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悪役令嬢の幸福論 ~異世界のリーガルロマンス~  作者: 木霊裕一郎
セルヴィア・法曹予備学院編
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第67話 侯爵令嬢、弁護士を志す

 

 それから、ルクレツィアは、扇子を、閉じた。


「セヴェリーニ嬢。——最後に、一つ、聞くわ」


「はい」


「あなた、この紙を持って、——次は、どうするつもりだったの」


 律子は、——答えに、詰まった。


 ……調べを、続ける。

 ……お母さまの協力者を、探し直す。残された線を、辿る。

 ……つまり——。


 ルクレツィアは、律子の沈黙を、見ていた。


「——コルネリア様もね、同じことを、なさったのよ」


「——」


「証拠を持って、——私のところへ、いらしたわ。ちょうど、今のあなたのように、——そこに、お座りになって」


 律子の息が、止まった。


「そして、——殺されたの」


「——」


「証拠があれば世界が変わるのなら、——コルネリア様は、今も、生きておられるわ」


 ルクレツィアは、立ち上がった。窓辺へ、歩いた。


 窓の外の庭を、見たまま、言った。


「あなたに必要なのはね、——探偵の真似事では、なくてよ」


「——」


「世の中を、変える力よ。——法律を、変えられる立場に、おなりなさい」


 ……法律を、変える。


 ……契約論の授業で、先生が、仰った。

 ……アリアドネ・テミスは、法案を、持っていた。だが、——法典を、持たなかった。


 ……ルクレツィア様も、言う。

 ……証拠では、世界は、変わらない。


 ……二つの声が、——同じ場所を、指している。


 律子は、立ち上がった。深く、令嬢の礼をした。


「——本日は、——ありがとう、ございました」


「お行きなさい」


 ルクレツィアは、窓辺から、振り返らなかった。


 律子が、扉の前まで、歩いた時。


「——セヴェリーニ嬢」


「はい」


「——死んでは、いけないわ。——それだけよ」


 律子は、もう一度、礼をして、——サロンを、出た。


 ◇


 帰りの馬車。


 アウレリオは律子の顔を見ると、何も言わずに扉を閉めた。車輪が、動き出した。


 夕暮れの光が、窓の布の隙間から、細く入っていた。


 律子は、一人だった。


 ……法律を、変えられる立場に、おなりなさい。

 ……死んでは、いけないわ。——それだけよ。


 ……分かっています、ルクレツィア様。

 ……法律を、変える。法典を、作る。

 ……でも、

 ……何年、かかるの?

