えなくも、なかった。
◇
夜。別邸の、二階の部屋。
窓の外で、波の音が、していた。祭りの名残の、遠い音楽と共に。
ジーナは、一日中はしゃぎ疲れて、使用人部屋で、もう、眠っていた。
卓の上に、オイルランプが一つ。
寝衣の令嬢が、二人、長椅子に、並んで、座っていた。
「今日は、盛りだくさんだったわね」
キアラが、言った。
「ええ」
「船と、賭けと、——碑と、海と」
「ええ」
「——あの子のこと、考えてた? さっきから、静かだから」
「——少しね」
律子は、ランプの火を、見ていた。
……今日が、——いつか、よ。
……四年、待たせたものね。
律子は、息を、一つ、整えた。
「キアラ」
「うん?」
「昼間の、碑の前で、——あなた、言ったでしょう。二人のキアラが、いるのね、って」
「言ったわ」
「一つの名前に、二人が、いた」
「ええ」
「——逆も、あるのよ」
「——逆?」
キアラが、律子を、見た。
律子は、キアラの目を、まっすぐに、見返した。
「一人の中に、——名前が、二つ、あることも」
波の音が、一つ、二つ。
「——プルー?」
「私の中には、二人が、いるの」
オイルランプの火が、揺れた。
「一人は、プルデンティア・セヴェリーニ。あなたの、お友達。——もう一人はね」
律子は、その名前を、口に、乗せた。
この世界で、初めて、声に出す、名前だった。
「——城山、律子」
「…………」
「シロヤマ・リツコ。ここではない、遠い世界の、日本という国の、名前よ」
キアラは、動かなかった。
目だけが、大きく、開いていた。
律子は、続けた。止まったら、二度と言えない気がして、言葉を吐き続けた。
「その人は、——つまり、私は、その世界で、四十三年、生きたの。弁護士を、していたわ。人と人の、揉め事を、法律で、解く仕事。仕事ばかり、していた。それで、ある夜——」
声が、少しだけ、掠れた。
「夜通し開いている、小さな、灯りの明るい店で、——刃物を持った男の人に、会った。説得、しようとしたのだけど。——しくじって、刺されて、死んだの」
「…………」
「気がついたら、赤ん坊だった。この世界の。——セヴェリーニ家の」
波の音が響いた。
ランプの火が揺れ続けている。
「十三歳までは、忘れていたの。プルデンティアとして、育ったわ。——思い出したのは」
「……お母さまの」
「ええ。——あの階段で」
キアラの目に、水の膜が、張った。
「四年間。私の中に、二人が居るの。——ずっと、あなたに、言えなかった。お葬式の日に、あなたが、何も聞かずに、側にいてくれた、あの日から、——いつか言わなくちゃって、ずっと」
律子は、そこで、言葉を、切った。
言い終わって、初めて、自分の手が、膝の上で、固く、組まれていることに、気づいた。
長い、沈黙があった。
波が、三つか、四つ、寄せて、引いた。
キアラが、——口を、開いた。
「言葉は、いらないでしょ、って」
「……え?」
「お葬式の日、私、そう言ったわね」
「ええ」
「あれ、——訂正する」
キアラは、袖で、目元を、押さえた。それから、律子の両手を、膝の上から、取った。
「今日は、——言葉が、いるわ」
「……」
「話してくれて、ありがとう、プルー」
律子の目から、堪えていたものが、落ちた。
「——ずるいわよ、四年も抱えていたのに。こんな、海のきれいなところで、そんなこと言うなんて、泣くに決まってるじゃないの」
「——ふ、ふふ」
「笑い事じゃないわよ、もう」
キアラも、泣きながら、笑っていた。
◇
しばらくして。
キアラが、涙をぬぐって、居住まいを、正した。
「——シロ、ヤマ」
「え?」
「シロヤマ・リツコ。——発音、合ってる?」
「——ええ。上手よ」
「シロヤマって、どういう意味?」
「城の、山。お城の建っている山、という意味」
「まあ。——貴女、向こうでも、お城の家柄なの?」
「ただの名字よ。日本には、お城の付く名字の人が、山ほどいるの」
「ふうん。——リツコは?」
「律の子。律は、——決まり、とか、法、とか」
キアラが、目を、丸くした。
「——法の子?」
「——そうなるわね」
「向こうで法の子で、こっちで法王国の、賢慮の令嬢?」
「——偶然よ」
「偶然で、二回も、法律家に生まれる?」
「二回目は、まだ、なっていないわ」
「なるくせに」
キアラは、笑った。それから、大真面目な顔に、なった。
「ね、それより、——一番、大事なことを、聞いていい?」
律子は、背筋を、伸ばした。
