第61話 侯爵令嬢、証拠を押さえる
二人は廊下に戻った。
窓から、庭の木が見えた。葉が風に揺れている。木漏れ日が、廊下の板張りに、模様を作っていた。
廊下を、ジーナとテオドラと並んで歩いた。
「——子供たちの勉強は、誰が教えていらっしゃるのですか」
「修道女が交代で。それと、月に何度か、外から先生をお呼びしています。算術の先生と、語学の先生と」
「語学まで。——それでは、皆さん私より博学でございますねぇ。どちらの言葉を?」
「セルヴィア語と、リミニの商業語ですね。——就職先で使いますので」
「なるほど、そこまで、ご準備されているとは」
廊下が、突き当たりで曲がった。
テオドラが、右に曲がった。
ジーナは、曲がりながら、左の廊下に目をやった。
左の廊下は、少し薄暗かった。突き当たりに、重そうな木の扉が一つ。扉の脇に、小さな看板。
「副施設長執務室」
ジーナは、歩きながら、足元を、一瞬だけ、見た。
影が、ジーナの足元に、静かにあった。
ジーナは、テオドラの死角になるよう、後ろ手を組み、親指で左の廊下の方向を、指した。
影が、ジーナの足元で、わずかに、動いた。
ジーナは、テオドラの後を、続いて歩いた。
◇
……合図ね。
……分かった。
……影さん、行って!
律子は影を、ジーナの足元から離した。
律子の視界が、切り替わった。
廊下。薄暗い。左右に、石造りの壁。突き当たりに、木の扉。
「副施設長執務室」
影は、扉の隙間に、するりと、入った。
その部屋は、孤児院のどの場所よりも徹底して統制されていた。
部屋の四方を囲む本棚には、年代ごとに色分けされた分厚い背表紙の帳簿が、塵ひとつなく厳密な背比べのように並んでいる。床の絨毯は、毛並みが一方向に美しく揃えられており、さっきまで誰かがここに座っていたはずなのに、歩いた足跡すら残っていない。
部屋の主である副院長は不在だった。
しかし、主のいない部屋は、まるで持ち主の鋭い眼光が空気中に溶け出して凍りついたかのような、肌を刺す緊張感に満ちている。
部屋の中央に鎮座する、黒漆塗りの大きな執務机。
その上には、やはり定規で測ったかのように正確な角度で、羽根ペンとインク瓶、そして書類の束が配置されていた。乱れはどこにもない。だが、——その完璧な調和の中に、ひとつだけ異物が紛れ込んでいた。
影は、机に近づいた。
机の真ん中に置かれた、一通の手紙。
……読める?
影が、書類の上で、止まった。
……やってみて。
影が、わずかに、震えた。
律子の頭の中に、文字の輪郭が、届き始めた。
全部ではない。霞んでいる部分がある。しかし、いくつかの単語が、形を持った。
「聖騎士団附属慈善管理局」
……来た。
「素材管理台帳 提出のこと」
……来た。
「リミニ商会連合 グロッソ商会」
……来た。
……繋がっている。
……この孤児院と繋がっている組織が分かる。
……これは、証拠になる。
影が、また、震えた。
律子は、半分だけ目を開け、手元に用意しておいた紙を目の前に置いた。
影の視界と、紙を半分ずつ、重ねるように見る。
しばらくすると、紙の上に、薄っすらと文字が浮かび上がった。
額に汗が浮かぶ。
そのまま、じっと見ていると、文字がだんだんと濃くなっていく。
……出来た。
律子は、息を吐いた。
……影さん。ありがとう。
……ジーナのところへ戻って。
◇
その間、ジーナは、テオドラと歩いていた。
「——修道女の方は、何人いらっしゃるのですか」
「常駐が六人、通いが六人です。子供が五十三人もおりますから、——なかなか、てんやわんやで」
テオドラが、笑った。
「ああ、ここは洗濯場ですね」
ジーナが土間になっている部屋を覗き込んだ。たくさんの衣服が積まれ、一部は掛けてあった。
「すごい量ですね。全部、刺繍で名前がつけてある」
「ええ、洋服も一人一人別々です。——雨が降ると干せなくて大変」
「分かります。お屋敷でもお洗濯は大事なお仕事で」
ジーナが勢い込んで話そうとした時に、ジーナの足元に、何かが戻ってきた。
するりと、滑り込んでくる感触。
ジーナは、足元を一瞬だけ見た。
影が、戻っていた。
ジーナは、また、後ろ手で、親指を立てた。お帰り、の合図。
「——さあ、次は子供たちの様子も見ていただきましょうか」
テオドラが、廊下を戻り始めた。
ジーナは、後に続いた。
足元の影が、また、静かに、ついてきた。
◇
廊下を戻りながら、テオドラが足を止めた。
開いた扉から、子供の声が聞こえた。笑い声。それから、誰かがくすぐったそうにしている声。
「——ちょうど、散髪の時間ですね」
テオドラが、扉を少し広げた。
ジーナは、覗いた。
広めの部屋。窓から秋の光が差し込んでいる。椅子が四脚、並んでいた。それぞれに子供が一人ずつ座って、修道女に髪を切ってもらっていた。
小さな男の子が、くすくす笑っている。修道女が「じっとしていなさい」とたしなめる。女の子は背筋を伸ばして、少し得意そうな顔で座っている。別の男の子は退屈そうに足をぶらぶらさせていた。
「次は誰?」
修道女が言うと、
「はい、私!」
子供の一人が元気に手を挙げる。椅子にちょこんと座る。修道女が子供の後ろ髪に鋏を当てる。
「かわいいですねぇ」
「ええ、月に一度の散髪です。みんな、終わるとさっぱりした顔をして」
「楽しそうで何よりです」
テオドラが、また歩き始めた。
「——次は庭をご覧いただきましょうか」
ジーナは、後に続いた。
◇
ジーナが庭に向かっても、影は動かなかった。
律子は部屋の中を眺め続けていた。
影の視界が、部屋の中を、見ていた。
椅子に座る子供たち。
銀の鋏を持つ修道女。
律子は、気付いた。
切られた髪が床に落ちていない。修道女は子供の後ろに白い布を敷いていた。切られた髪は白布の上に落ちる。一本も床には落ちない。
そして——
修道女の一人が、小さな台の上に並んだ、白い布の小袋を手に取った。
子供の名前が、書いてある。
切り落とした髪を、丁寧に、小袋に入れた。
口を、きゅっと、結んだ。
また別の小袋を手に取った。別の名前。別の椅子の子供の髪を、同じように、入れた。
台の上に、小袋が並んでいた。五つ。六つ。おそらく子供たちの数だけ。
律子の心臓がひときわ大きく打った。
……一人ずつ。
……名前が書いてある。
……切った髪を、全部、入れている。
……これは、収集だ。
律子の手が、寝台の上で、扇子を握る手に力がこもった。
影は、しばらく、茫然とその光景を見続けていた。
律子は、大きく息を吐いた。
……まだ、観察は終わっていない。
それから、ジーナの足元を追って、ゆっくりと、廊下を進んだ。




