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悪役令嬢の幸福論 ~異世界のリーガルロマンス~  作者: 木霊裕一郎
セルヴィア・法曹予備学院編
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第68話 侯爵令嬢への、遺言


 冬の終わりの、大学の図書館の出来事だった。


 高い窓から、薄い光が斜めに落ちて、閲覧室の長机を照らしていた。頁をめくる音と、遠くの咳払いのほかには、何の音もない。


 新着の学術誌の棚の前に、一人の紳士が立っていた。


 五十代に見える。中背、痩せ型。白髪混じりの髪を、後ろに撫でつけている。目尻に深い皺があった。月に一度、新しい紀要に目を通しに来る、古書店の主。図書館の司書たちは、その横顔を見慣れていた。


 紳士は、届いたばかりの学術誌を開いて、——立ったまま、動かなくなった。


 一ページ目から、最後のページまで。栞も挟まず、椅子にも座らず、読み通した。


 読み終えた時、学術誌を持つ手が、震えていた。


 その手が、——年齢の割に、不自然に若々しかった。


 紳士は、震える手のまま、論文の題目を、もう一度、読み直した。


 「置換魔法契約における当事者の法的地位——現行法の射程と空白ついて」


「……凄い」


 思った以上に大きな声が、漏れた。近くの席の学生が、迷惑そうに振り返った。紳士は、気づかなかった。


「あの人が求めていたのは、——まさに、まさに、これだ」


 紳士の想いは、あの日に、戻っていた。


 ◇


 あれは、夕陽の射す寝室だった。


 窓辺の机に、小さな青銅の天秤が置いてあった。長く使われた道具の色をしていた。皿の上には、何も載っていなかった。


 その机の向こうの寝台に、年老いた女性が、横たわっていた。


 肩に、赤い織物を掛けている。若い頃、赤いコートを翻して評議会の廊下を歩いた人の、最後の赤だった。頬は削げ、髪は白い。けれど、目の光だけが、昔のまま鋭かった。


 見舞いの花を抱えた紳士が部屋に入ると、女性は、寝台の上で半身を起こした。


「呼び立てて、すまないな。ルカ」


「いえ。時間を持て余している古本屋ですから。——アリアドネ議長の御用なら、いつでも参上しますよ」


「議長の座は、もうテオフィロに譲ったよ」


 女性は、笑った。息が、少し掠れた。


「今はね、——死ぬまでに、何とか法案を形にしようと、粘っている」


 寝台の脇の小机に、紙の束が積んであった。書き込みと、線と、書き直しの跡。病人の枕元に置くには、多すぎる紙の束だった。


「置換魔法を、抑制する法案ですね」


「ああ。——魔法には、常に副作用がある。だから、暴走が抑えられてきた。術者自身が傷つくからだ」


 女性は、窓の外の夕陽を、見た。


「副作用の外にある置換魔法は、——(たが)が、外れたままだ」


「あなたなら、出来ますよ」


「いや。——今度も、法案は通らないだろう」


 あっさりと、言った。何度も数えた敗北を、もう一度数えることを覚悟した、乾いた声だった。


「所詮、私は政治家であって、——法律家ではない」


「法律家が、必要ですか」


「ああ。法律家が必要だ。それも、——世界の法律の地図を、塗り替えるような」


「それほどの法律家は、どこにいるのでしょうね」


「そこで、——あなたに、お願いがある」


「お願い、ですか」


「その箱を、開けてくれ」


 女性は、机の上の宝石箱を、指さした。天秤の、隣にあった。


 言われた通りに、紳士が蓋を開けると、——淡い光が、溢れた。


 蝋の塊が入っていた。半透明の蝋の中に、小さな白い結晶が封じられて、内側から、静かに光っていた。夕陽の部屋で、そこだけが、別の時間のように明るかった。


 彼も、数十年前に、見たことのある光だった。


「これは——」


「ああ。——魔道物質、アルカーナム。あなたたちが発掘した、エアルの宝だ」


「どうして、これを、あなたが」


「エリザベート女王から、預かった。『貴女が持っていた方が良いと思っただけですわ』と、——いつもの調子だったよ」


「ああ、——なるほど」


 紳士は、頷いた。エアルの女王は、天然で、掴みどころが無い。しかし、直感で、物事の本質を見抜いている。あの若さのまま歳を重ねたような笑顔が、目に浮かんだ。


「これを使って、私の無効化魔法で、——世界中の置換契約を、元に戻してやろうかと、考えたこともあるよ」


「でも、——やらなかった」


「ああ」


 女性は、紙の束に、目をやった。


「リーナが世界中の不平等契約を消しても、今の世の中は、新しい不平等契約で満ちている。——一度の奇跡では、駄目なんだ。制度を、作らないと」


「それで、——法案を、作り続けているのですね」


「でも、力及ばずだ」


 女性は、息を整えた。それから、まっすぐに、紳士を見た。昔、評議会で居並ぶ反対派を黙らせた目だった。


「このアルカーナムを、あなたに託す。——将来、質の良い召喚魔法使いが現れたら、法律家を、召喚して欲しい」


「法律家を? ——一体、どこから」


「あの男のいた世界。——我々よりも遥かに産業が発展し、法律も整備されている世界からだ」


 紳士は、息を呑んだ。


「アルヴィン、——いや、阿久津のいた世界の、法律家……」


 夕陽が、天秤の皿を、赤く照らしていた。


「——確かに。それなら、——法律の地図を、塗り替えられるかも」


「私は、もう長くない」


 女性は、静かに言った。


「——頼む」


 紳士は、宝石箱の蓋を、閉じた。淡い光が、蓋の下に、仕舞われた。


 その日から、彼の待つ日々が、始まった。


 ◇


 冬の終わりの、図書館。


 紳士は、学術誌の最初の頁に、目を戻した。著者名が、そこにあった。


 プルデンティア・セヴェリーニ。


 ——はっとして、顔を上げた。


 ……十歳の時に、論文が話題になった少女だ。


 あの時、ペトルス教授に頼んで、『古代諸部族における女性の社会的地位』。——家父長制を論じた少女の、次の問いに合わせて、選んだ一冊。その最初の頁に、書き込んだ。『お嬢様は、Convenis を、ご存じですか』。


 ——数週間後に丁寧な礼状が届いた。『お贈りくださった本、まさに、Convenis、で、ございました』完璧な古代語の答え。しかし、私の予期した反応は、——無かった。


 ……でも、間違いない。


 この論文は、条文を並べただけだ。主張が、一行もない。それなのに、読み終えると、——無い法律の形が、見えている。


 こんな書き方の出来る法律家は、別の世界から来た者としか、思えなかった。


 ……手紙では、駄目だ。

 ……会いに、行かなければ。


 紳士は、勢い込んで、立ち上がった。椅子が、音を立てた。閲覧室中の目が、一斉にこちらを向いた。


 構わなかった。


 十七年間、毎日のように口にしてきた問い——あなたは、今、どこに、いるのです——が、たった今、終わったのだから。


 紳士は、学術誌を棚に戻し、外套を掴んだ。


 冬の終わりの光の中へ、若い手が、扉を押し開けた。

 

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