 ……卒業までの四年間。——いえ、きっと、もっとかかってしまう。


 ……その間。


 馬車が、石畳の継ぎ目で、小さく、揺れた。


 ……ピエトロ。

 ……マリーア。


 ……お行儀のいい、あの子たち。

 ……散髪の順番を、笑顔で待っていた、あの子たち。

 ……あの子たちの名前が、——台帳に、載っている。


 ……あの子たちは、今夜も、あの施設で、眠る。

 ……自分たちの未来も知らされず。

 ……魔法使いの司祭に洗脳されて。

 ……何も知らないまま。幸せだと、思ったまま。


 ……私には、——今は、何も、できない。


 ……お母さまも、——救えなかった。

 ……私も、——今夜は、救えない。


 目の奥が、熱くなった。


 ……。

 ……屋敷に着くまでは、——泣いても、いいことにするわ。


 四十三年と十三年を生きた律子が、十三歳の身体に、そう、許可を出した。


 涙が、一筋、落ちた。


 それは、誰にも、見られなかった。


 馬車の音だけが、続いていた。


 ◇


 夜。自室に戻ると、律子は、顔を洗ってから、鏡台の前に、座った。


 鏡の中の顔は、もう、泣いていなかった。


 ……さて。


 ……整理は、終わっている。

 ……証拠を集めても、持って行く先が、ない。——お母さまが、証明していた。

 ……先生は、仰った。アリアドネは、法案を持っていた。法典を、持たなかった。

 ……ルクレツィア様は、仰った。法律を、変えられる立場に、なりなさい。


 ……二つを、繋げると、答えは、一つ。


 ……前世の城山律子は、弁護士。

 ……今世のプルデンティアは、侯爵令嬢。


 ……令嬢のままでは、法律は、作れない。


 ……だから。


 ……今世でも、——弁護士になる。


 ……そして、この世界に、まだ無いものを、作る。

 ……法案では、なく。

 ……法典を。


 ……体系が、なければ、空白は、見えない。

 ……空白が見えなければ、——それを塞げない。


 ……時間が、かかる。

 ……でも、私には、千五百年ぶんの、地図の描き方が、頭の中にある。


 ……始めましょう。


 律子は、書き物机に、移った。


 新しい帳面を、開いた。真っ白な、一頁目。


 そこに、小さく、二文字だけ、書いた。


 『地図』。


 燭台の蝋が、短くなっていくのにも、気づかなかった。


 ◇


 翌朝。


 遠くから聞こえるジーナのにぎやかな声で目が覚めた。


 窓から朝日が差し込んでいる。


 律子は、窓辺に立って、——息を、止めた。


 侯爵家の庭園は、まるで一夜にして純白の雪が降り積もったかのような、静謐な驚きに包まれていた。


 昨日までは、冷涼な秋の気配に身をすくめ、固く緑の殻に閉じこもっていた無数の蕾たち。それが夜明けの光が差し込むと同時に、申し合わせたかのように一斉にその潔白な花弁を解き放った。


 視界のすべてを埋め尽くすのは、混じり気のない白。朝露を宿した花びらは、大理石の彫刻のような気品を湛えながらも、昇り始めた太陽の光を透かして、まるで内側から発光しているかのように瑞々しく輝いている。


 石壁を背景に、咲き誇る白薔薇の群生は、冷ややかな秋の空気を格式高い静寂で満たしていく。風がそよぐたび、溢れんばかりの清廉な香香が立ち上り、庭園はまるで、天上の祝祭に染め上げられたかのように厳かで、美しい白銀の世界へと変貌を遂げていた。


 ……お母さま。


 律子は、窓ガラスに、手のひらを、当てた。


 ……昨日、ルクレツィア様に、伺いました。

 ……お母さまが、何を集めて、何と戦って、——何を、お選びになったか。


 ……私も、選びました。


 ……告発と復讐ではなく、

 ……お母さまの想いを、——法律に、します。

 ……時間は、かかります。

 ……でも、必ず。


 ……行って参ります、お母さま。


 白い薔薇が、朝の風に、揺れた。


 律子の足元で、影が、静かに、形を整えた。


 ◇


 セルヴィア法曹予備学院の学術誌に、翌年から、毎年、論文が載った。


 著者名は、プルデンティア・セヴェリーニ。


 十四歳の論文は、損害賠償の話だった。


 同じ事実なのに、使う条文で結果が変わる——という矛盾を、条文の並べ替えだけで、示した。法学界の一部が「面白い」と言った。商人の一部が、不安になった。社交界は、まだ、気づかなかった。


 十五歳の論文は、同意の話だった。二年前の授業で聞けなかった問い。


 記憶を操作された状態での同意は、強迫に含まれるか——という問いを、既存の条文の限界として、論じた。置換契約という言葉は、一言も含まれていなかった。


 この年から、掲載誌は、セルヴィア王立大学の紀要になった。学院の外に出た、最初の論文だった。


 社交界の噂に、新しい一句が、加わった。「人の同意を無効にする研究を、している令嬢」と。


 しかし、書斎で、紀要を読んだ侯爵は、


 「うむ」


 そう、頷いた。


 十六歳の論文は、暴力の話だった。


 冒頭に、こう書かれていた。


「本稿の目的は、暴力を奨励することにない。いかなる場合に暴力が許容されるかを明確にすることは、いかなる者が暴力から保護されるかを明確にすることと同義である」


 社交界を伝わる頃には、——「殺傷の条件を研究している令嬢」に、なっていた。


 噂は、もう、育て親を、必要としなくなっていた。


 十七歳の論文は、——置換魔法契約の話だった。


 初めて、正面から、書かれていた。


 アルカディアとセルヴィア、両国の学術誌に、同時に載った。


 旧教会派の内部で、初めて、プルデンティアという名前が、議題に、上がった。


 モンタナーリ先生は、四本の論文に、一度も、赤を入れなかった。


 最後の論文に添えられた、賢者学府への推薦状に、一行だけ、先生の字があった。


「地図が、完成した」


 ◇


 そして、——卒業の春が、来た。


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