第58話 侯爵令嬢、写し魔法を使う
夏の終わりの、ある午後。
律子は、——勉強の手を止めて、窓辺に、立っていた。
庭の薔薇は、秋に再び咲くために、高さを揃えて枝を剪定されている。
……今日は、サントーニ先生が来る日。
……いつもなら、質問したい項目を、頭の中で並べている。
……でも、——今日は。
律子は、足元の影を、見た。
床の上に、静かに落ちている。夏より少し長くなった影。
……晩餐会のことを、言われるよね。
……衆人環視の中で、魔法を暴走させたのだから。
……壁に茨と、薔薇と、天秤と、チェーン。
……それから———。
律子の思考が、少しだけ、止まった。
……蛙を出した。
……影さん、あなた、————蛙を出したの。
影は、足元で、静かに伸びていた。動かなかった。
……まったく。
その時、通りから、蹄の音が聞こえた。
◇
勉強の間。
サントーニが入ってきた。乗馬服の袖を、——軽く押し上げたまま。栗色の髪が、夏の終わりの汗で少し乱れていた。
「失礼します、お嬢様」
「お運びいただきありがとうございます、サントーニ先生」
律子は令嬢の礼をした。
サントーニは、お茶が用意されているのを見て、少し安堵した顔をした。
「——あの」
席につきながら、先生は言った。
「晩餐会の話を、聞きました」
律子は、令嬢の所作で、向かいに座った。
……やっぱり。
「左様で、ございますか」
「——すごかった、と、聞いています」
……「すごかった」。
「壁一面に、というのは」
「ええ」
「茨が出て、薔薇が出て、天秤が出て、チェーン、」
「ええ」
「そして——蛙が、出た」
律子は、令嬢の笑みを、保った。
「ええ」
……保てている、と思う。
サントーニは、お茶を一口飲んだ。——眼鏡の奥の緑の目が、少し、考えていた。
「茨とかチェーンは、拘束するもの、怖いイメージで分かるのですが、——蛙は、何のために、出したんでしょう。もっと怖い動物はいくらもあるのに」
……来た。
「——思い当たることがありますか」
「——ございます」
先生が、少し首を傾けた。
「————あるんですか」
「——幼い頃の、黒歴史が、ございまして」
サントーニは、少し、間を置いた。
それから、茶器をそっと置いた。
「——魔法は、術者が隠したいことを、隠しません」
「……そのようで、ございますね」
先生は、それ以上、聞かなかった。
……先生は、深追いしない。いつも。
◇
窓の外で、風が動いた。薔薇の枝が、少し揺れた。
「——お嬢様」
「はい」
サントーニが、眼鏡を、外した。
律子は、それを見て、少し、背筋を正した。
……眼鏡を外す時は、本題の時。
「——壁いっぱいの影は、怖いです」
「ええ」
「最初はバゲットの形だった影を、そんなに複雑な文様を描けるようになったのは、——すごい進歩です。——でも」
先生は、少し間を置いた。
「それだけでは、ただの影絵です」
……そうですよね、先生。
「——影で脅かしても、脅迫による証言は無効にしかならない。——影絵は、法廷の書類には、なれない」
律子は、令嬢の声で答えた。
「——おっしゃる通りで、ございます」
「そこが、気になっていたんですか」
「——はい」
律子は、少しだけ、間を置いた。
それから、続けた。
「——実は、先生にご相談したいことが、ございまして」
「どうぞ」
「先生の写しの魔法は、対象を見て、像を紙に写す」
「はい」
「——影も、場所を見て、その映像を送ることが、できます」
「ええ」
「——どちらも同じ等価交換の中にある魔法、とすれば」
律子は、一度、息を整えた。
「影が見たものを、写しとして、持ち帰ることは——できないでしょうか」
◇
サントーニは、しばらく、黙っていた。
眼鏡を、手の中で、軽く、回していた。
律子は、待った。
……先生が、本気で考えている時の、沈黙。
……ここは、押さない。
窓の外の薔薇の枝が、また、少し揺れた。
「——理論上は」
先生が、口を開いた。
「可能性はあります」
「……」
「写しは、光を当てて像を定着させる魔法です。——お嬢様の影も、光から生まれる」
……影は光から生まれる?
「相性は、——悪くない、はずです」
「ただ」
サントーニは、少し声を落とした。
「一つだけ」
「はい」
「写しは、光を、外から当てます。——お嬢様の影の光は、内側から出ている」
「……」
「内側の光を使って写しをするなら、——さらに光を強くしなくては。その分、貴女の負担は重くなる」
「もっと影が薄くなる、ということ」
「おそらく」
先生は、そこで、少し止まった。
「——ただ」
眼鏡を、元に戻しながら。
「——僕の専門の外なので、確かなことは、言えません」
……そうだった。先生は、分からないことは、分からないと言う人。
◇
「——試してみますか」
サントーニが、机の上の本を、一冊、手に取った。古い、茶色い革表紙の本。法律の注釈書。
「この表紙を、対象に」
サントーニが、白い紙を律子の手に取らせた。
「この紙に像を写し取る」
「——はい」
「コツは、対象物と、紙を半分ずつ重ねて見る感じです」
律子は、後ろを向いてから、足元の影を見た。
……影さん。
……あの本の表紙を、持ち帰ってみて。
影が、ゆっくり、動いた。
床を這って、本の表紙に、近づいた。
そのまま、しばらく、止まった。
律子は、待った。
サントーニも、黙って、見ていた。
影が、——少しだけ、震えた。
律子の頭の中に、本の表紙が浮かんだ。輪郭。革の、質感。金の、文字の、配置。
……届いた。
半分眼を開けて、頭に浮かぶ像と、手に持った紙の両方を見る。
「——どうですか」
「——出来そうな気がします」
紙に、ぼんやりと本の輪郭が浮き上がって来た。でも、タイトルは読めない。本だということが分かる程度。
はぁ、と律子がため息をついた。
「ここまでみたいです」
サントーニが、軽く頷いた。
「——最初は、そんなものだと思います」
律子は、床を見た。
戻って来た影が、——少し、薄かった。
夏の終わりの光の中で、影の端が、心なしか、頼りなかった。
サントーニも、床を見ていた。
「——お嬢様」
「はい」
「——これを使われるなら」
「ええ」
「——一度に、使う量を、決めておいてください」
律子は、頷いた。
「畏まりました」
先生は、本を、机に戻した。
それから、少し、声を、変えた。
「——魔法は、嘘をつきません」
「——」
「影が見たものも、——本当のことだけが、残ります」
律子は、足元の影を、もう一度、見た。
少し薄くなった影が、それでも、律子の足元に、静かに、ある。
「——それが、一番です」
◇
授業が終わって、先生が帰っていった後。
律子は、一人、勉強の間に残った。
窓の外の薔薇に、夕方の光が、斜めに差している。
律子は、足元を見た。
……影さん。
……少し、疲れたでしょう。
影は、答えなかった。
ただ、律子の足元で、夕方の光の中に、静かに、伸びていた。
律子の頭が、整理した。
……写しは使えそう。でも使うほど、影が薄くなる。
……孤児院で、何枚使えるか。
……計算が、必要。
……使える枚数は、多くない。
……だから、何を最初に写すか。
……優先順位を、決めなければ。
夕方の風が、薔薇の枝を、揺らした。
律子は、扇子を、軽く、握った。
……お母さまが通われた、孤児院。
……本当のことを、見に行く。