……来るわね。この子のことだから、核心を。
……転生の仕組み? それとも、前世の記憶と今の私の——
「四十三年で、——お相手は?」
「……」
「恋人。いた? 向こうで」
「——いなかったわ」
「四十三年で!?」
「仕事が、忙しかったのよ!」
「お見合いは?」
「——三回、断ったわ」
「断った理由は?」
「……次の日に、調停が——仕事が、入っていたから」
「三回とも!?」
「三回とも、よ」
キアラは、笑った。それから、ふと、笑いを、収めた。
「——ねえ、プルー」
「なあに」
「好きな人は、——いなかったの?」
波の音が、二つ。
「……いた、かもしれない人なら」
律子は、ランプの火を、見た。
「修習の——弁護士の見習いの頃の、同期の人。夜中まで、法律の議論をして、帰りに、二人で、あの店に寄るの。湯気の立つ、白くて丸い、蒸しパンのようなものと、苦い飲み物を、買って。並んで、歩きながら、食べて。——それだけ」
「それだけ?」
「それだけ。気が合うことは、分かっていたの。でも、——私なんかが、って、思っていたのよ。向こうも、踏み出さなくて。そのうち、その人は、——別の人と結婚したわ」
「——どんな人?」
「明るくて、——自分を信じる力の、ある人。私と、正反対の——」
律子は、そこで、止まった。
ランプの灯りの中の、キアラの顔を、見た。
「……プルー?」
「——あなたみたいな人よ、キアラ」
「——え」
「今、気づいたわ。あの人が選んだのは、——あなたみたいな人だった」
キアラは、目を、丸くしていた。
「四十三年と十七年、生きてきて、——今、初めて、思えたわ。あなたみたいな人と一緒なら、あの人は、笑って暮らしている。——それなら、いいの。あの人の結婚に、悔いは、ないわ」
「——」
「悔いが残るのは、一つだけ。——私なんかが、って思った、私の方」
キアラは、しばらく、黙っていた。
それから、律子の手を、ぎゅっと、握った。
「——じゃあ、約束して」
「約束?」
「今度、誰かを好きになったら。——『私なんかが』は、禁止。一回でも言ったら、リミニから、怒鳴り込みに行くから」
「——ふふ。遠いわよ、アルカディアは」
「馬車で行くわよ、何日かけても」
「でも、誰かを好きになったらって」
「そうよ。賢者学府なんて、大陸中の、優秀な殿方だらけよ」
「私、婚約者が、いるのだけれど」
「——ああ。そうだったわ」
「忘れないで、ちょうだい」
二人は、笑った。
「で、——実際、どうなの、殿下とは」
「どう、って」
「私も実物を拝見したのよ、晩餐会で。絵姿より、ずっと、お綺麗だった」
「ええ。アポロの胸像みたいでしょう」
「他人事みたいに、言って」
律子は、少し、考えた。
「——いい方よ。お馬の話と、お洋服の話と、お庭の話を、なさるの。あとは、——私たちには点数表が、あるわ」
「点数表?」
「魔法は、殿下の勝ち。自動車の運転は、私の勝ち。法学も、私の勝ち」
「前に聞いた自動車遊びね」
「——向こうの世界で、運転していたから私の勝ち」
「——ああ、もう、そういうことが、聞けるのね、私」
キアラは、少し、嬉しそうに、笑った。それから、真顔に、戻った。
「——ねえ、プルー。お好き? 殿下のこと」
直球が、来た。
「——悪い方では、ないの。箱入りで、素直で。彼も、駒なのよ、私と同じ。——それは、彼の責任では、ないわ」
「それ、弁護士の答え」
「あら」
「聞いたのは、女の子の質問」
律子は、——答えられなかった。
キアラは、追わなかった。代わりに、ぱたぱたと、手を振った。
「ま、いいわ。学府で、確かめなさいよ。殿下、あちらの二年生で、いらっしゃるんでしょ」
オイルランプが、二人を照らしていた。
壁の上に、二人の影が、映っていた。
寄り添って、座っているから、二つの影は、境目のところで、一つに、繋がっていた。
一つの、大きな影の中に、二人、いた。
◇
寝台に、入ってから。
律子は、暗い天井を、見ていた。
隣の寝台から、キアラの、静かな寝息が、聞こえてくる。
……言えた、わ。
……お母さま。プリュは、今日、お友達に、全部、話しました。
……四年、かかりました。
窓の外で、波の音が、続いていた。
寄せて、引いて。寄せて、引いて。
……この世界で、私の名前を、知っている人が、——一人。
律子は、目を、閉じた。
その名前が、この後、どんな意味を持つのか。
彼女は、まだ、知らなかった。




