第69話 侯爵令嬢、十七歳になる
卒業の春の、ある午後。
セヴェリーニ侯爵邸の、勉強の間は、——本の山に、埋もれていた。
机の上に、三列。床に、五つの塔。窓辺の長椅子の上にまで、開いたままの本が、伏せてあった。
どの本の小口からも、小さな紙の旗が、何枚も、突き出していた。赤い旗。青い旗。書き込みの、ある旗。
本の山の間に、——令嬢が、一人、埋まっていた。
プラチナブロンドの髪を、紐で、無造作に、束ねている。指先に、インクの染み。膝の上に、アルカディアの魔法契約法の、注釈書。
目は、——閉じていた。
……。
通りから、蹄の音が、聞こえた。
アイスブルーの目が、——開いた。
「——、」
律子は、跳ね起きた。膝の本が、滑り落ちかけ、両手で、受け止めた。
……サントーニ先生。
……今日が、最終授業。
……分かっていたのに、——読みながら、寝た。
……徹夜で読む方が悪い。分かってる。
……でも、魔法契約法だけは、前世の貯金が、一円も効かないのよ。
律子は、立ち上がった。少し、ふらついた。本の塔に、肩が触れた。塔が、揺れた。
「あっ、——」
塔は、倒れなかった。
律子は、息を、吐いた。
本の塔の間の、机の隅に、書きかけの手紙が、一通、挟まっていた。
アルカディアの、カリスト殿下への、お返事だった。いただいたお手紙は、学府の馬場の話が、三枚。
……返事を書けないまま、四日になる。
……前回は、お馬の話に、判例の話で返したら、お返事が一月、遅れたのよね。
……何を書けば、いいのかしら、私。
◇
廊下の鏡の前。
ジーナが、大慌てで、律子の髪の紐を、解いていた。ジーナは、この四年間、もう背は伸びなかった。律子より背は高いが、その差は縮んでいた。ほんの少しだけ、彼女も大人らしい顔つきに変わっていた。
「お嬢様、お髪が、——お髪が、大変なことに」
「ええ、知っているわ」
「昨夜も、灯りが、朝まで」
「ええ」
「マルチェッラさんに、言いつけますからね」
「あら、怖い」
ジーナの手が、手早く、髪を、整えていく。
鏡の中に、——十七歳の令嬢が、いた。
プラチナブロンドの髪は、背の半ばまで、伸びていた。陶器のような白い肌。頬の線から、子供の丸みが、消えていた。アイスブルーの瞳。
……あら。
律子は、鏡を、見た。
……この顔。
……乙女ゲームのパッケージに、追いついて来たわね。
……眩く立ち並ぶヒロインと友達の令嬢たち。そして攻略対象となる素敵な殿方たち。
……中身は、寝不足の、四十三歳だけどね。
目の下に、うっすらと、影が、あった。公の場に出るときの白薔薇のような気高さは微塵もない。くたびれた綿のブラウスと膝丈のスカートは、あちこちに皺が寄り、まるで彼女の心身の疲弊を映し出しているようだった。
ジーナが、鏡越しに、それを、睨んだ。
「お嬢様は、お綺麗なんですから、——もっと、大事になさってください」
「ありがとう、ジーナ」
「わたしが言ってるんじゃありません、みんな言ってます! 先週の卒業式でも、皆さま、振り返って——」
「はい、はい」
……卒業式ね。
……振り返られていたのは、たぶん、顔じゃなくて、噂の方よ。
……「人の同意を無効にする研究をしている令嬢」。
……悪名は、消すものではなく、使うもの。——ルクレツィア様の、教えだけど。なかなかうまくはいかない。
律子は、鏡の中の令嬢に、背筋を、伸ばさせた。
侯爵令嬢の所作が、——戻った。
◇
勉強の間。
扉が、開いた。
「失礼します、お嬢様」
サントーニが、入ってきた。乗馬服。栗色の髪に、春の埃。銀縁の眼鏡。
四年前と、同じだった。
ただ、——お辞儀だけが、少し、深くなった。
「お運びいただき、ありがとうございます、サントーニ先生」
律子も、令嬢の礼を、返した。
サントーニは、顔を上げて、——部屋を、見た。
本の山。本の塔。紙の旗。
