第73話 侯爵令嬢、もう一人のキアラを知る
街道を走って、二日目の午後だった。
馬車の窓の外で、丘が、切れた。
ずっと響いていたジーナの鼻歌が、途切れた。
「お嬢様! 海です! 海!」
ジーナが、窓に、張り付いた。
丘と丘の間に、青いものが、光っていた。空より、濃い青だった。その青が、地平線の代わりに、世界の端まで、続いていた。
「ほんとに、繋がってるんですね、空と」
「繋がっては、いないのよ」
「でも、繋がって見えます!」
「ええ。——見えるわね」
律子も、窓の外を、見ていた。
……海。
……前世では、電車で一本だったのに、四十三年で、数えるほどしか、行かなかった。
……今世では、馬車で二日。
……なのに、あっという間に着いた気がする。
馬車の脇を、護衛の馬が、並んで走っていた。アウレリオが、目だけで、周囲を、見張っていた。彼は海を見て、いなかった。
◇
自由都市リミニ。
白い建物。赤い屋根。街を縫って、運河が、流れていた。石造りのアーチ橋の下を、荷を積んだ小舟が、すべるように、通っていく。
港から、積み荷を運ぶ人々の声。商人たちの、掛け合い。子供が、石畳を、走っていく。
街中に、色とりどりの、旗が、渡してあった。
祭りの、旗だった。
ロッセリーニ家の別邸の門の前に、——キアラが、立っていた。
「プルー!」
馬車が止まるのも、待たなかった。
「キアラ!」
律子が、降りた。二人は、両手を、取り合った。
「いらっしゃい、私の街へ!」
「あなたの街?」
「半分ね。もう半分は、セルヴィアにあるから」
キアラは、笑った。日焼けが、少し、始まっていた。
「良い時に、来たわよ、プルー。明日から、帆走祭なの」
「ハンソウサイ?」
「船の、お祭り。——リミニで一番、派手なやつ」
◇
翌朝。港。
派手、というキアラの言葉も、控えめだった。
港の中に、白い帆が、林のように、立っていた。細長い、競走用の帆船。船体に、それぞれの商会の色が、塗られている。赤。青。金。緑。
防波堤の上も、桟橋も、見物の人で、埋まっていた。焼き菓子の匂い。香辛料の匂い。どこかで、楽器が、鳴っている。
「あの緑のが、うちの取引先の船。あっちの金色が、最大手の商会の船。——万年二位だけど」
「お詳しいのね」
「商法学校に行くんだから、これくらいはね。——賭ける?」
「あら」
「飴玉、三個」
「……緑に、三個」
「言ったわね。私は金色」
銅鑼が、鳴った。
帆船の群れが、一斉に、動き出した。
白い帆が、風を、掴んだ。船体が、傾いた。
そして、——律子は、目を、疑った。
傾いた船の上で、乗り手たちが、船の外へ、身を、——乗り出したのだった。足だけを船に掛けて、上体を、海の上へ。一人は、細い索一本で、船から、完全に、宙へ、吊られていた。身体ごと、海面の上に、突き出して、飛沫を浴びながら、帆の傾きを、支えている。
「まあ——」
「凄いでしょ。ああやって、重りになるの。人間が」
「落ちないの?」
「落ちるわよ、時々。だから、面白いの」
観客が、どっと、沸いた。金色の船の乗り手が、宙で、大きく、姿勢を変えたのだった。
……あら。
……あの乗り方。
……前世で、見たことがある、わね。オリンピックの中継か、何かで。
……ふうん。——この世界の船乗りも、同じ答えに、辿り着くのね。
律子は、それ以上、考えなかった。
「昔からある、乗り方なの?」
「百年くらい前かららしいわ。それより前は、皆、行儀よく、船の中に、座っていたって」
「行儀の悪い方が、速いのね」
「そういうこと!」
緑の船が、金色の船を、外から、抜いた。
「あーっ!」
「あら」
「まだよ、まだ! 折り返しがあるの!」
二人の令嬢が、防波堤の上で、令嬢らしからぬ声を、上げていた。でも、少し離れて、ジーナが、地元の男性たちを押しのけ、誰よりも大きな声を、上げていた。
◇
結果を先に言えば、緑の船が、勝った。
表彰の壇の上で、触れ役が、名前を、読み上げていた。
「本年の優勝賞金は、リミニ商会連合——グロッソ商会の、ご出資!」
群衆が、沸いた。壇の脇で、恰幅のいい紳士たちが、鷹揚に、手を振っていた。
「太っ腹よねえ」
キアラが、拍手しながら、言った。
「ここ数年で、急に大きくなった商会なの。羽振りがいいのよ」
「——そう」
律子は、扇子を、開いた。
……急に、大きくなった。
……何で大きくなったのか、——知っているわ。
……でも、今日は、休暇。帰ったら、目録に、一行だけ足そう。
律子も、拍手を、した。令嬢の、綺麗な拍手だった。
◇
「はい、飴玉、三個」
「ふふ」
「悔しい。プルー、初めて見たくせに」
