第59話 侯爵令嬢、影を見送る
聖ルチア孤児院への訪問は、それから三日後になった。
律子はその日、自分の部屋に一日こもることを決めた。
マルチェッラにそれを伝えた。
「マルチェッラ」
「どうされました、お嬢様」
「お母さまが生前に用意していた寄付用の物資を見つけたので、今日はロドリゴとジーナにお願いして孤児院へ届けてもらいます。」
「ええ、お聞きしております」
「私は読書に専念いたします」
「畏まりました」
「お部屋にどなたもお通しにならないで」
「畏まりました」
「お食事も朝に簡単なものをお持ちいただければ結構」
「畏まりました、お嬢様」
マルチェッラは一礼した。
◇
空は薄曇り。夏の終わりの陽が雲の隙間から射している。
ジーナが馬車で出立した。絹のおくるみを抱えて。ロドリゴが御者頭として馬車を出した。
「お嬢様のお遣い、お任せください」
「ありがとう、ロドリゴ。行ってらっしゃい、ジーナ」
「行って参ります、お嬢様!」
律子は玄関で二人を見送った。ふと見上げると、屋根の上からアウレリオが馬車を見ていた。
昨日、ジーナたちの護衛が必要か聞かれたが、律子が断った。
孤児院を警戒させてはいけない。あくまで善意の寄付者を装う。
馬車が屋敷の門を出ていった。
◇
律子は自室に戻って、扉に鍵をかけた。寝椅子に身を横たえた。目を閉じた。
……影さん。
……お願いします。
律子は「人から見られない」、ことに慣れていた。その感覚が蘇る。
影がお屋敷を離れていく気配。律子の身体の片側が少しだけ軽くなる。影は馬車のジーナの影に潜んでいる。
しばらく、何も流れてこなかった。律子は目を閉じたまま待った。
馬車の揺れの感覚。ジーナの影の揺れ。だんだんと外の景色が流れ始めた。
……見える。
◇
馬車が、王都の石畳を、ゆっくりと、進んでいた。
秋の朝の光が、窓から、斜めに入ってくる。
ジーナは、膝の上に両手を置いて、背筋を伸ばしていた。見学のご婦人の格好。薄い青のドレス。律子が選んだ。「孤児院の訪問者として、目立たない色が良いわ」と言った。
ジーナは、足元を見た。
影が、床の上に、静かに、落ちていた。
「お嬢様。見えていますか」
影が、少し、動いた。床を、するりと、動いた。
ジーナは、頷いて、そして小声で、言った。
「——お嬢様、わたし、少し、緊張しています」
影は、動かなかった。
「——お嬢様は、緊張しませんか」
影が、少し、首を傾けるような動きをした。
「緊張しない、——ということでしょうか。さすがお嬢様です」
影が、また、少し動いた。
「——違うのでしょうか。影さんは、表情がないから、困りますね」
影は、動かなかった。
ジーナは、窓の外を見た。石畳が、流れていく。荷車。露店。朝の人波。
「——今日は、うまくやれますか、わたし」
影が、床を、少し、伸びた。ジーナの靴先に、触れるくらいまで。
「——励ましてくれているのですか。お世辞がうまいですね、影さん」
影は、また、動かなくなった。
ジーナは、少し、笑った。
◇
律子は自室の寝椅子の上で、目を閉じたまま、影の視界を、受け取っていた。
馬車の床。秋の朝の光。ジーナの靴先。
……見えている。
少し視点を上げた。影がわずかに伸びて、ジーナの全体が見えるように動いた。
……あら。
律子の心が、少し、和んだ。
……薄い青のドレス。なかなか似合っている。
……元気なご婦人に、見える。
……うん、あの色で正解だったわ。
ジーナが、窓の外を見ていた。それから、また足元を見た。
口が、動いた。
……あれ。
……何か、言っている。
……聞こえない。
……説明した、はずなのだけれど。
……影の視界には、聴覚がない、と。
……筆談用の紙も、渡した、はずなのだけれど。
ジーナの口が、また、動いた。
……まだ、言っている。
……一生懸命に、何かを。
律子は、影越しに、ジーナの顔を見た。深刻な顔ではない。眉が、少し、下がっている。——笑っているような、困っているような。
……重要な話では、ないと思う。
……たぶん。
……たぶん、ね。
ジーナの口が、また、パクパクと動いた。
……まだ、喋っている。
……ジーナ。
……紙。
……紙に、書いて。
影を、少し、動かした。馬車の座席の脇——ジーナの隣に置いた小さな紙束の方に、影を伸ばした。
ジーナが、視線を追った。
紙束を見た。
それから、また、律子の方を——影の方を、見た。
口が動いた。
……また、口で言っている。
……だから、聞こえないんだって。
律子は、少し、息をついた。
……まあ、いいわ。
……ジーナのことだから、深刻な話ではない。
……たぶん。
律子は、寝椅子から天井を見た——目は閉じたまま——そして影の視界に、また意識を戻した。
ジーナが、窓の外を見ていた。
朝の光の中で、薄い青のドレスが、きれいだった。
……うん。
……やっぱり、あの色で、よかった。
◇
馬車が、石畳から、砂利道に入った。
少し、揺れが大きくなった。
ジーナは、背筋を伸ばしたまま、足元を見た。
「——影さん」
影が、動いた。
「今日、何か危ないことがあったら——すぐ、わたしのところへ戻ってきてください」
影は、少し、止まった。
「——あなたに何かあったら、お嬢様がずっと、影なしになってしまう」
影は、また、止まったままだった。
「だから、無理をしては駄目ですよ」
影が、少し、動いた。
「分かったということですね」
影は、しばらく静止していた。
それから、ジーナの靴先に、また、少し、触れた。
ジーナは、小さく、頷いた。
「——よろしくお願いします、影さん」
影は、答えなかった。
でも、ジーナの足元に、静かに、寄り添っていた。




