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第57話 侯爵令嬢の、十段階


「あら、プルデンティア様、ご機嫌よう」


 ヴィオラの声。完璧な社交の温度。しかし、顔の奥に、わずかな戸惑いが浮かんだ。


「お父さまは、お出かけ、なの?」


「ええ、ヴィオラ様。王宮へのお出かけで、ございます。——夕方まで、お戻りになりません」


「あらまあ。では——」


 ヴィオラの目が一瞬、「部屋からでる口実」を探した。


 律子はそれを、令嬢の笑みで制した。


「ヴィオラ様、せっかくお越しくださったのですから」


「私とお茶でも、いかがですか」


「お話を——お聞かせくださいませ」


 ヴィオラの表情が、少しだけ緩んだ。


 ……十三歳の令嬢のお相手なら、気楽にお付き合いできる。

 ……子供の頃の逸話も——仕入れてある。


 ヴィオラはそう判断したようだった。


 律子の心の中でカチリ、と記録した。


 ……第一段階、緊張の解除——成功。


 ヴィオラは向かいの椅子に座った。マルチェッラがお茶を運んできた。


 お母さまのお気に入りの白磁のカップ、ではない。今日は別の茶器。律子が前もって指示していた。


 ……お母さまのカップを——ヴィオラが使うことは、もうない。


 ヴィオラはお茶を口に運んだ。律子もお茶を一口、いただいた。


「最近の社交界のご様子は、いかがですか、ヴィオラ様」


 律子は穏やかに聞いた。完璧な令嬢の世間話。


「ええ、色々と、忙しいですわ」


「あらまあ。お疲れ様でございます」


「秋の舞踏会のご準備で——」


「あら、楽しみ、ですわね」


 律子は令嬢の笑みで頷いた。


 会話は緩やかに流れた。ヴィオラの顔は徐々に警戒を解いていった。


 律子は時計を見ていた。


 ……三分、経過。

 ……ヴィオラは、完全にくつろいだ。

 ……第二段階、閉じた質問で、——行動の輪郭の固定へ進む。


 ◇


「そう言えば、ヴィオラ様」


 律子は少しだけ首を傾けた。令嬢の好奇心の所作。


「コルソ通りのお茶屋、ご存知ですか?」


 ヴィオラ様のお茶を運ぶ手が一瞬、止まった。しかし、——すぐに続けた。


「ええ、あそこは有名なお店、ですから」


「あら、私はまだお訪ねしたことが、ないの。——美味しいですか?」


「ええ、お茶もお菓子も——」


「よくお出でになりますの?」


 ヴィオラの目が一瞬、揺らいだ。しかし、律子のお顔は完璧な令嬢の好奇心。「お友達の話を楽しみたい、年頃のお嬢様」、の温度。


 ヴィオラは警戒を続けるか、軽く流すか、判断している。


「——時々、お友達とご一緒に」


 律子は内心、カチリ、と記録した。


 ……第二段階、成功。

 ……コルソ通り、お茶屋に通っている事実を、確定。

 ……ヴィオラの口から、引き出しました。

 ……次は、どんなお友達か。


「あらまあ、どんなお友達と?」


「——古い、舞台仲間で、ございますわ」


 律子は令嬢の笑みで頷いた。しかし、内心は既に次の判定をしていた。


 ……第三段階、曖昧化を誘発——成功。

 ……「古い舞台仲間」。

 ……男性の友達の存在を覆い隠す温度。

 ……前世の調停で、百回聞いた。

 ……女性の友達と男性の友達を「舞台仲間」と一括りになさる。

 ……男性一人の存在を隠している。


 律子は令嬢の所作で続けた。


「舞台仲間、楽しそうでございますね」


「ええ、昔話に花が咲きますわ」


「皆様、大勢でお集まりになるの?」


「——時には大勢で、時には一人ずつ、ですわ」


「あらまあ」


 ヴィオラの目がもう一度、揺らいだ。


 律子は次の質問を投げた。


「お茶屋の、二階の奥のお部屋、快適でいらっしゃいますか?」


 ヴィオラ様の息が止まった。


 律子は心の中で、カチリ、と記録した。


 ……第四段階、矛盾の蓄積——成功。

 ……「二階の奥のお部屋」を、私が知っているとお示しました。

 ……「お友達」が複数なら、一階のフロアがふさわしい。