「船は初めてでも、——賭け事をしている人の顔を見るのは、初めてじゃないもの」
「顔?」
「金色の商会の応援席、誰も、真剣に旗を振っていなかったわ。地元の人は、知っていたのよ、今年の緑が速いこと」
「——」
キアラは、飴玉を、一個、口に、放り込んだ。
「——プルーとは、賭けをしないことに、決めた」
「あら、残念」
◇
昼が、近かった。
二人は、人の流れに乗って、大広場に、出た。
広場の四方に、屋台のテントが、並んでいた。反物。陶器。革の小物。焼き菓子の、甘い匂い。広場の一角に、人形劇の小さな舞台が、出ていて、子供たちが、腹を抱えて、笑っていた。
広場の奥に、大時計の鐘楼が、聳えていた。
その鐘楼の足元に、——それは、あった。
祭りのテントが、そこだけを、避けて、建てられていた。
白い石の、低い壁だった。長く、緩やかに、弧を描いていた。壁の前に、誰かの置いた花が、数束。
壁一面に、——名前が、刻まれていた。
「——キアラ、これは?」
「慰霊碑よ」
キアラの声が、少しだけ、静かになった。
「百年前に、ここで、酷いことがあったの。お祭りの日に。——学校の見学で、教わったわ」
二人は、碑の前に、立った。
壁の右端に、古い日付。その下に、一行。
『この広場において、千余の市民が、倒れた』
それから、——名前。
名前。名前。名前。
姓のない、名前だけの列が、壁の端から端まで、続いていた。名前の脇に、小さく、歳の数字が、添えられていた。六十七。四十二。三十五。十九。——八。——五。
「名前だけ、なのね」
「一家で、全員、亡くなった家が、多かったんですって。だから、——家の名前で分けずに、皆、同じ大きさで、一人ずつ」
……千人。
……祭りの日の広場で。
律子は、名前の列を、目で、辿った。
キアラが、隣で、ぽつりと、言った。
「ね、プルー。自分の名前、探したことある? こういうところで」
「ないわ」
「私は、つい探しちゃうの。変な癖なんだけど。——石碑とか、寄進者の名簿とか」
キアラの目が、名前の列を、滑っていった。遊びの目だった。
プルデンティア、は、なかった。
……そうでしょうね。
……賢慮。四元徳の一つ。子供につけるには重い名前。
キアラの目が、——止まった。
「——」
「キアラ?」
「——いた」
キアラの指が、壁の、一つの名前を、指していた。
目の高さより、少し下。子供の背丈の、あたりだった。
『キアラ 五歳』
「——」
「——」
祭りの音が、急に、遠くなった。
五歳のキアラは、名前の列の中で、他の千の名前と、同じ大きさで、そこに、いた。
「——二人のキアラが、いるのね」
キアラが、言った。笑おうとして、笑いになりきらない、声だった。
「——ええ」
「私、この街で、キアラって呼ばれるたびに、——この子も、ちょっとだけ、呼ばれるのかしら」
「——」
「変なこと、言ったわね」
「いいえ」
律子は、首を、振った。
「——変じゃ、ないわ」
◇
その時、頭の上で、鐘が、鳴った。
ゴーン。
ゴーン。
正午の鐘だった。
鐘の音が、広場に、染み渡った。祭りの喧騒が、一瞬だけ、薄くなって、——また、戻った。屋台の呼び声。人形劇の笑い声。
律子は、鐘楼を、見上げた。それから、碑に、目を、戻した。
名前の列の、終わりに、一行、あった。
『この犠牲者たちに——恥ずかしくない街を残しましょう』
『自由都市リミニ 首相 アゴスティーノ・フェレーロ』
「初代首相よ」
キアラが、注釈した。
「この碑を、お建てになった方。商法学校の講堂に、肖像画があるの」
「——そう」
律子は、その一行を、もう一度、読んだ。
……過去形じゃ、ないのね。
……「倒れた」で、終わっていない。「残しましょう」——生きている者への、呼びかけで、終わっている。
……墓碑銘じゃなくて、——約束。
それから、律子は、気づいた。
……この碑には、書いていないことが、ある。
……誰が、やったのか。
……千人を、祭りの日に。それだけのことをしたのが誰か、——どこにも、書かれていない。
……忘れたはずが、ない。皆、理由を知っていたはず。
……書かなかったのね。
……被害を、記録して。約束を、記録して。——でも、その原因を、記録しないと、決めた碑。
……どういう人が、そう決めたのかしらね、首相閣下。
律子は、名前の列に、目を、戻した。
五歳のキアラの名前の上に、正午の光が、落ちていた。
キアラが、屋台で、焼き菓子を、一つ、買ってきた。蜂蜜のかかった、丸い、小さい菓子。
それを、碑の下の、花の隣に、そっと、置いた。
「お祭りですもの。——甘いものなら、五つの子でも、食べられるでしょ」
キアラは、切なげに笑った。




