第71話 侯爵令嬢、メロメロになる
夕方。自室に戻ると、律子は、目録を、開いた。
「サントーニ先生、最終授業」——終わった。横に、印を付けた。
その下に、書き加えた。
「実体化=影を支配すれば、実体を支配できる。内側の光を恐ろしく燃やす。——使わない(先生との約束)」
「私の魔法=光の亜種?(先生説)。評議会の分類→手紙で報告(宿題)」
羽根ペンを、置いた。
……四年、か。
律子は、目録の、最初の方の頁を、めくった。
「影魔法=闇属性に分類される。ただし通常の闇魔法と異なる」
十三歳の自分の字が、そこに、あった。
……闇から、光へ。
……四年で、診断が、変わった。
……変わったのは、影? それとも、——私?
その時、階下から、ジーナの、弾んだ声が、聞こえた。
「お嬢様! クレメンティア様が、お見えです!」
律子は、顔を、上げた。
……あら。
目録を、閉じた。
……今日は、お夕食を、ご一緒くださる日。
……お父さまは、まだ、役所。
……それまで、——私が、独り占めできる、ということね。
律子は、立ち上がった。
鏡を、ちらりと、見た。徹夜明けの髪。目の下の影。
……あ。
……まあ、いいわ。
……あの方は、——こんな私でも、笑わないもの。
◇
クレメンティア・パピニアーニが、この屋敷に、初めて来たのは、——三か月前、まだ冬だった。
王立大学の講堂で、亡夫パピニアーニ判事の、判例集再刊の、記念講義があった。父が、出席した。父は、判例の話が、好きだった。
講義の後、未亡人が、父に、礼を述べた。夫の仕事を、覚えていてくださって、と。
そんな些細な、始まりだった。
やがて、屋敷に、招かれるようになった。父の書斎から、——笑い声が、聞こえるようになった。
お母さまが亡くなってから、四年。父の書斎から、笑い声がするのは、——久しぶりだった。
律子は、——調べた。
何も疑わしいところはなかったけれど、ヴィオラの一件が、あったからだ。
影で、三度、尾行した。——馬車は、まっすぐ、彼女の屋敷に帰った。誰とも、会わなかった。
マルチェッラに、観察を、頼んだ。——「お召し物に、不審の点は、ございません。お仕立ても、お作法も、——本物の、奥様のものです」
身元も、調べた。——パピニアーニ判事の未亡人。夫の死後、体調を崩して、領地で、長く静養していた。快復して、去年、王都に戻った。社交界の年配の方々は、皆、彼女を、覚えていた。
全部、——白だった。
……疑った私が、恥ずかしくなるくらい、白。
……ヴィオラの時と、同じ目で、見てしまった。
……あの方に、謝りたいくらい。
◇
サロン。
クレメンティアが、窓辺の椅子から、立ち上がった。
齢は四十歳前後。その佇まいには、時の流れが育んだ極上の気品と、すべてを包み込むような慈愛が満ちていた。身に纏っているのは、華美な装飾を排した、落ち着いた灰青のドレス。仕立ての良さが窺える上質な生地は、彼女の洗練された身のこなしに合わせて、静かに、優雅な軌跡を描いた。
優しく波打つ栗色がかった髪は、陽の光を浴びて温かみのある陰影を落とし、見る者の心をそれだけで安らがせる不思議な魅力を持っていた。そして、その琥珀色の瞳は、微かに目尻を下げて律子を見つめる。その眼差しは、まるで蜂蜜か、陽だまりの木漏れ日のように温かい。
彼女がそこに立ち、微笑みかけるだけで、部屋の空気は一瞬にして和らいでいく。徹夜明けで心身ともに疲れ切った律子も、彼女の放つ包容力の前には、まるで春の陽気に溶ける雪のように、無防備に解きほぐされていた。
「プルデンティア様」
「クレメンティア様。ようこそ、おいでくださいました」
律子は、令嬢の礼をした。
クレメンティアは、礼を、返して、——それから、律子の顔を、見た。
琥珀色の目が、覗き込む。
「……また、夜更かしを、なさったのね」
「——あら」
「目の下に、書いてありますわ」
……ばれた。
……この方には、いつも、ばれる。
「アルカディアの、魔法契約法が、——どうしても、頭に入りませんで」
「まあ」
