第70話 侯爵令嬢、最後の授業を受ける
勉強の間に、戻った。
サントーニは、お茶を、一口、飲んだ。それから、真顔に、戻った。
「——形の方は、もう、僕が言うことは、ありません。魔力も減らないみたいですし」
「ええ。遊んでいる分には、影は、薄くなりませんの」
「写しの方は、——今、どこまで?」
律子は、少し、考えた。
「——本、一冊なら」
サントーニの手が、止まった。
「——一冊」
「本気を出せば、で、ございますけれど」
「四年前は、表紙の輪郭で、精一杯でしたよ」
「毎晩、練習いたしましたから。——ただ」
「ただ?」
「高く、つきます。一冊写しますと、影が、しばらく、頼りなくなりますの。——ですから、紙で済むことは、紙で」
律子は、机の上の、付箋の旗を、指した。
「写しは、切り札。付箋は、日常。——費用対効果、で、ございます」
「——」
サントーニは、しばらく、律子を、見ていた。
「——お嬢様は」
「はい」
「力を持っていても、——使わない訓練を、なさったんですね」
「先生が、仰いました。『一度に、使う量を、決めておいてください』と」
「——覚えてらしたんですか」
「先生のお言葉は、全部、目録に、書いてありますの」
サントーニは、頭を、掻いた。掻きながら、少し、笑った。照れた時の、掻き方だった。
◇
窓の外で、風が、動いた。白薔薇の枝が、揺れた。
サントーニが、——眼鏡を、外した。
律子は、背筋を、正した。
……眼鏡を外す時は、——本題の時。
「——お嬢様」
「はい」
「最後に、一つだけ、——今までお話しなかったことが、あります」
「——」
「四年間、——一度も、口にしませんでした」
サントーニは、眼鏡を、机に、置いた。
「お嬢様の影は、——一度だけ、人の影を、掴んだことが、あります」
律子の指先が、——止まった。
……劇場の大階段。
「——ご存じ、でしたのね」
「最初の授業の、前の日に、——閣下から、伺いました」
「——」
「刺客たちの影に、お嬢様の影が、絡みついて、——刺客たちは、動けなくなった、と」
律子は、静かに、頷いた。
「私も、後から、聞きました。——私自身は、見ておりませんでした。その時は、——お母さまだけを、見ておりましたから」
「——ええ」
サントーニは、少し、間を、置いた。
「——僕が、この家に呼ばれたのは、その事件が、あったからです」
「——」
「魔法の制御を教えるため。——本当は、あの魔法を管理するために、雇われたのだと、思っています」
「四年間、——そんなお話はなさいませんでした」
「必要が、なかったからです。お嬢様の影は、——優しかった」
サントーニは、机の上の、自分の眼鏡を、見た。
「でも、間もなく、アルカディアへ、お発ちになる。——だから、今日、お話します」
◇
「影は、——その人の、内側の光が、地面に落ちた、写しです」
サントーニの声は、講義の声に、なっていた。四年間、聞いてきた声。ただ、いつもより、低かった。
「写しを、押さえられれば、——本体も、動けません」
「——」
「影を支配するということは、——その実体を、支配するということです」
律子は、足元の影を、見た。
影は、椅子の下で、静かに、していた。
「刺客たちが動けなかったのは、そのためです。お嬢様の影が、——彼らの、実体を、押さえていた」
「——あの時は、影が、勝手に」
「ええ。ご自分の意思では、なかった。——だから、まだ、いいんです」
サントーニは、そこで、言葉を、切った。
それから、まっすぐに、律子を、見た。眼鏡のない、素の、緑の目だった。
「あれを、ご自分の意思で、なさるなら、——内側の光を、恐ろしいレベルまで、燃やすことに、なります」
「——」
「写しの、比では、ありません」
「——」
「——使わないで、ください」
部屋が、静かだった。
窓の外で、薔薇の枝が、また、揺れた。
……使えば、人を、支配できる。
……刺客でも。魔法使いでも。
……お母さまを殺した、ような、連中でも。
……でも、先生は、言っている。
……その度に、私は、私の光を、燃やす。
律子は、令嬢の声で、——しかし、はっきりと、答えた。
「畏まりました」
「——」
「使いません」
サントーニは、しばらく、律子の目を、見ていた。
それから、息を、吐いた。眼鏡を、取り上げて、掛け直した。
いつもの先生の顔に、戻った。
◇
「——さて、それでは、湿っぽい話は、終わりにして」
「あら、まだ、何か」
「宿題です」
「宿題」
「アルカディアでは、入学と同時に、魔法の登録が、あります。評議会の、監察棟で」
「伺っております」
「お嬢様の魔法を、——評議会は、何と、分類するんでしょうね」
律子は、少し、首を、傾けた。
「先生は、——何と、お考えですの」
サントーニは、お茶を、飲み干した。
「初日に、——闇魔法と、申し上げました」
「ええ。覚えております」
「——あれは、誤診です」
「……あら」
「四年の間、見せていただいて、——考えが、変わりました」
サントーニは、窓の外の、春の光を、見た。
「影は、内側の光から、生まれる。写しと、相性がいいのも、光の魔法だからです。音が届かないのも、——光の現象だからです。光は、音を、運びませんから」
「……」
「僕は、——光の魔法の、亜種だと、思っています」
……光。
律子は、足元の影を、見た。
黒い影が、午後の光の中で、静かに、伸びていた。
……影が、——光の魔法。
……光の亜種。
……実感はわかない。
……でも、——嫌いじゃない。
「評議会が、何と、言いますか」
律子が、言った。
「ええ。それが、宿題です。——登録が済んだら、手紙で、教えてください」
「畏まりました」
「僕の誤診が、——一つで済むか、二つになるか」
二人で、笑った。
◇
玄関先。
ロドリゴが、先生の馬を、引いてきた。栗色の馬。四年間、この屋敷に、通い続けた馬。
サントーニは、鞍に、手を掛けて、——それから、振り返った。
「お嬢様」
「はい」
「四年前、——自分に嘘をつかないように、と、申し上げました」
「——覚えております」
「——守られましたね」
律子の胸の、どこかが、——少しだけ、痛んだ。良い方の、痛みだった。
「先生の、お陰です」
「いえ。——僕は、見ていただけです」
サントーニは、ひらりと、馬に、乗った。四年前と、同じ、身のこなしだった。
「では、お嬢様。——お元気で」
「先生も。——四年間のお運び、ありがとうございました」
律子は、深く、令嬢の礼を、した。
蹄の音が、遠ざかっていった。
春の道の向こうに、栗色の馬が、小さくなって、——消えた。
律子は、しばらく、門の前に、立っていた。
足元で、影が、——道の方を、向いていた。




