第62話 侯爵令嬢、闇魔法に出会う
庭を一回りした後、テオドラが再び、建物の中へ案内した。
別棟への渡り廊下。石造りのアーチが続いている。
ジーナは歩きながら、窓の外の庭を見た。さっきの男の子が、今度は別の子と一緒に、何か棒のようなものを拾って遊んでいた。
「——礼拝堂は、毎朝使うのですか」
「ええ、朝の礼拝と、夕べの祈りと」
廊下を曲がった。
突き当たりに、重い木の扉。扉の前に、長椅子が一つ。誰かを待っているらしく、七歳くらいの女の子が、膝の上で手を組んで、行儀よく座っていた。
扉の向こうから、低い声が、かすかに聞こえた。
「——あちらが礼拝堂です」
ジーナが首を傾げた。
「誰かいますよ。——今はお祈りの時間じゃないですよね」
「ああ、懺悔でしょう」
「子供が懺悔、ですか」
ジーナが、思わず、くすりと笑った。
「どのようなことを懺悔するのでしょうね。——誰かをいじめてしまったとか」
「ふふ、そうですね。おねしょをしたとか」
テオドラも笑った。
「先週は、ミカエルが林檎を盗み食いしたと言ってきて」
「あら、それは大罪ですね」
二人は笑いながら、扉の前を通り過ぎた。
長椅子の女の子が、ちらりと顔を上げた。ジーナと目が合った。ジーナが小さく手を振ると、女の子は、また膝の上に目を落とした。神妙な顔で。
扉の前を通り過ぎながら、ジーナは足元を見た。
影が、ジーナの足元に、追いついていた。
ジーナは、歩きながら、また、こっそり、重い木の扉を、指さした。
それから、テオドラに向き直った。
「——礼拝堂には、神父様がいらっしゃるのですか」
「ええ、週に三日、来ていただいています。今日はちょうどその日で」
「どちらからいらっしゃるのですか」
「もちろん教会から。子供たちにとっては、お父さんみたいな存在ですよ」
ジーナが頷きながら、足元を確かめた。
影が、ジーナの足元を、離れていった。
◇
律子は、礼拝堂の中を見ていた。
礼拝堂の奥、最も深い影が落ちる場所に、その木製の懺悔室は佇んでいた。
使い込まれた黒ずんだ木肌は、幾人もの罪の告白を吸い込んできたかのように重苦しい。——ステンドグラスから差し込む陽の光が、主のいない祭壇を寒々と照らしている。
きっと、懺悔室の格子窓の向こうから、神父の声が漏れているのだろう。
律子は、影を進め、格子窓の隙間から中を覗き込んだ。
薄暗い椅子の向こう、告解者の席に、小さな人影が座っていた。懺悔に来た子供だ。
格子から差し込むわずかな光が、その横顔を浮かび上がらせる。だが、その顔を見た瞬間、律子の心臓が跳ね上がった。
子供は、笑っていた。
楽しいからではない。頬の筋肉が限界まで引き絞られ、耳の付け根まで引き裂かれたかのような、——凄惨な「笑顔」が顔面に完璧に張り付いていた。瞳は焦点が合わず、虚空を凝視したままピクリとも動かない。
そして、さらなる異様が視界に飛び込んできた。
薄暗い懺悔室の奥、椅子の背もたれの後ろ。
わずかな光があるならば、そこに子供の影が落ちるはずだった。しかし、——それが、ない。
壁にも、床にも、その子供の形をした影が、どこにも存在しない。——まるでそこにある身体は中身のないただの抜け殻で、光を遮る質量さえ失ってしまったかのように。
律子の心に、息が詰まるほどの恐怖が喉をせり上がってくる。
……何が起こっているの?