クレメンティアは、笑った。それから、律子の髪に、目を、やった。
慌てて結い直した、髪。ジーナの応急処置の、髪。
「——プルデンティア様」
「はい」
「そこに、お掛けなさいな」
クレメンティアは、鏡台の前の、椅子を、指した。
「え、——」
「櫛を、お借りするわね」
◇
律子は、鏡台の前に、座っていた。
クレメンティアが、後ろに、立った。
髪の紐が、解かれた。プラチナブロンドの髪が、背中に、落ちた。
櫛が、——髪に、入った。
ゆっくりと、根元から、毛先へ。
「……」
……あ。
……これは。
……駄目だわ、これは。
櫛の歯が、地肌を、優しく、撫でていく。もつれが、少しずつ、解けていく。
四十三年と、十七年、生きてきた。
人に髪を梳いてもらうことが、——こんなに、効くとは、知らなかった。
いや、——知っていた。
忘れて、いただけだった。
……お母さま、も。
……こうやって。
鏡の中で、クレメンティアが、髪を、梳いていた。
琥珀色の目は、手元の髪だけを、見ていた。丁寧な、手つきだった。
「——本ばかり、お読みになって」
クレメンティアの声は、咎める声では、なかった。
「インクの染みも、こんなに」
「——お恥ずかしゅう、ございます」
「これから、公妃におなりになる方が、——これでは、駄目よ」
「——はい」
「アルカディアの社交界は、セルヴィアより、ずっと、目が多いの。髪の一筋まで、見られてよ」
「——はい」
櫛が、また、根元から、入った。
「——こんなに、素敵な女性に、おなりになったのに」
律子の胸の、真ん中に、——その言葉は、まっすぐ、入った。
「——」
……素敵な、女性。
……お母さまは、——成長した私を見ていない。
……十三歳で、止まったまま。
……新しいドレスを着せて、鏡の前で回ってご覧なさい、と言った、——その日の夕方に。
……この方は、今、——お母さまの見ていない私を、見てくださっている。
鏡の中の令嬢の目が、少しだけ、潤みかけた。
律子は、まばたきで、それを、散らした。
「——ありがとう、ございます」
「あら、お礼を言われるようなことじゃ、なくてよ」
クレメンティアは、笑って、梳き続けた。
……お母さま。
……と、呼んだら、——この方は、困るかしら。
……困るでしょうね。まだ、お父さまと、婚約もしていないのだし。
……でも、——心の中でなら、いいわよね。
……お母さま。
律子は、心の中で、そっと、呼んでみた。
鏡の中の、柔らかい人は、気づかずに、髪を、梳いていた。
椅子の下で、——律子の影が、部屋の隅の方へ、細く、伸びていた。
クレメンティアの足元から、遠い方へ。
律子は、気づかなかった。
◇
「アルカディアへは、——明後日、お発ちになるのよね」
クレメンティアが、梳きながら、言った。
「あ、——いえ、明後日は、リミニへ」
「あら、リミニ?」
「お友達と、卒業の旅行を。一週間ほどで、戻ります。アルカディアへ発つのは、——その十日ほど後に」
「まあ、お忙しいこと」
クレメンティアの櫛は、止まらなかった。
「アルカディアへは、船? それとも、街道かしら」
「街道です。馬車を、乗り継いで」
「お荷物は?」
「先に、船便で」
「お供は、ジーナさんだけ?」
「護衛が、付きます」
「それなら、安心ね」
クレメンティアは、櫛を置いて、律子の髪を、手早く、編み始めた。
「——お発ちの日は、お見送りに、伺っても、いいかしら」
「まあ、——ぜひ」
「クラウディウス様は、ああいう方だから、——寂しいのを、お顔に、お出しにならないでしょうけれど」
「——ふふ。ええ」
「私が、代わりに、泣いて差し上げるわ」
……ああ、もう。
……大好き。
編み上がった髪が、肩の前に、下ろされた。ゆるい、優しい、編み方だった。
クレメンティアは、鏡台の櫛を、取り上げた。櫛の歯に、プラチナブロンドの髪が、何本か、絡んでいた。
彼女は、それを、丁寧に、取り除いて、——懐紙に、包んだ。
「お掃除、しておくわね」
「あ、——恐れ入ります」
懐紙は、彼女の袖の中に、消えた。
自然な、所作だった。