「…………」
「——あの、先生」
「お嬢様」
「はい」
「ここ、——書庫でしたっけ」
「勉強の間で、ございます」
「そうですよね」
サントーニは、一番近い塔の、一番上の本を、見た。小口から、赤い旗が、七枚、突き出していた。
「——この、旗は?」
「付箋で、ございます」
「フセン」
「印を付けたい頁に、貼っておく紙です。——蜜蝋に、羊脂を練り込みますと、貼って、剥がせて、また貼れる、糊になりますの」
「……貼って、剥がせる」
サントーニが、旗を一枚、そっと、つまんだ。剥がれた。もう一度、押した。付いた。
眼鏡の奥の、緑の目が、丸くなった。
「——お嬢様、これ、どこで」
「ジーナと二人で、練りました」
「売れますよ、これ」
「あら」
「学者は、全員、買います。僕も、買います」
「差し上げます。——ああ、でも、先生」
「はい」
「借り物の本には、お使いになりませんように。——蝋ですから、薄く、跡が残ります。自分の本にだけ、と、決めておりますの」
「——」
サントーニは、旗を、元の頁に、戻した。
それから、軽く、頭を、掻いた。
「四年前は、——影が、バゲットになる方でしたけどね」
「今も、なりますわ」
「でしょうね」
二人で、笑った。
◇
お茶が、運ばれてきた。
最初の授業と、同じ席。同じ茶器。
マルチェッラが下がり、扉が、閉まった。
サントーニが、茶器を、置いた。
「——それで、お嬢様。今日は、最後なので」
「はい」
「授業は、しません」
「あら」
「代わりに、——見せてください。四年分の成果を」
律子は、窓の外を、見た。
春の午後の庭。芝の緑。白薔薇が、咲き始めていた。
「——庭で、よろしいでしょうか」
「ぜひ」
◇
庭。
春の光が、高い位置から、落ちていた。
律子は、芝の上に、立った。足元に、影が、短く、落ちていた。
サントーニは、少し離れて、腕を、組んだ。
律子は、影に、——頼んだ。
……ウサギ。
影が、動いた。
足元から、影が、するりと、離れた。芝の上を、走った。走りながら、——千切れた。
一羽。二羽。四羽。八羽。
影のウサギが、増えていった。
芝の上を、跳ねた。薔薇の根元を、くぐった。二羽が、追いかけ合った。一羽が、立ち止まって、長い耳を、立てた。
庭一面に、——影のウサギが、舞っていた。
春の光の中で、黒いウサギたちが、音もなく、跳ね回っていた。
サントーニは、——動かなかった。
眼鏡の奥の目が、庭中のウサギを、順に、追っていた。
「……四年前」
彼が、言った。
「ウサギを、お願いしたら、——バゲットが、出ましたね」
「出ましたわね」
「——ミートパイも、出ました」
「出ましたわね」
律子は、令嬢の笑みで、答えた。
その時。
律子のお腹が、——小さく、鳴った。
徹夜明けの、昼食も、忘れていた身体だった。
「——あ」
庭のウサギたちが、——一斉に、止まった。
ウサギの形が、崩れた。溶けた。集まった。
芝の上に、——大きな、影の食卓が、広がった。
丸鶏の、ロースト。湯気まで、影で、表現されていた。バゲットの、籠。ミートパイ。丸いチーズ。積み上がった、焼き菓子。中央に、堂々と、三段のケーキ。
庭一面の、影の晩餐だった。
「——」
「——」
律子は、額に、手を、当てた。
「——お嬢様」
「——仰らないで、ください」
「本当に、——お腹が、お空きなんですね、魔法をお使いになる時」
「——昨夜から、本ばかり読んでいて」
サントーニは、——堪えきれずに、笑った。声を上げて、笑った。四年間で、一番、大きな笑いだった。
影の食卓の上で、影の湯気が、のんびりと、揺れていた。
……笑いなさい、笑いなさい。
……四年やって、これだもの。
……でも、——先生のこの笑い顔も、今日で、最後なのよね。
律子は、笑っている先生を、少しだけ、長く、見た。