……見極めなくては。
影を懺悔室の子供側に滑り込ませ、そっと、神父側を覗き込む。
黒い法衣をまとった男が座っている。何かを言い続けている。
よく見ると、子供から、男の手のひらへ、——火の粉のような細かい光の粒が吸い込まれている。
……これは、魔法だ。
その時、神父が顔を上げた。
ゆっくりとこちらへ顔を向けたその首の動きは、生き物というよりは、——錆びついた人形のそれだった。
男の顔には、あるべきものがなかった。
黒目も、瞳孔もない。そこにあるのは、脂ぎった粘膜のような、——濁った「白目」だけだった。まるですべての視力を失っているかのような、あるいは人間ではない別の恐ろしい何かをその眼窩に宿しているかのような、底知れぬ白。
男の指先が、奇妙な角度に蠢く。それは神に祈る聖職者の手ではなく、肉体を、そして魂を弄ぶ魔法使いの歪んだ手つきだった。
「——見たな!」
音が聞こえない世界で、その叫びだけは、はっきりと伝わった。
神父の服を着た魔法使いが、隣の懺悔室から飛び出た。
律子は影を部屋から出した。
……急いで。
魔法使いは、影を見た。そして、影を捕まえようとしているのか、手を伸ばしたまま、後を追い始めた。
……影さん、急いで。
影は、礼拝堂の扉に向かって、滑っていく。
◇
ジーナとテオドラは、修道女が子供たちを集めて読み聞かせをしている部屋に立ち寄っていた。
「今日は麦畑の王様を読みますよ」
「私、それ、好きー」
子供が声を上げ、期待に満ちた顔で修道女を見上げている。
「私の小さい時にもこの本がありました。——今でも人気があるのですね」
ジーナが興奮気味に、喰いついた。
「そのようですねぇ」
テオドラが相槌を打っていると、修道女が本を読み始めた。
◇
むかし、麦畑の国に、最強の王様がおりました。
お父様は、天下無双の剣士。決闘二十一連勝、一度も負けたことがない。
お母様は、天下無敵の飲み師。お酒を二十二杯飲んでも、けろりとしている。
王様は、両方の才能を受け継ぎました。
でも、この国は永世中立国。——よその国で暴れると、問題になります。だから王様は、旅をする時は変装しました。ぼろ布を被って、「ただの旅人でございます」と言いながら、——各国を歩くのです。
ある時、聖シュタインを旅しておりました。
畑で、ごろつきが、農民を困らせていました。
王様は、ぐっと、こらえました。
「中立国の王が——手を出すわけには行きません」
ある時、リミニを旅しておりました。
市場で、ごろつきが、商人を困らせていました。
王様は、またぐっと、こらえました。
「外交問題に、なります」
——しかし。
その夜、宿屋で、地元のお酒が出てきました。
王様は、一杯、飲みました。
「悪くない」
二杯、飲みました。
「まあまあ、でございますね」
三杯、飲みました。
「お母様が名付けたゴールデンフィールドの方が、美味しいですが」
四杯、飲みました。
「……」
五杯、飲みました。
「……」
六杯、飲みました。
王様は、すっと、立ち上がりました。
扉を、開けて、夜の町に、出ていきました。
◇
「どっかーん」
一番小さい子が、先に言った。
「まだです」と修道女が笑った。「——どっかーん。どっかーん。どっかーん」
子供たちが、どっと笑った。
「壁が壊れた!」「十人も縄でしばった!」「自分は寝てる!」
ジーナも、思わず、笑った。
「——従者が申しました。『王様、証拠集めは、どうなさいましたか』。」
王様は、のそりと頭を上げました。『——どうも、お酒を飲むと、どうでもよくなりまして』」
「どうでもよくなったー!」
また、笑いが起きた。
ジーナが一緒に笑っていると、影が、するりと、ではなく、凄い勢いでジーナの影に滑り込んできた。
ジーナは、思わず、足元を見た。
影が、ジーナの影の中に、深く、潜り込んでいた。
震えていた。
「あなた、——震えているの?」
思わず声が出た。
子供たちが、笑いながら、部屋から出ていく。「どっかーん」「どっかーん」と言いながら。
ジーナは、その流れに乗るように、廊下に出た。
テオドラが、待っていた。
「——いかがでしたか」
「ええ、とても楽しいお話で。思わず聞き入ってしまいました」
ジーナは、笑って見せた。
足元の影が、まだ、震えていた。
「今日は本当にありがとうございました。——そろそろお屋敷に帰って、報告しなければいけません。本当に素晴らしい施設だったと」
ジーナが施設長にお辞儀をした。
テオドラが満面の笑みでそれを受け止めた。
「お嬢様にもよろしくお伝えください」
門のところでは、また、警備員の前を横切った。剣と盾の刺繍。騎士団の旗印のような印章だ。
ジーナは馬車に乗り込んだ。扉が閉まった。
ロドリゴが馬を進めた。石畳の音が、始まった。
ジーナは、足元を見た。
影が、ジーナの影の中に、ぴったりと、寄り添っていた。
いつもより、ずっと、近く。
ジーナは、小声で、言った。
「——影さん」
影は、動かなかった。
「——大変だったのね」
影は、また、動かなかった。
ジーナは、窓の外を見た。
聖ルチア孤児院の白い建物が、遠ざかっていった。
門の上の聖ルチア像が、目を閉じたまま、光の中に、立っていた。




