第64話 侯爵令嬢、法律の穴を見る
その夜。律子は自室で一人、考え続けていた。
燭台の灯りが、書き物机の上だけを、丸く照らしていた。
机の上に、紙が置かれている。影が孤児院から写し取ってきた、文字の断片。
「聖騎士団附属慈善管理局」
「素材管理台帳 提出のこと」
「リミニ商会連合 グロッソ商会」
律子は、椅子に座ったまま、動かなかった。
……さぁ、どうする、って。
……言ってはみたものの、これは難題。
……考えましょう。
……証拠の断片は、手に入った。敵の輪郭も、見えた。
……なら、次の手は、——告発だろう。
……だが、この証拠を、どこへ、持って行く?
……治安判事。
……何の罪で?
……子供の髪を集めて保管することを、禁じる法律は、ない。
……罪名の書けない告発状は、受理すら、されない。
……教会法廷。
……孤児院は、教会の認可。裁くのは、——旧教会派。
……被告の身内が、裁判官席に座る法廷。
……世論。
……「慈善施設を、髪のことで訴えた侯爵令嬢」。
……先に潰されるのは、こちら。——お父さまごと。
律子は、目を閉じた。
……詰んでいる。——ように、見える。
……前世なら、道は何本もあった。
……児童福祉法。個人情報保護。行政の立入検査。
……この世界には、——それが一本も、ない。
……いえ。
……「ない」と、私が思っているだけ、かもしれない。
律子は、目を開けた。
……私は、この世界の法律の全部を、知っている訳ではない。
……古代法。教会法。世俗法。あちこちに散らばった条文の、どこかに。
……見落としが、あるかもしれない。
……あってほしいのだけれど。
……明日は、契約論の授業がある。
……モンタナーリ先生は、この国の契約法の、生き字引。
……確かめましょう。
……法律の穴が、——本当に、穴なのか。
律子は、証拠の紙を、引き出しの奥に仕舞って、——鍵を、かけた。
それから、足元の影に、目を落とした。
……あなたは、よく働いてくれたわ。
……でも、あの魔法使いに、気づかれた。——しばらく、無理はさせられない。
……次に働くのは、影ではなくて、——私。
窓の外は、暗い。庭の輪郭だけが、月の下にある。
お母さまの薔薇は、蕾のまま、固く閉じている。秋の薔薇は、まだ咲かない。
律子は、灯りを、消した。
◇
翌朝。律子は決意を胸にセルヴィア法曹予備学院へ登校した。
教室では、窓から入る光が、白い石の壁を、斜めに、切っていた。
律子は、いつもの席に着いた。隣から、キアラが声をかける。
「プルー、今日は契約論よ」
「ええ」
「貴女の、お好きな」
「あら、——分かる?」
「分かるわよ。契約論の日の貴女、朝から目が違うもの」
……そう、契約は私の古くからのお友達。
……今日は、特にね。
……昨夜から、尋問事項を、三つ、組んできた。
教壇に、モンタナーリ先生が立った。白髪。黒の法衣に、赤の縁取り。眼鏡。教室を一瞥した際に、一瞬、律子と目が合った。
「では、——始めます」
教室に、ノートを開く音と、ペンの音が、満ちた。
律子も、ノートを開いた。ふと、視界の隅。教室の一番奥の席で、一人だけ、机の上に何も出していない生徒がいた。
……あの方。今年の、転入生。
……ノートを、お取りにならないのね。
……やる気がないのかしら。
少しだけ興味を持ったが、今日はもっと大事なことがある。律子の目は、教壇に戻った。
◇
「本日は、——同意の話をします」
先生は、黒板に、一語だけ、書いた。
――同意。
「契約は、同意で成立する。ここまでは、先週の話です。本日は、——その同意が、誰のものなら有効か」
……同意。
……あら、ドンピシャ。——こちらから、伺うまでもなかった。
先生は、教室を見回した。
「事例を出します。ある村の少年が、亡くなった父親の形見の懐中時計を、市場で商人に売った。銅貨三枚で。——この少年は、十一歳。この売買は、有効ですか」
前の席の生徒が、手を挙げた。
「有効です。教会法では、洗礼を受けた信者は、契約能力を持ちます」
「年齢は」
「——問いません」
「左様」
先生は、頷いた。
「教会法の解釈では、洗礼を受けた者は、年齢を問わず契約を結べる。——では、世俗法では、どうですか」
別の生徒が、答えた。
「世俗法には、——規定が、ありません」
「ない。書いていない。——つまり、この国では」
先生は、黒板の「同意」の横に、線を一本、引いた。
「十一歳の少年の同意と、四十歳の商人の同意は、——法律の上では、同じものです」
……一本目。——昨夜、自室で引いた線と、同じ。
……前世なら、未成年者の法律行為は、取り消せた。親権者の同意がなければ。
……この世界には、それが、ない。
……先生の口から、確定。
律子は、手を挙げた。
「セヴェリーニ嬢」
「先生、——一つ、伺っても、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
「ただいまの事例で、少年が売りましたのは、時計でした。——では、少年が売るものが、少年自身の何かでしたら、如何でしょう」
「と、言いますと」
「例えば、——髪、です」
教室が、少し、静かになった。
「髪、——ですか」
「はい。少年が、自分の髪を、商人に売る。銅貨一枚で。——この売買は、有効でしょうか」
先生は、眼鏡の奥で、少し、目を細めた。