 ……ヴィオラ、矛盾をお抱えになりましたね。


 ヴィオラの顔の色がわずかに変わった。お茶のカップを持つ手が、ほんの少し震えた。


 ヴィオラはお茶のカップを置いた。目を律子に向けた。探るような目。


「プルデンティア様、——」


「はい?」


「貴女、何がおっしゃりたいのですか」


 ヴィオラの声は低くなった。


 律子は内心、カチリ、と記録した。


 ……第五段階、抵抗の誘発——成功。

 ……「ご質問の趣旨が分かりかねます」、の典型的な逃げ。

 ……前世の調停で、これも百回お見受けしました。

 ……これで、ヴィオラが、「何かが起きている」と悟った。

 ……いよいよ、第六段階。


 律子は膝の上の左手の扇子をわずかに持ち上げた。お母さまの扇子。オリーブの薄金。まだ、閉じている。


 律子は少しだけ笑った。令嬢の笑み、ではなく。もう少し別の温度で。


「ヴィオラ様」


「……はい」


「素敵なお言葉を、ご存知ですか?」


「お言葉?」


 律子はお母さまの扇子を開いた。


 パチン。


 軽い音。オリーブの薄金が応接間の午後の光に揺らいだ。


 律子は扇子で口元を隠した。令嬢の所作。しかし、目はヴィオラを真っ直ぐに見ていた。


「Mio, tesoro, splendido」


 律子はゆっくりと発音した。


 ヴィオラの息が完全に止まった。


「意味は『私の素敵な宝物』、と伺いました」


「素敵なお言葉ですわね」


「そういうお言葉を掛けてくださるご友人がいらっしゃると、——幸せでいらっしゃいますね」


 律子は扇子の向こうから令嬢の笑みを見せた。しかし、目は笑っていなかった。


 ヴィオラの顔から色が引いた。お茶のカップを持っていた手が、膝の上に落ちた。ヴィオラの口がわずかに開いた。しかし、声は出なかった。


 律子は内心、カチリ、と記録した。


 ……第六段階、決定打——成功。

 ……ヴィオラ、精神的崩壊。

 ……次は、第七段階。

 ……共感、理解の表明。

 ……ここで責めるのではなく、理解を示す。

 ……家事事件の——ベテランの技。


 ◇


 律子は扇子を少しだけ下ろした。優しい温度の声で続けた。


「ヴィオラ様」


「……」


「私はお責め申し上げているのでは、ございません」


 ヴィオラの目が一瞬、律子を見た。予想外の温度。


「お年下の方にお心を向けられる、——良いことでございますわ」


「……」


「未亡人のお立場で、お年寄りの側に寄り添われる、その、お辛さも、想像がつきます」


 ヴィオラの目がもう一度、揺らいだ。今度は別の揺らぎ。


「お父さまの資産は魅力的でいらっしゃる」


「侯爵夫人のお立場も、——魅力的でいらっしゃる」


「しかし、お心は若い方に惹かれる」


「人の心は、そんなものなのでしょう」


 律子の声は優しかった。十五年間、家事事件の調停で磨いた共感の温度。


 ヴィオラの顔が歪んだ。


「貴女、一体——何を」


 絞り出すような声。


 しかし、律子はそれを意に介さず、頭の中では関連情報がめぐらせていた。


 ……民法、第七百七十条、第一項、第一号、不貞行為。

 ……民法、第七百九条、不法行為。

 ……第七百十条、精神的苦痛に対する損害賠償。

 ……最高裁、昭和五十四年、三月三十日、判決。

 ……「不貞行為は、単なる浮気ではない。——配偶者の権利を侵害する不法行為である」。


 ……お父さまとヴィオラは、まだ婚姻関係にない。

 ……しかし、婚姻に至る前提として築かれていた信頼関係の侵害。

 ……不法行為性の類推は、適用可能。

 ……求償関係を、お父さまから放棄いただく形で処理。

 ……家事事件のベテランの典型的な解決。


 律子は扇子の向こうから、優しい温度で続けた。


「ですから、ヴィオラ様」


「……」


「お辛いお立場、私にも分かります」


「お父さまにはお話、申し上げません」


「そして、お父さまからヴィオラ様へ何も求めません」


 律子は少しだけ首を傾けた。


「これを、——求償権の放棄、と申します」


