第65話 侯爵令嬢の、悪い噂
生徒たちが、立ち上がる音。話し声。笑い声。教室が、日常に戻っていく。
律子は、まだ、座っていた。
黒板の隅の、小さな文字を、見ていた。
……昨夜の私は、法律の穴を三つ、数えた。
……アリアドネ・テミスは、百年前に、同じ穴を数えて、——法案を書いた。
……三度書いて、三度、負けた。
……足りなかったのは、法案ではなく、——法典。
……法典。
……憲法、民法、商法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法。
……六法全書にまとめられた六つの法典と、それを取り巻く法律たち。
……千五百年かけて、人が整えた、あの体系。
……私ならば、——法典を作れる。
……前世の記憶を、使えば。
律子は、黒板の隅の一行を、ノートの隅に、小さく、書き写した。
黒板の文字は、次の授業の前に、消される。
……あなたの言葉は、——消させないわ。
律子の足元で、影が、静かに、形を整えた。
◇
授業の後。回廊では、秋の光が、柱の間から、床に等間隔に落ちていた。
律子とキアラは、並んで歩いていた。
「ねえ、プルー。今日の貴女の三つの質問、——教室が、しんとしていたわよ」
「あら。——そんなに、変な質問だったかしら」
「変じゃないけど。——正直、途中から、何のお話か分からなかったわ。でも、誰も、笑わなくなったもの」
……そうね。
……笑えない話だもの。
「ところで、キアラ。——一番奥の席の方、ご存知?」
「ああ、あの背の高い方? 今年の転入生よ。編入試験の成績が、凄かったんですって」
「そうなの」
「お知り合いに、なりたいの?」
「いいえ。——ノートをお取りにならないから、少し、気になっただけ」
「変なところを見ているのね、貴女は」
……ええ、まあ。
……違和感は、あった。
……でも、今は、転入生に関わっている暇はないか。
キアラが、ふと、歩調を緩めた。
「ねえ、プルー」
「ええ?」
「怒らないで、聞いてくれる?」
「あら、——改まって、何かしら」
キアラは、少しだけ、声を落とした。
「最近、社交界で、——貴女の噂が、広まっているの」
「噂?」
「『影の魔法で、人を脅す令嬢』。——それから、『子供とは思えない頭で、人を陥れる』って」
律子は、歩みを、止めなかった。
……影の魔法で、人を脅す。
……晩餐会の夜、あの暴走は、広間の全員が見た。事実。
……子供とは思えない頭で、人を陥れる。
……人を、陥れたこと、ないけどなぁ。
……でも、それは私の主観。
……そう捉える人がいるとすれば。
……あら。
……応接間でお話した、あの方だけ。
……後半は、あの方にしか、言えない台詞ね。
「うちは商会だから、お茶会の話が回ってくるのが、早いのよ。それでね、——悔しくて、出どころを、少し、たどってみたの」
「まあ。——キアラが?」
「だって、影の件は、——あれは、私のためだったのに」
キアラは、口を尖らせた。それから、少し言いにくそうに、続けた。
「……ヴィオラ・ダルコ様の、お名前が、あったわ。出どころの、お茶会の席に」
……伝聞の、伝聞。——確定では、ない。
……でも、噂の中身が、同じ名前を指している。
「でもね、プルー。——私、分からないの」
「ええ?」
「ヴィオラ様って、あの夜、歌ってくださった方でしょう? 凍った広間を、たった一声で、救ってくださった。あんなに素敵な方が、どうして、貴女の悪い噂なんて」
律子は、二歩だけ、黙った。
……さて。
……どこまで、話す?
……愛人の件は、——言わない。
……あれを知り得たのは、私だけ。漏れれば、出所は一つしかない。
……理由は無しで、結論だけ。
……あら。
……詳細を落として、本当のことだけ言う。
……ヴィオラ様と、同じ手だわ。
「キアラ。——これは、絶対に、内緒よ」
「……うん」
「あの方はね、あの夜の後、——お父さまと、親しくなさっていたの」
「え——」
「でも、お父さまに、ふさわしい方では、なかった。——だから、私が、お引き取りいただいたの」
キアラは、目を丸くした。
二秒。
それから、——噴き出した。
「——そんなこと、してたの? 貴女が?」
「ええ」
「十三歳の令嬢が、お父さまの、その、——お相手を、追い出したの?」
「言い方に、棘があるわね」
「だって」
キアラは、扇子で口元を隠して、まだ笑っていた。ひとしきり笑ってから、——ふ、と真顔になった。
「——でもね、プルー。ああいう方に恨みを買うと、怖いわよ」
「ええ」
「あれだけ、お声の通る方よ。——悪い噂だって、よく通るわ」
……上手いことを、言うわね。
律子の頭の中で、あの日の応接間の記憶が、開いた。自分で組んだ、三つの条件。
……第一、お父さまのお側に、近づかないこと。
……第二、社交界で、お父さまの評判を傷つける発言をしないこと。
……第三、あの日の話を、他言しないこと。
……「影の魔法で、人を脅す令嬢」。
……「子供とは思えない頭で、人を陥れる令嬢」。
……お父さまには、近づいていない。
……傷つけているのは、お父さまの評判ではなく、——娘の評判。
……あの日の話の中身は、——一言も、漏らしていない。
……三つとも、掠ってすら、いない。
……しかも、嘘とは言えない。
……影の暴走は本当。人を陥れた、——とも、言えなくもないか。
……悪意で、束ねてあるけれど、反証する場所が、どこにもない。
……見事だわ。
……契約書は、負けた側が、一番よく読む。
……前世で、何度も見たことだったのに。
……弁護士として十五年、契約書を書いてきて。
……自分を、条項に、入れ忘れた。
扇子を持つ指に、少しだけ、力が入った。
「プルー? ——怒って、いいのよ?」
「怒っていないわ」
「——本当に?」
「ええ。——実害を、考えていたの」
「実害?」
「傷ついているのは、今のところ、私の評判だけ。お父さまでも、お家でもない。——なら、後回しにできるわ。今は、他に、することがあるもの」
キアラは、律子の顔を、まじまじと見た。それから、ふ、と息を吐いた。
「——あのね、プルー」
「ええ?」
「そういうところが、——たまに、ちょっとだけ、恐ろしいのよ。貴女」
「あら」
律子は、扇子の陰で、少しだけ、笑った。
……キアラにまで、言われてしまったわ。
……でも、そうね。
……十三歳は、こういう時、泣くなり、怒るなり、するものだわ。
……冷静に実害を計ったりは、——しない。
「でも、教えてくれて、ありがとう。キアラ」
「うん。——何かあったら、言ってね。うちは商会だから、耳だけは、多いの」
「ええ。——頼りにしているわ」
◇
キアラと別れて、律子は、一人で回廊を戻った。
……さて。
……整理しましょう。
……告発の道は、昨日の夜に、三本とも潰れてしまった。今日の授業で、それが確定した。
……法律の穴は、本物。現行法では、手が出せない。
……なら、次に知るべきことは、何?
……お母さまは、同じ穴の前に、立っていらした。
……それなのに、———殺された。
……つまり、お母さまは、穴の前で、何かを、お持ちだった。
……法律で裁けないはずなのに、——相手が、殺してまで、止めたくなる何かを。
……それが何か、知っていそうな方に、一人だけ、心当たりがある。
……「コルネリア様のお嬢様ね。目が、似ているわ」。
……ルクレツィア・フォンターナ伯爵夫人。
……治安長官の、奥方。——お母さまを、知っている方。
……お手紙を、書きましょう。
律子の足元で、影が、歩調に合わせて、静かに、揺れていた。