「……財産法の対象は、有体物の所有権です。切られた髪は、有体物。少年の物。——売買は、有効でしょうな」
「では、——売らなかった場合は、如何でしょう」
「売らなかった場合?」
「はい。商人が、床屋の床に落ちた髪を、拾い集めて、持ち帰り、保管いたします。少年の許しは、得ておりません。——この商人は、何かの法律に、違反しておりますでしょうか」
先生は、すぐには、答えなかった。
教室の後ろの方で、誰かが、小さく笑った。
「髪なんか拾って、何になるんだよ」
……なるのよ。
……名前と、——血か、髪が揃えば。
……ジーナの髪は、「子供のいたずら」で、切られた。
先生が、口を開いた。
「——違反して、いません」
その厳しい口調に、笑っていた生徒が、笑いを、止めた。
「窃盗ではない。捨てられた髪に、所有権は残らない。人身保護法にも当たりません。あの法律が禁じるのは、身体の自由の拘束です。——集めて保管することは、拘束ではない」
先生は、黒板に、二本目の線を引いた。
「身体から離れたものを、誰が、どう扱ってよいか。——この国の法律は、何も、書いていません」
……二本目。
……ここも、見落としは、なかった。
……あってほしかったのだけれど。
律子は、もう一度、手を挙げた。
「先生。——最後に、もう一つだけ」
「どうぞ」
……三問目。ここから先は、誘導尋問。
……前世の法廷なら、——異議が出るところ。
……でも、ここは教室。異議は、出ない。
「その商人が、——商人ではなく、教会の認可を受けた、慈善施設でしたら、如何でしょう。施設が、預かっているお子様方の髪を、集めて、保管する。——どなたかが、それを、検査できますか」
教室が、今度こそ、静まった。
先生は、律子を、見ていた。
「——できません」
短い答えだった。
「教会の認可を受けた慈善施設は、国家の検査を受けません。世俗の法廷も、立ち入れない。——中で何が行われていても、外から確かめる手段は、法律の上には、存在しません」
……三本目。
……全部、——私が想定した通り。
……一箇所くらい、間違えていたかった。
先生は、黒板の前で、振り返った。
「セヴェリーニ嬢。——貴女の三つの問いを、繋げてみなさい」
……あら。
……投げ返された。
律子は、立ち上がった。背筋を、伸ばした。
「はい、先生。——子供の同意能力が、定義されておりません。身体から離れたものの、法的な地位も、定義されておりません。慈善施設には、監査の義務が、ございません。——従いまして」
律子は、一度、息を整えた。
「子供の髪を集めて、保管し、——その子供に、後から、契約を結ばせることは、——現行法の上では、完全に、合法でございます」
教室は、静かだった。
ただしそれは、理解の静けさでは、なかった。
「……何の話だ?」
「さあ……」
後ろの方で、小さな囁きが、揺れて、——消えた。
……そうでしょうね。
……髪が何に使われるかを知らなければ、——ただの、奇妙な問答。
……サントーニ先生に伺うまで、私も、知らなかった。
……この教室で、意味が分かっているのは、——教壇の上と、——ここだけ。
窓の外で、鳥が一度、鳴いた。
教室の一番奥で、——一人の生徒が、顔を上げた。
背の高い、転入生。ノートを取らない生徒。
律子の視界の隅に、その動きだけが、映った。
先生の視線が、一瞬、教室の奥へ動いて、——そして、戻った。
「——お掛けなさい」
律子は、座った。
先生は、黒板の三本の線を、指した。
「今の法律は、それぞれ、別の時代に、別の問題のために、作られました。古代法は、千年前に。教会法は、教会のために。世俗法は、その場その場の必要のために。——体系が、ない。だから、空白が、見えない」
先生は、チョークを、置いた。
「そして、——見えない空白が、使われています」
……使われて、いる。
……現在形。
……先生、——何かを、ご存知なのね。
◇
「百年前のアルカディアに、——アリアドネ・テミスという魔法評議会の議長が、いました」
先生は、教壇から、静かに続けた。
「アルカディアの賢者学府は、彼女の名前を冠している。彼女は、置換魔法の契約を規制する法案を、——三度、評議会に提出しました」
……置換魔法の、規制。
律子の指先が、ペンの上で、止まった。
……いたの?
……百年前に、——同じ穴を、見た人が。
「三度、——否決されました」
「……何故で、ございましょう」
声が、少しだけ、前に出た。
「法案が悪かったからでは、ありません。——法案が、一本だけだったからです」
「一本、だけ」
「個別の禁止は、全体の地図がなければ、浮いてしまう。『何故これだけを禁じるのか』と問われた時、答える土台が、なかった。——彼女は、最晩年に、書き残しています。『必要だったのは、法案ではなく、法典だった』と」
先生は、少しだけ、遠くを見た。
「私は若い頃、賢者学府で、彼女の草稿を読みました。否決された法案の原本と、覚書は、——今も、学府に、保管されています」
……賢者学府。
……お父さまの、お選びになった場所。
……十七歳になったら、私が通う学校。
「彼女の言葉を一つだけ紹介して、本日の講義を終わります」
先生は、黒板の隅に、小さく、書いた。
――法の空白は、制度の暴力を招く。
「——以上です」
鐘が、鳴った。




