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悪役令嬢の幸福論 ~異世界のリーガルロマンス~  作者: 木霊裕一郎
セルヴィア・法曹予備学院編
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第72話 侯爵令嬢、卒業旅行へ行く


 夕食まで、まだ、間があった。


「クレメンティア様、——お庭を、ご覧になりませんか」


「あら、嬉しい」


 二人で、庭に、出た。


 夕方の光が、斜めに、なり始めていた。


 白薔薇が、咲き始めている。


「まあ、——」


 クレメンティアが、足を、止めた。


「これが、噂の」


「お母さまの、薔薇です」


「——お噂は、伺っていたけれど」


 クレメンティアは、薔薇の前で、少しだけ、頭を、下げた。


 亡くなった人に、挨拶をする、所作だった。


 ……この方は、こういうことを、なさる。

 ……お母さまの場所を、奪おうとなさらない。

 ……お母さまに、先に、挨拶をなさる。


 律子の胸が、また、温かくなった。


「——一輪、お持ちになりますか」


「あら、いいの?」


「お母さまも、きっと、喜びます」


 律子は、鋏を、持ってこさせようとして、——やめた。


 ……一輪くらい、手で。


 枝の、若い部分を、選んだ。指を、掛けた。


 折った。


 その瞬間、——


「——つっ」


 棘が、指先に、刺さった。


 人差し指の腹に、赤い珠が、ぷくりと、膨らんだ。


「まあ、大変」


 クレメンティアは、素早かった。


 袖から、白いハンカチを、出した。律子の指を、取った。赤い珠の上に、白い布を、押し当てた。


「棘のあるものを、素手で、——駄目よ、もう」


「——面目、ございません」


「じっとして」


 白いハンカチに、小さな赤が、滲んだ。


「棘の傷はね、——悪いものを、出しておかないと、いけないの」


 クレメンティアは、律子の指を、根元から、先へ、——優しく、押した。


 赤い珠が、また、膨らんだ。白い布が、それを、吸った。


 もう一度。——もう一度。


「痛くない?」


「——大丈夫です」


 白いハンカチの染みが、少しずつ、大きくなった。


 クレメンティアは、それから、そっと、布を、離した。指先の赤い珠は、もう、膨らんでこなかった。

 

「——はい。もう、大丈夫」


「ありがとう、ございます。ハンカチは私が、——洗って、お返しいたします」


「あら、駄目よ」


 クレメンティアは、笑って、ハンカチを、畳んだ。赤い染みが、内側に、折り込まれた。


「怪我をした方に、洗い物をさせる母親が、どこにいて?」


「——」


 ……母親。

 ……ご自分で、仰った。


 律子は、何も、言えなくなった。


 クレメンティアは、畳んだハンカチを、袖に、仕舞った。それから、律子の手から、白薔薇を、受け取った。


「——いただくわね。お母さまに、お礼を申し上げて」


 彼女は、薔薇を、胸元に、当てた。


 夕方の光の中で、白い薔薇と、琥珀色の目が、並んでいた。


 綺麗な人だ、と、律子は、思った。


 二人の足元で、——律子の影だけが、夕日に、長く、伸びていた。


 クレメンティアの影から、離れる方へ。


 律子は、それに気づかなかった。


 ◇


 夜。


 夕食は、賑やかだった。父が帰り、クレメンティアがいて、ペッピーノが、腕を振るった。父は、「うむ」を、いつもより、たくさん、言った。クレメンティアが、亡夫の判例の失敗談を、話した。父が、——声を出して、笑った。


 律子は、その横顔を、見ていた。


 ……お父さまが、笑っている。

 ……お母さま。

 ……プリュは、これを、喜んで、いいのですよね。


 ◇


 クレメンティアの馬車を、玄関先で、見送った。


 車輪の音が、門の外へ、消えていった。


 律子は、一人、玄関の前に、残った。


 春の夜の、風が、吹いた。


 ……いい日、だったわ。


 ……先生の、最終授業。

 ……庭一面の、ウサギと、ごちそう。

 ……光の亜種、という、宿題。

 ……髪を、梳いていただいて。

 ……薔薇を、差し上げて。


 律子は、包帯代わりの、小さな布を巻いた、人差し指を、見た。


 ……棘は、痛かったけど。


 それから、誰もいない玄関先で、——口の中だけで、小さく、言ってみた。


「——お母さま」


 声は、夜の風に、消えた。


 誰にも、聞こえなかった。


 足元の影が、——玄関の灯りの中で、じっと、していた。


 いつもより、少しだけ、律子の足に、近く。


 まるで、何かから、律子を、離すまいと、するように。


 律子は、気づかなかった。


 ◇


 二日後の、朝。


 玄関先に、旅行鞄が、並んだ。


「お嬢様! リミニですよ、リミニ! 海ですよ!」


 ジーナが、朝から、同じことを、三回も言った。


「ええ、ジーナ。海よ」


「キアラ様の、別邸! わたし、海、初めてで!」


「ええ。私も、初めてよ」


 ……正確には、——今世では、初めて、だけど。


 ジーナは、鼻歌まじりに、鞄を、馬車に、積みに行った。


 律子は、玄関から、庭を、振り返った。


 朝の光の中で、白薔薇が、咲いていた。


 ……お母さま、行って参ります。

 ……キアラに、——話してこようと、思います。

 ……ずっと、言えなかったことを。


 薔薇が、朝の風に、揺れた。


 律子は、馬車に、乗り込んだ。


 車輪が、動き出した。


 馬車の床に、律子の影が、落ちていた。


 影は、旅の間じゅう、——いつもより、少しだけ、律子の足に、近いところに、いた。


 ◇


 同じ朝。


 侯爵邸の門前の通りに、一人の紳士が、立っていた。


 白髪混じりの髪。旅塵に汚れた外套。長い街道を、馬車を乗り継いできた者の、疲れた肩をしていた。


 紳士が、門を見上げた、——その時。


 門が、開いた。


 旅行鞄を積んだ馬車が、出てきた。車窓の奥に、プラチナブロンドが、一瞬、揺れた。


 馬車は、紳士の前を、通り過ぎた。街道の方へ、遠ざかり、——小さくなった。


 紳士は、長いこと、立っていた。


 それから、通りの荷運びの少年をつかまえて、二言三言、尋ねた。少年は、気安く答えた。お嬢様のご出立ですよ。ご旅行から戻られたら、今度はアルカディアの賢者学府へ。なにしろ、公太子様のご婚約者様だから——


「——賢者学府」


 紳士は、繰り返した。


 それから、——静かに、笑った。


 十七年、待った。今日も待てた、はずだった。それが、最後の数週間を、待てなかった。大陸を半分、渡ってきて、——辿り着いた門の前で、彼女の方が、彼の店の隣へ来ると、言う。


 ……アリアドネ様。どうやら、私は、——待っていれば、良かったようです。


 年齢に似合わぬ若い手が、外套の襟を、直した。


 紳士は、来た道を、——東へ、歩き出した。


 春の街道の、光の中を。


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