「お父さまがヴィオラ様にお持ちになるはずの、請求の権利を放棄する。——要するに何もお咎めしません」


「ただし、条件がございます」


 ヴィオラの顔が青くなった。律子は心の中で記録した。


 ……ヴィオラが気づいた。

 ……「こんな十三歳がいるわけがない」。


 ヴィオラの顔は蒼白になっていた。唇が震えていた。


 律子の前世の頭は、ヴィオラの戦慄を観察していた。


 ……前世の調停で、何回か見た、「完全な逃げ場を喪失」、の顔。

 ……いよいよ、第八段階、条件の提示。


 律子は扇子を優しく揺らした。


「条件が、三つ、ございます」


「……」


「第一、本日、ただ今をもって、お父さまのお側には、一切、お近づきにならないこと」


「第二、社交界で、お父さまの評判を傷つけるご発言を、なさらないこと」


「第三、本日のお話を、他言なさらないこと」


「以上、お受けいただけますか?」


 ヴィオラの口がわずかに開いた。しかし、声は出なかった。律子は少しだけ待った。


 ヴィオラの息が一度、荒くなった。——それから、絞り出すように声を出した。


「——お受け、いたします」


 律子の内心はカチリ、と記録した。


 ……第九段階、観念——成功。

 ……あとは、退場のみ。


 律子は優しい温度を保った。


「ありがとう、ございます、ヴィオラ様」


「……」


「お父さまには、『ご事情で、お側を、引かせていただきます』、とお伝えになって、お引き取りください」


「お父さまのお心は、少しだけお痛みになるかもしれません」


「しかし、『裏切られた』、と知る痛みよりは、軽いに違いありません」


 ヴィオラは立ち上がった。顔はまだ蒼白。目は律子を見ていた。


 ……このお嬢様。


 ヴィオラ様の心の声が、聞こえるようだった。


 ……一体、何者?


 律子は立ち上がって、令嬢の礼をした。


「ヴィオラ様、お見送り申し上げます」


「……」


「どうぞ、お元気で」


 ヴィオラは口を開いた。しかし、声は出なかった。代わりに一礼した。逃げるような浅い礼。


 ヴィオラは応接間を出た。律子は扇子を閉じた。


 パチン。


 軽い音が、応接間に、残った。


 ◇


 律子は立ち上がった。応接間の隅の棚に向かった。棚の奥に、お母さまのお気に入りの白磁のカップがしまわれていた。ヴィオラが一度だけお使いになった、あのカップ。


 律子は白磁のカップを両手で取った。軽かった。冷たかった。お母さまの瞳と同じ色の、淡い青の縁取り。


 律子はカップを胸に抱いた。


 ……お母さま。

 ……あの女は、退場いたしました。

 ……彼女が、このカップを使うことはありません。


 でも、プルデンティアの心が、少し傷んだ。


 ……お父様が、笑っていた。

 ……お父様が、また一人になってしまう。


 律子の頭が、それを整理した。


 ……お父様の笑いは、——本物だった。

 ……でも、ヴィオラは、——本物では無かった。

 ……私は、お父さまの笑いを護りたい。

 ……お父さまの、本物の笑いに値する方が、——いつか。

 ……お父さまにふさわしい方が現れるまで、——このカップは、仕舞っておきます。


 律子はカップを大事に両手で持って、応接間を出た。


 律子はお母さまのお部屋に向かって歩いた。


 ……十五年、前世で磨いた、調停の技。

 ……十三歳の身体が使い切った、その午後。


 律子の口元は少しだけ上がっていた。弁護士の「勝訴」、の笑み。


 夕方の光が廊下に傾いて差していた。律子の影は確かに律子の足元にあった。


 律子は内心、影に語りかけた。


 ……ありがとう、影さん。

 ……今日も、一緒にいてくれたわね。

 ……お疲れ様。


 影は応えなかった。しかし、形が少しだけ丸くなった。


 律子の口元の笑みは、廊下の向こうまで消えなかった。弁護士の勝訴の笑み。しかし、疲れた笑み。


 ……四十三歳と十三歳の、両方の顔が、同時に笑っていた。


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